フィリア3 (2)
長い二つの影が芝生の上を動いていく。影は煉瓦、石畳に移って行った。
私達は街へ出ていた。行き交う車の何台かがライトを点している。薄闇が街を包もうとしていた。
完全に日が落ちる前、ルースの知っているレストランに入った。
洒落た店内。壁にかけられた絵画に落ち着いた音楽。テーブルの上には一輪挿しのラッパ水仙が飾られている。
料理の匂いと人々の柔らかい話し声。
ウェイターがやって来て、席に案内してくれる。
ルースの後ろに続く私は少なからず緊張していた。こんな店に来るのは久しぶりだった。
「ルース!」
聞き覚えのある声。あの本屋の店員、クレバー・ストロークだ。
彼がテーブルについたまま、こちらに手を振っている。薄い紫色のスーツを身につけていた。そんな格好を見たのは初めてだった。別人のようだ。
ルースは私の腕を引っ張って、彼のテーブルへと近寄った。
立ち上がった彼が私の席を指し示す。
彼らは私を何もできない子供のように扱った。ルースは私が椅子に座ってから、ようやく自分の席に腰を下ろした。続いてストロークも席につく。
私はこの展開についていけなかった。彼らの意図が分からなかった。
ルースが肩越しにウェイターと話している。
テーブルに肘をつき、重ねた手に顎を乗せたストロークは、にこやかな笑顔を浮かべている。私も笑い返すしかなかった。
ルースが座った椅子を引き寄せる。彼女の視線が私と彼を行ったり来たりした。
「さあ、始めましょう」
その声は嬉しそうでもあった。
ストロークの笑いが消える。彼は手をテーブルから下ろし、背もたれに寄りかかった。
瞳が急に遠くなった気がした。
ルースが腕をつつく。彼は慌てて背を起こし、咳払いした。唇から握りこぶしを下ろして、テーブルへ置く。
「単刀直入に言おう。付き合ってほしいんだ、フィリア……さん」
テーブルの上で彼の手が開かれる。
私は言葉を返せなかった。彼とルースを交互に見た。そして、視線を一輪挿しに落とす。
白い花弁に淡いクリーム色のカップ。しっとりとした優しげな花だ。料理の匂いを邪魔しない、ほとんどなきに等しい香り。丸みを帯びたガラスの花器に飾られている。
私はもう二人に視線を戻せなくなってしまった。花器の下のレースを観察するようにじっと見るしかない。ルースが身動きしたのが分かった。
「考えてみてもいいんじゃないの? 私、あなたを見ていられないって感じる時があるの」
ウェイターがワインの入ったバスケットとグラスを持ってきた。そのおかげで、私はテーブルから目が離せた。それらが置かれるのを見守った。
ルースが立ち上がる。膝の上の上着とバッグを手にして。
彼女はウェイターと言葉を交わした。会計票を受け取る。
「あなた達はゆっくりしていきなさい。ワインを有意義に使うのよ」
ストロークが席を立った。彼女の手の紙を返してもらおうとする。だが、頑としてルースは聞き入れなかった。
私に手を振り、ストロークから逃げ出すようにテーブルを後にした。残された彼は息をつきながら席に戻った。
ウェイターが最初から二つしか用意していなかったグラスにワインを注ぐ。グラスがそれぞれの前に来て、ウェイターが去ってから、私は初めて口を開いた。
「どういうことなんです?」
ストロークはグラスを手に取り、一口飲んだ。味わうように目を細め、私に飲むように勧める。
私は手を膝の上に押し付けたままだ。すると、彼はグラスを下ろし、席に深く座りなおした。
「たまたま、僕達の友人が共通していたんだよ」
それは知らないことだったが、考えてみれば不自然なことではなかった。彼女の家は私のマンションからそう遠くはなく、また、その辺りで本屋といえば彼の勤め先くらいなものだった。
彼は微笑んでいる。レストランのふんわりとした明かりの中、その表情は余計優しげに見えた。口調もいつもより柔らかいものに聞こえた。
「彼女はどういうつもりなんです?」
私はそういう雰囲気にためらいながらも聞いた。
「君が気になるみたいだね。僕もそうだった。でも、彼女のようには考えられなかった。こういう発想は女性のほうが得意なのかなぁ。つまり、付き合うってことさ。彼女の持論で言うなら、交際っていうのは人を豊かにさせるものらしい。僕は君が気になっていた。だから、彼女の言葉に耳を傾けたんだ」
彼は慎重に言葉を選んでいた。
それでも私が察するには十分だった。これはルースのお節介に始まっていることだと。
彼女が残していったワインに目をやった。バスケットの中でクロスに包まれ、汗をかいているボトル。光が反射して、液体の水面が光って見える。
「私達は友人だと思うけれど。それじゃ不十分なのかしら」
「随分、広い意味の言葉だからね」
ボトルから目を離さずに言った私の意図を彼は感じ取っていたようだ。
「すぐに返事をもらおうなんて思っていないよ。今日は食事だけでもしていこう。君と食事するなんて初めてだよね」
そういえば、そうだった。私達は本屋の前で言葉を交わすだけの間柄だった。私は先ほど、そんな彼との関係を友人だと言ったことを考えていた。
口をつぐみがちな私を、彼はフォローしてくれた。食事の間中、彼はいつもにも増して自分から話を持ちかけていた。
私はそんな彼に感謝しながら、胃にさっぱり溜まった気がしないままに料理を口にしていた。フランス料理だかなんだったか、味さえよく分からずじまいだった。




