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ランドル3 (1)

 砕け散ったガラスの下から手にした写真。それはわたしに衝撃を与えた。

 写っていたのは三人。変わらない栗色の髪と大きな目の幼いフィリアと、彼女とそっくりな髪色の細身で背の高い男。そして、わたしも見覚えのある金髪の女、エリーゼ。

 見間違えるはずがなかった。彼女は、かつて少年だったわたしに向けた微笑みのまま、写真に残っていた。

 ということは、フィリアは彼女の娘ということになる。

 わたしはフィリアの中に面影を探し出そうとした。だが、フィリアは今までない苛立ちを見せ、写真を破り千切ったのだ。

 苛立ちは父親への怒りに変わっていった。

 わたしは彼女を落ち着かせようと、キッチンにあったブランデーを与えた。彼女の興奮を押さえるため、それは有効な手段のはずだった。

 それで、あのようになってしまうとは思いもよらなかった。僅かな量でしかなかったにもかかわらず。

 人間の体内にアルコールが吸収された時の様子は、何度も目にしたことがある。ただ、その個人差までは把握してなかったようだ。

 波のように押し寄せる激しい感情。それまでの彼女からは考えられないものだった。

 わたしは圧倒されながらも目を離せないでいた。

 今やその体は本当にソファに沈んでしまっていた。まるで沈没寸前だ。

 隣に座るわたしからは、彼女の長い波打つ髪とその背中しか見えなかった。その手はソファの背もたれをしっかり握りしめていた。

「横になったほうがいいんじゃないか?」

 わたしの声にも反応がなかった。

 眠ってしまったのではないかと顔を覗き込もうとした時、彼女は身動きした。

 わたしの方を振り返る。頬は薔薇色に染まっていた。

 今までになく、しっかりとわたしを見つめる瞳には恐れも気後れも感じられなかった。

「あなたには分からないでしょうね。あなたは私じゃないもの。分かりっこないわ」

 何か激しいものが彼女を突き抜けているらしかった。声はあくまで静かで優しげだったが。体が微かに震えていた。

「何を分からないって言うんだ。何のことなんだい?」

 瞳に凍えるような光が走った。わたしは核心をついたらしかった。

 彼女は震えを止めようとするように、自らを抱きしめた。まるでそこに答えが転がっているというふうに床を見つめた。わたしが彼女の視線を追ってそこを見ても、もちろん何もなかったが。

「話してほしい。わたしは君を分かりたいんだ」

 その言葉は彼女の心に触れるものだったらしい。一瞬身じろぎをして、彼女はわたしに視線を戻した。心を探るかのように、わたしの瞳を覗き込んでいた。

 そして、小さな溜め息。安堵とも失望ともとれるような。彼女は口を開いた。

「父と母の話よ。すばらしい夫婦だったわ。そして、私を加えて素晴らしい家族だった。

幼い頃から私の自慢だった。私の家族ほど団結があって愛情にあふれていたものはないはずよ。

私は確信していたの。この幸せはずっと続くものだって。私が年をおって、両親が自然な死を迎えるまで私たちは家族であり続けるって。

でも、違った。私が高校を出る頃だったわ。母が死んだの」

 わたしは何か声を上げていたのかもしれない。フィリアの声は途切れていた。あのエリーゼが故人だとは考えもしなかった。わたしに限らず、ヴァンパイアの時間の観念は人間とは違ったものなのだ。

 もっとも、悲しみはほとんどなかった。だいたい実感がなかった。わたしにとって、エリーゼは力強く息付く印象の一つだった。彼女はわたしの中で輝きながら生きていた。

「母を知っているの?」

 フィリアが怪訝そうに聞く。

 衝撃の余韻。わたしの答えは随分遅れてのものだった気がする。

「ああ、まあね。随分前にね。彼女の死も君が娘だとも知らなかったんだ。でも、どうして亡くなったんだ?」

 フィリアは目を伏せていた。彼女の瞳は、睫毛の下で霞がかかったようにどんよりと曇っていた。

「交通事故よ。人間なんてあっけないものね。私も父も母の最期を看取れなかった。

父は憔悴していたわ。母の葬儀の時、今にも穴の底の棺に倒れ落ちるんじゃないかと思ったほど。

棺に土をかけることを父は頑として引き受けなかった。代わりに私がしたの。

暗いシャベルの響き。土が棺を覆っていく。まるで悪夢のようだったわ。見ていられなくなった父は、悲鳴を上げながら後ろへ下がり、そして座り込んで大声で泣き出したの。何度も母の名を呼んでいた。牧師の声も耳に届いていないようだった。

