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ランドル3 (2)

 寝室に入ると、漂う薔薇の香りに気づいた。

 わたしの贈った薔薇がガラスの花瓶に入れられ、ベッドの傍の小さなテーブルに置かれている。花はちょうど盛りを迎えていて、固かったつぼみもまたほころびを見せていた。

 彼女は薔薇をそばに置いてくれていたのだ。それは甘い香りとともに、彼女への思いをさらにつのらせた。

 わたしはフィリアをベッドに下ろした。横たえた体にふわふわとした布団をかける。

 彼女は、わたしの方を見ている。わたしは身を引いた。

「君が話してくれて、嬉しかった」

 じっとわたしを見つめたままだ。

 何か言いたそうにしていた。彼女自身、それがどういう言葉か分かっていないようだった。無言のまま頬にかかる髪を払っている。

 わたしは再びベッドへ寄った。フィリアが見ているのを知りながら。その額に口付けていた。

 彼女は体を震わせた。

「おやすみ」

 そう言って、わたしは体を起こした。

 彼女に背を向ける。そう、もう退くべきだと分かっていた。

 今すぐにでもこの部屋から出て行き、また出直してくるべきなのだ。彼女もわたしも冷静でいられる日に。感情に流されずに話せる日に。

「あ……」

 背後から小さく聞こえてきたフィリアの声。そして、彼女が起き上がる気配がした。

 見てはいけない。今の彼女を見たなら……。

 だが、わたしは振り返ってしまった。振り返らずにはいられなかった。

 薄闇の中の彼女は、なんと儚く見えるのだろう。ネズミの姿で見上げていた時とは、まるで違っていた。小さく頼りなげに見えた。ベッドにいるのに温かさを感じてはいないようだった。

