ランドル3 (3)
夜明けは近かった。東の空の闇が次第に薄くなっていく。
わたしは屋敷にたどり着いていた。白い壁のごく普通の館で、人間のヴァンパイア映画に出てくる類のものではなかった。
中に入り、廊下を抜けて、重い隠し扉の向こうの地下室への階段を下る。
地下室は広く、いくつかの部屋に分かれていた。日の光が絶対に差し込むことのない快適な部屋部屋。
煉瓦壁の廊下は暗闇に満たされていた。それでも、わたしは自分の部屋の扉近くで何かが動くのを見て取り、立ち止まった。そこにいたのは、ナイトだった。
白いシャツを身に着けているナイトは、こちらへ向き直った。黒っぽいベストのおかげで、首と白い両腕だけがふわりと宙に浮いているように見えたものだ。
彼はわたしに纏わりつくような視線を投げかけていた。
異様なほどの静けさ。沈黙が永遠に続くのではないかと思った時、彼が口を開いた。
「随分と遅いお帰りじゃないか。お前にしてはな」
ゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。
「心配して待っていてくれたって訳か?」
口にしたものの、そうではないことは分かっていた。
彼は過保護な父親ではなかった。同じ家に住むというのに、鉢合わせになることもそうなかった。何日ぶりだろう。こうして向かい合うのは。
ナイトは微笑みをもらした。ゆっくりと首を横に振る。だが、それも一瞬のことだった。にわかにその表情は失われ、冷静な観察者のような目に戻っていた。
「あの娘の所に行っていたのか?」
声さえも色を失ったようだ。
わたしは答えることなく、彼を見返すだけだ。
彼はわたしの傍まで来た。琥珀色の瞳は鮮やかな光をたたえている。
「恋は狂気だとはよく言ったもんだな。約束を破り、警告を無視するなんて、お前らしくないじゃないか。まったく……」
「お膳立てをしたのは、そっちだろう」
冷静を努めて言い返す。感情的になって揚げ足を取られるのは御免だった。
「あれはきっかけに過ぎなかった。お前は拒否することもできたんだ。遅かれ早かれ、お前は彼女の元を訪れていただろう。あの子を使うまでもなく、いつかそうなっていたさ。お前の決心は、結局その程度のものだったということだ」
ラヴェル作曲の『ボレロ』のように、その声は次第に力強さを増した。わたしを挑発しているのではないかと勘ぐったくらいだ。もっとも、ナイトはいつもこんな感じだったが。
黙り込むわたしに向かって、彼は言葉を継いだ。
「彼女とは別れろ。記憶を消して、なかったことにするんだ。今ならまだ間に合う」
まだ間に合う――その言葉は、見事に外れているように聞こえた。
今となっては、彼がネズミ姿をしたわたしの前に現れたときには、すでに遅かったのではないかとさえ思える。
わたしは口をつぐんだままだった。
「ランドル! お前のためばかりじゃない。彼女のためでもあるんだぞ」
肩に手がかかる。そう背が違わないせいで、彼の顔を正面から見つめることになった。
そこにあったのは怒りではなかった。強い口調にもかかわらず、その表情は気遣いに満ちていた。いつもの飄々とした雰囲気はどこへ行ってしまったのだろう。
わたしは彼の手をそっと払った。
「フィリアはわたしが守る」
「……なんだと?」
ナイトは愕然とする。
「彼女はわたしを求めてくれた。傍にいてほしいと。わたしはそれに応えたいんだ」
彼はかぶりを振った。何か否定的な言葉をぶつぶつ呟きながら、背を向ける。片手で髪をかき乱しながら、溜め息をついた。
「彼女が求めているのは人間のお前だぞ」
「自分が何者なのかはよく分かっている。フィリアには明日会ったとき、全てを話すつもりだ」
指先を髪に食い込ませたまま、彼は床を見つめていた。それから微動だにしない。わたしの言葉は届いているのだろうか。
「覚悟はできているってわけか?」
遅れての苦々しい声。こちらに背中を向けたまま。
「ああ」
わたしの答えに、彼は顔を上げた。肩越しに振り返る。横顔が見えた。そう思ったときだった。次の瞬間、姿を見失った。