あんな泣き方、私は見たことがなかった。大地を叩き、土をかきむしっていた。父の友人が取り押さえるのに随分苦労していたわ。

そして、一週間経ち、二週間経ち、私たちは暗澹とした思いで毎日を過ごしていた。父は本当に変わってしまった。いつも笑顔を浮かべていられる人だったのに。

私と父の会話が消えた。食事もただ黙々と食べるだけ。一緒の時間だってとらなかった。

私は母の存在がどんなに大きいものだったのか、思い知ったわ。母こそ私たちの関係を取り持つ、大きな柱だったわけね。

父はいつも部屋に閉じこもりっきりだった。心配して訪ねてくる友人にも会おうとはしなかった。仕事もずっと休みっぱなしだったわ。私が学校から帰ってきても、家にいるの。私は何も言わなかったし、言えなかった。

父はそれが気に入らなかったのかしら。お酒を飲むようになったわ。毎日、酔ってるの。足元がふらふらになるまで飲んだくれているのよ。昔の父からは想像もできないわ。

やがて外に出て行くようになった。仕事へじゃない。慰めてくれる女の人を求めて、お酒を求めて、出て行くの。

最初は夜遅く戻ってきていた。それが明け方になり、夕方になり、一日おき三日おきになったわ。

そして、彼は姿を消したの。この六年間、一度だって会っていないわ」

 彼女の体が激しく震え始めた。クッションを手にとり、胸の前で握りしめても震えは止まらなかった。

 瞳はぼんやりとし、宙を見つめていた。酔いからか悲しみからか、彼女の目は潤んでいた。

 大きく息を吸い込み、吐き出す。何度か瞬きをして、彼女は“今”に意識を集中させようとしているらしかった。引き摺られそうになる激情を振り払うように、頭を振り、こめかみを指で押さえる。

 それから、彼女の手は膝の上のクッションへ戻った。手さえ震えているようだった。

「私は母にはなれなかった。だって、あの人は人間離れしていたもの。まるで天使よ。揺ぎ無い大きな愛を持っていた。そして、それを無言で伝えることができるの。

彼女の周りには、常に温かい祝福のようなものが取り巻いていたわ。ああ、母でなく私が死んでいたら、父もあんなふうにならずに済んだはずよ。

母も父も次々に去っていった。二人とも裏切りのようにね。そして、友人や恋人も私は失ってしまった。

私は独りになった。本当の一人よ。何度か自殺も考えたけど、できなかった。

私には勇気がなかったし、赤の他人が何の感情を抱かず、私の死体を処理するなんて我慢できなかったの。

私は悟ったわ。一人になって、ようやく分かったの。それまで気づかなかったなんて、私は幸せで頭がどうかしてたのよ。幸せぼけ……。なんて言葉かしら!」

 フィリアは声を出して笑った。それもすぐに力を失い、消えていった。

 沈んでいるソファの中で身じろぎする。膝の上のクッションが床に転がった。彼女はそれをなんら気にしてないようだった。

 わたしが足元に落ちたクッションを拾い上げた時も、彼女は何も言わなかった。

 まるで力尽きたように目をつぶったままだった。わたしはクッションを見下ろした。それにはまだ彼女の熱が宿っていた。

 わたしには彼女の話が終わったとは思えなかった。満足していなかった。

「悟ったって、何を?」

 わたしは彼女のけだるさを感じながらも声をかけた。

 彼女はびくっと震え、頭を背もたれに押し付けたまま、目を開いた。唇を軽く噛みしめている。

「結局、人は独りなのよ。失うものを求めて、どうするの? 肉親でさえ去っていくのよ。他人に希望を見出すなんてことができるの?」

 声は震えながらも大きくなり、彼女はソファから身を起こしていた。

「だって、みんな私の元を去っていくわ!」

 彼女が頭をかきむしるような激しさを見せた。

 彼女は泣いていた。赤くなった頬より、さらに熱い涙が流れていった。

 両手で顔を覆う。髪が振り乱れていた。

 わたしは“ランディ”を探す彼女を思い出していた。わたしもまた彼女の元を一度去っていた。

 フィリアの悲痛な泣き声が耳に蘇り、そして今の彼女のものと重なり合った。

 わたしは彼女を抱きしめたかった。今ならそれができるのだ。ネズミの姿であったとき、どんなに望んでもできなかったこと。わたしはフィリアを守りたかった。

 しかし、わたしが抱き寄せようとする前に彼女は立ち上がった。足元がおぼつかない状態で。

 ふらふらとして転びそうになる。わたしは素早く立ち、支えてやらねばならなかった。

 彼女は涙で濡れる顔をそむけ、手をほどこうと抗った。わたしは離しはしなかった。

「眠るの。眠いのよ。眠れば……」

 なおも手を振り切ろうとする。わたしは彼女の体を抱き上げた。

 ぎょっとした彼女は腕の中で激しく暴れた。わたしは静かにするように囁く。床のガラスが危険だから、ベッドに連れて行くだけだと。

 彼女は怯えたようにわたしを見上げた。それでも、わたしが視線を合わせると、幾分か落ち着きを取り戻した。唇は固く結ばれていたが。

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