 彼女はわたしと目が合うと、まるで屈辱のようにうつむいてしまった。

「フィリア……」

 わたしはもう迷わなかった。腕を伸ばして彼女を抱きしめる。

 彼女は目を見開いてわたしを見た。息を止めたまま。愕然としていると言ってもよかった。

 その瞳から涙が溢れてくる。

 力を失ったかのように、わたしの腕の中にいた。わたしは彼女の存在を実感していた。

 伝わってくる柔らかさ、そして温かさ。心臓の音まで聞こえてきそうだった。

 フィリアはわたしの胸を押した。肩でしゃくりあげている。

「こんなこと必要じゃないわ、私には……!」

 それは叫びに近かった。彼女は体をよじり、わたしから逃れようとした。

 だが、どんなに力を入れてもそれは無理なことだった。わたしは放す気はなかった。

「あなたも同じでしょう? 私をおいて行くんでしょう? それなのに……」

 拳がわたしの胸を叩く。涙がぽろぽろとこぼれ落ちていった。

 わたしは彼女の体を胸に押し付けた。もう少しで力の加減を忘れてしまうところだった。

 身動きが全くとれなくなったフィリアは、ただ泣くだけだった。

「おいてなんか行きはしないよ。君の元から去ったりしない。わたしにとって、君がどんな存在か、想像できるかい?」

 わたしは彼女の髪を顎に感じながら言った。

「……本当? 本当なの?」

 体の震えが伝わってくる。わたしは腕の力を緩めた。彼女の顔を見ようと体を引く。

 フィリアの手が伸びてきて、わたしの頬に触れた。彼女は涙に濡れた目でわたしを見つめていた。

「ああ、ミスター……」

 手がわたしの首にかかり、彼女はわたしにすがり付いていた。

「ランドルだ」

 彼女の背を抱く。

 なんという感覚。彼女がわたしを抱きしめているなんて。背中のフィリアの手をどんなに熱く感じたことか。

 彼女は何度もわたしの名を呼び続けた。この胸に顔をうずめて。

「離さないで。傍にいて。ずっと……」

「夜明けまで。……そして、明日も会おう」

 わたしはくらくらするほどの幸福に浸っていた。

 彼女の唇からこぼれるわたしの名前。こんなことが現実だとは。こんなことが有り得るとは思いもしなかった。

 どのくらい、わたしたちはそうしていただろう。時間など忘れ果てていた。

 フィリアの手が力をなくし、わたしの背を滑り落ちていった。

 彼女は眠っていた。この腕の中で。涙は完全に乾いている。とても安らかな表情に見えた。

 彼女をゆっくりとベッドへ寝かせる。そして、その横に寝そべった。

 フィリアの胸がゆっくりと上下している。栗色の髪が敷物のように彼女の肩を覆う。

 わたしは片肘をつき、彼女を眺めた。

 白い肌に髪と同じ色の長い睫毛。薄い紅色の唇。今にも彼女が目を開きそうな気がした。実際、彼女が起きて、わたしの名を呼ぶ姿を見たような……。

 彼女の眠りに引き摺られるように、いつの間にかまどろんでしまった。気持ちのよい、うとうとした感覚。暖炉を前にした語らいのように安らかな。

 突然、何かの信号がわたしの体を貫く。

 “警告”

 わたしは現実に引き戻された。はっと目を開き、体を起こして背後の窓を見やる。

 静寂の中、暗闇に包まれた家々。黒々として影のように立つ木々。ぼうっとした光を放っている街灯。

 まだ外は夜に覆われているが、朝の気配はすぐ近くまでやって来ていた。

 人間には、この微妙な変化は分からないだろう。ざわざわとした、とても小さな生き物の大群のように近づいてくるのだ。わたしたち、ヴァンパイアの永遠の敵。かなうことのない敵。

 わたしはこの時ほど、朝の訪れを疎ましく思ったことはなかった。永遠に夜が、この平安が続いてほしかった。

 だが、もうゆっくりとはしていられないことは分かっていた。夜明けは確実に近づいているのだ。

 わたしはフィリアを振り返った。彼女は眠り続けていた。布団から腕が出ている。それを直そうと彼女の手をとる。

 肌の温もり。そして流れる血、脈。わたしは知らずのうちに、その手首をじっと見つめていた。胃がきりきりと痛んだ。体中の血管全てが一瞬収縮した。

 ひどく頭痛がする。わたしは飢えていることに気づいた。そういえば、今夜はまだ満たされていない。あの憎らしい借金取りの男から、もう少し血を奪えばよかった。

 わたしは大急ぎで彼女の手を布団の中にしまった。

 わたし自身、認めたくないことだったが、わたしは彼女が欲しかった。彼女の首筋に、牙を突き立てたかった。彼女の血を味わいたかった。

 近年のイギリスに住むヴァンパイアのほとんどが、人間の命を奪わずに血だけを狩っていた。もちろん、牙の跡を残すような下手な真似はしない。

 それでも、外見上はまったく傷のないにように見える犠牲者も、わたしたちの目を通せば、見えてくるのだ。首筋に浮かぶ、肉色に染まる2つの傷跡。

 それはある意味、自己主張のマーキング。自分のものだと仲間達に知らせるためのもの。

 わたしはフィリアに印をつけたかった。彼女がわたしのものだという印。それは血を吸いたいという欲望より勝っていた。

 彼女の首へと顔を近づけた。血管を流れる血がわたしを誘惑した。それはわたしに向かって懇願していた。早く血を吸ってくれと……。早く、早く。

 わたしは牙をむき出しにし、彼女に覆い被さった。彼女の首筋しか見えないほど近寄っていた。

 唇が触れる。だが、わたしは牙をたてなかった。代わりにキスをした。長く力強く。フィリアが呷いて、首を反らせてもやめなかった。ようやく唇を離した時、彼女の首筋には赤い小さな“印”ができていた。わたしは再び欲望に突き動かされる前にベッドから離れた。

 彼女を一度だけ振り返り、それから背にする。つけっぱなしのリビングの電気を消し、わたしはフィリアの部屋を出た。

 外気はとても冷たかった。夜明け前の冷え込みだ。今のわたしには、ぼんやりとしか感じられなかったが。

 わたしはフィリアとの時間を思い返していた。彼女がわたしにすがってきた時のことを。

 明日という日を待ち遠しく思った。たった今、彼女と別れてきたばかりなのに、今すぐにでも会いたかった。

『これを恋といわずして、なにをや云わん』

 わたしは、オペラのように両手を広げて、歌いだしかねなかった。凄まじいスピードで通り抜ける、車の音さえ何も耳に入っていなかった。

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