身構えることもできなかった。気が付いたときには、壁に叩きつけられていた。
衝撃に息を詰まらせる。前屈みになろうとする身体を肘で押さえ付けられた。その両眼に宿る光は鋭く、今まで見たこともないようなものだった。まるで眼で射殺そうとするかのように、わたしを見つめている。瞬きをすることさえ、はばかられた瞬間。
「本気なんだな?」
再び彼は聞いた。感情が一切失われてしまったような、聞くものを凍りつかせるような声で。 唇からは牙が覗いている。見るものを脅かす白い牙。
「……選ぶのは彼女だ」
声を詰まらせながら、ようやくわたしは答えた。
ナイトの喉から唸り声が漏れる。そして、彼は手を離した。わたしから離れ、通路の中央に立つと天井を仰ぎ、そして……。
「あぁ、もう!」
彼は大きな叫び声を上げながら、両手を振り下ろした。
「止めようがないじゃないか。迷いがないんだから」
それは誰に向かっての言葉だろう。彼はわたしに振り向いた。
「それに、その分じゃ止めたって聞きやしないだろう。俺がどれだけ脅したとしてもな」
再び近づいてきて、わたしの顔を覗き込む。ほとんどキスでもしそうな勢いだった。
「それだけ強い思いがあるなら、彼女の全てを奪ってでも、連れて逃げちまえって言いたいところだが……。それはお前の本分じゃないだろうしな。それだって聞く気はないんだろう?」
右手が眼前に持ち上がる。わたしは思わず、壁に頭を押し付けた。幼い時分の記憶が一瞬のうちに蘇ったのだ。
乾いた小枝を踏み割ったような音がする。彼は人差し指でわたしの額を弾いていた。
「だいたい、お前は子供の頃から頑固だからなぁ。誰に似たんだろう。俺じゃないよな」
いたずらっ子のような表情を浮かべる。
先ほどまでとは一変していた。驚いたことに彼はわたしに微笑みかけた。
疼く額に手をやりながら、未だにわたしは、壁に身体をもたせかけたままだった。
彼は何かを思い出したように、目を細めていた。おそらくそれは母のことだろう。彼にこんな表情をさせることができるのは、彼女だけなのだ。
冷え冷えとする壁からやっと離れた時、ナイトは天井を仰いでいた。
高さのあるアーチ型の天井。強まっていく朝の気配。当然、彼もそれを感じているはずだ。天を見つめるナイトの瞳が輝いて見えた。まるでろうそくの焔のようだ。ちらちらと燃え盛っている。
ナイトは再びわたしに背を向けた。欠伸のような声を上げて、彼はその場で伸びをした。気持ちの良さそうな唸り声。背を反らし、姿勢を整えてから、振り返って言った。
「もう寝るか。夜明けだぞ」
彼は微笑みを浮かべていたようだった。それも、すぐに身体を戻してしまったために、見えなくなってしまったが。
彼は歩き出した。
冷ややかに響く足音に、わたしはエリーゼのことを話し損ねたことに気づいた。だが、彼をとどめる気にはなれなかった。今、彼に話す必要はないように思われた。死は永遠に継続していくものなのだから。
それを今日話そうが、明日話そうが、事実は変わらない。不死に近いヴァンパイアにとって、死の捉え方は人間とは違っていた。わたしたちには遠い現実だった。
わたしはドアを開いて、部屋に入った。
壁際に置かれたテーブルの上のライトスタンドを点す。ヴァンパイアらしくないと思うが、光を見るのは嫌いではなかった。エリーゼの影響だろうか。
上着を脱ぎ捨てて、ベッドに腰掛ける。
飾り気のない、眠るためだけの部屋。窓もなく、大きな棺を連想させる部屋。冷たい石壁を壁紙が隠してしまっている。それでも、四方から朝の冷気が包み込んでいるのを感じた。特有の泥のような倦怠感が襲ってくる。
程よい硬さのマット。わたしは横になった。狭く、固い繻子張りの棺の底に比べたら、どれだけ心地よいことか。もっとも、今やヴァンパイアが棺を用いるのは、それほど多いことではなかった。
夜明け間近で、眠気は強まっていった。うんざりするような睡魔に襲われていた。
ライトを消すこともままならなかった。シーツを引き上げることもできずに、わたしは眠り込んだ。
棺よりもはるかに安全で、太陽の光を完璧に遮ってくれる部屋の中で。




