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フィリア3 (3)

 そんなわけで、私のマンションの前で彼と別れた時、日はとっぷりと暮れていた。腕時計は九時少し過ぎをさしていた。

 エレベーターの奥の壁にぴったり背を押し付けて、私は部屋のある三階まで上がった。

 ベルが鳴り、扉が開く。廊下に出た時、部屋の前の人影に気づいた。

 乳白色の電球の下で立っているのはランドルだった。白いシャツに黒の上着。彼が暗闇の中で背を向けたなら見つけることはできないだろう。

 私は無意識のうちに、キスマークのあった首筋を押さえていた。彼は今まで見た中で、もっとも優しく微笑んでいた。私の名を呼び、こちらへ近づいてくる。

 私は立ちすくんだ。彼の瞳には魔力があるようだった。人を引きつける魔力。それでも、彼が実際に近づいてくるのだという実感は強かった。

 体が熱くなるのを感じた。冷え切った指先まで汗ばんでくるような。私は早く部屋に入りたかった。彼がいなければどれだけいいかと思った。

 部屋に向かって一歩を踏み出す。すると、ランドルの瞳が震えたようだった。魔力はみるみる失われていった。

 彼はしっかりと口をつぐんで、傍を通り過ぎる私を見た。瞳は見開かれ、失われた力を取り戻そうとしているかのようだった。

 首筋を押さえていた手で、ショルダーバッグの中をまさぐり、鍵を取り出そうとした。

 彼の存在など忘れてしまいたかった。鍵が見つかり、鍵穴に差し込んだとき、私の肩が掴まれた。私は彼の声を聞く前に言った。

「昨日の夜のことは忘れます。だから帰って下さい」

 銅色のドアノブを見つめた。裸電球に照らされて鈍い光を発している。

 ランドルは何も言わなかった。辺りは静まり返っていた。注意を傾ければ、彼の息の音さえ聞こえそうだった。

 沈黙と静寂。それは私の不安をかきたてた。

「私は母とは違うわ。もし、あなたが私の中に母を見つけようとしているのなら……」

 冷静さを保つように早口で言う。それはこの場で思いついた言葉だったが、そうであれば合点がいくと思った。

 美しく、誰からも好かれていた母。私は何も受け継いでいなかった。その輝く金の髪も。清水のような青い瞳も。母のイメージで娘の私をとらえようとした人たちが一様に見せる失望の色。彼がそう感じないと誰が言えるのだろうか。

 不意に肩の上の手に力が入った。力任せに私を振り向かせる。

 肩が一瞬痛んだ。私は彼と至近距離に向かい合っていた。電球の光が逆光になって、顔に影をつけている。まったく感情が読み取れなかった。私は恐ろしささえ感じ始めていた。

「覚えてないのか? 昨日の晩のこと、わたしを求めてきた時のこと、わたしに傍にいてほしいと願ったこと……」

 ゆっくりと区切るように彼は言った。私に言い聞かせるように。私自身の発言を改めて考えさせようとするように。

「覚えてるわ。でも、あのときの私は……」

 自分でも声が上ずっているのを感じる。どうして、これほど心が乱れるのだろう。昨夜はお酒が入っていた。ただ酔っ払って口を滑らせただけなのだ。心にもないことを言ってしまった。そのはずだった。

 彼はゆっくりと瞬きをし、わずかに体を起こした。光のさした彼の瞳の色が沈んで見える。深淵を思わせる瞳の光が奥に引っ込んでしまったようだ。

 ベッドの上での自分が思い出されたのは、そんな瞳を覗き込んでしまったからかもしれない。顔が赤くなるのが分かった。

 首筋に改めて触れる。ここにあったキスマークは何を物語っているのだろう。

「あれは君の本音だった。だから、わたしはここにいるんだ」

 彼の言葉には確信がこもっていた。それはますます私を混乱させた。

「あなたに何が分かるっていうの?」

 私は自分でもぞっとするほど、ヒステリックに叫んでいた。彼は目を細めて、つくづくと私を見た。沈黙の間。壁を伝わり、床を這う冷気だけを感じた瞬間。

 彼は呟くように言った。

「わたしはヴァンパイアだからね」

 私はあっけにとられた。彼の正気を疑ってしまった。白い肌や閉じられた唇をまじまじと見た。曇ってしまった彼の瞳を見た。黒い睫毛と眉毛、細い髪の毛も見た。

 何処にも彼がヴァンパイアであるというものは見られなかった。

 私は、これはジョークではないかと考え付いた。私をからかっているのではないかと思った。ルースにしろ、ストロークにしろ、今日はなんて日だろう。

「伯爵はトランシルバニアにはお帰りにならなかったのね」

 精一杯の皮肉を込めた言葉。彼はぼんやりとした。数秒後、やっと分かったらしい。その瞳が微かに揺らいだ。

「あのヴァンパイア小説か。誤解の源。作られた偽り。わたしたちと現実を阻むものだ」

 静かな掠れたような声。私の背筋に冷たいものが走った。それが彼の狂気からか、それともヴァンパイアの影ゆえなのか分からなかった。

 彼が私に暴力を加えるなんて、どうしてもイメージがわかなかった。

「現実の私は、おそらくクレバー・ストロークと付き合うことになると思うわ」

 そのイメージに甘えて私は言った。彼に漂う静けさに触発されたといってもいいかもしれない。

 次に起こることなど想像もしていなかった。彼が何をするかも分からなかった。

 低い唸り声が耳に入った。獣そっくりの唸り声。

 彼が私に飛びかかってきた。乱暴にドアに押し付けられる。軋むドアの音が悲鳴のように聞こえた。

 凍りついた私の眼前で口を大きく開けた。人間のものとは思われない鋭い犬歯が見えた。

 私は息が詰まってしまった。声をあげることができない。

「……これが現実なんだ」

 呻くような声。彼は唇をほとんど動かさずに言った。

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