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フィリア2 (4)

 思い返してみると、あの時の私はいつもと違っていた。ランドルの存在が影響を与えていたのだと思う。本当に冷静さを欠いていた。

 だから注意がおろそかになり、あんなことが起こったのだ。まったくの無用心さが招いた事件。


 ランドルの薔薇が花瓶の中で花びらを広げていた。「また来るから」……彼の言葉を忘れさせまいとするかのように。

 彼が訪れた日から一週間ほど経っていただろうか。私は仕事を終えて、部屋へ戻ってきていた。すでに日が落ちてから随分経ち、暗闇が辺りを包んでいた。

 夕食はもう済ましていて、キッチンで明日のご飯の仕込みをしていた時だった。玄関のドアをノックする音を聞いたのは。

 危うくジャガイモともどもナイフを落としそうになる。一瞬、聞き間違いではないかと疑いもした。事実、この一週間、玄関先に誰かいるような気がしたことが何度かあったのだ。もちろん感じすぎに違いない。だが、今のは……。

 待つまでもなかった。再びノックが聞こえてきた。私はナイフを置き、ジャガイモをボールに戻し、玄関ヘと向かった。

 ノックは続いている。

「今開けます」

 鍵を外し、ドアを開いた。

 だが、そこにいたのはランドルではなかった。

 険しい顔つきをした大柄な男。鋭い目で私を見下ろしている。

「フィリア・ノマだな?」

 その息は煙草の匂いがした。ドアにかけられた浅黒い手の甲には、二匹の蛇が絡み合う刺青が施されていた。牙をむくその蛇達は、私を脅かした。私の心はひるみ、力がどこかへ流れ出ていくような気がした。

 そしてなによりも、聞き覚えのあるこの声。前に電話口で聞いた声だ。太く恐れを抱かせるような声。男はその力を知っているに違いない。

 考えるまでもなかった。私は反射的にドアを閉めようした。

 だが男は足を差し入れ、ドアを押し開こうとしている。なんとか踏ん張ろうとしたものの、力の差は大きすぎた。

 私は跳ね飛ばされるようにして、後ろに倒れた。手をついて体を起こしたとき、男はもう部屋の中にいた。

「手間をかけさせやがって」

 吐き捨てるような言葉。ポケットから取り出した煙草に火をつけ、くわえる。むせるような濃い香りが部屋に広がっていった。

 私は茫然と男を見ていた。何が起こっているのか、まだよく理解できなかった。彼が何の目的でやって来て、何をしようとしているのか。

「ああ、かわいそうにな」

 その言葉には何の感情もこもっていなかった。男は深く煙草の煙を吸い込んだ。

「おまえの親父は借金を残して消えたんだ。五千ポンドだ。まったく大した奴だよ。娘のあんたに迷惑かけるなんて。ま、俺としては誰からだろうと返してもらえれば文句はないんだがな」

 煙草の灰を揺らして落とす。散った灰がふわふわと床に落ちてくるのを私はぼんやりと見ていた。混乱した頭でも、これだけは分かった。これは父が引き起こしたことだと。

「金は何処だ?」

 男が近づいてくる。私は立ち上がる力も失い、首を振ることしかできなかった。

 大げさに手を広げ、男はあざけるように息をついた。玄関のドアの前を通り過ぎようとした時だった。男はポールに掛けられたバッグに気づいた。

 派手な音がしてバックの中身が床に散らばった。財布を拾い上げ、中を確認する。

「ああ、足りねぇなぁ、こんなんじゃ」

 男は数枚の紙幣をポケットにねじ込み、財布を投げ捨てた。煙草をくわえなおし、煙を一息吸いこむと、床に落として踏みにじった。木の床に黒い灰の線がついた。

 彼はまるで私が存在しないかのように振舞った。クローゼットを開け、引き出しや箱の中身をぶちまけていった。だが、目当てのものは見つけられなかった。男は毒づき、窓際のチェストの方へ歩いていった。

「なんだこりゃ」

 ランディの巣箱を手に取る。

 私は思わず立ち上がった。男はその箱を床に落とした。私はその意図を知った。

「……やめて」

 やっと声が出た。私は箱に向かって駆け寄ろうとした。だが、そこへたどり着く前に、箱は踏み潰されていた。切り刻んだ細かい新聞紙がつぶれた箱から飛び出した。まるで何か生き物の死骸のようだ。私はその前でしゃがみ込み、それを胸にかき寄せた。

「ヘッ……」

 男はそれを見下ろし、馬鹿にしたように息をついた。

 体ががくがくと震えていた。何故かは分からない。腕の中の箱を見る。形を変えたその箱からは新聞紙のインクの匂いがする。

 そう、私はランディが消えてからも新しい新聞をちぎり敷き詰めていた。だが、ランディが戻ってくるなど本当に信じていたのだろうか。あの子はもういない。帰ってくるわけがないのだ。本来なら、私自身の手で捨て去らなければならないものだったのだ。

 過去とは決別すべきなのだ。ランディがいたとき感じた幸せ。そんなものは今とは関係のないものなのだから。

 そうだ。全く関係はない。父のことにしても。

 男はチェストの引き出しを探っていた。しまわれていたノートやはさみやペンが音を立てて落ちてきた。

「ああ、これか……!」

 男は歓声を上げた。奥に、大事そうに布に包まれて納まっていたものを見つけたのだ。その金目のものと思われる小さな包みを手とり、布をほどいて中身を目にした時、男は憮然とした。

「こんなもの!」

 床に叩きつける。それは高い音を立てた。ガラスが飛び散り、小さな欠片はライトの光を受けて銀色に輝いた。

 私は微動だにせず、それを見ていた。木製の写真立て。ガラスの破片が写真の上を覆っている。

「金は何処だ?」

 男は語気荒く、私をにらみつけた。

「何処だと聞いているんだ!」

 彼は膝をつき床を見つめるだけの私に苛立った。肩を掴み、体を起こそうとする。もう片方の手が、私の頬を目指して振り下ろされた。

 ぶたれると思った私は、反射的に顔をそらし、目をつぶった。

 その時だった。

「……グッ」

 奇妙な押しつぶれた声が聞こえた。続いて、男の手が私の肩から離れた。

 目を開けると、男は後ろに弾き飛ばされ、チェストに背中を打ち付けていた。

「 畜生…… 」

 男の唸る様な声。それは私の背後に向かっている。その視線をたどって振り返った私は、男を突き飛ばした存在にようやく気づいた。

 それはランドルだった。いつ部屋に入ってきたのだろう。全く気づかなかった。息の乱れもない。その落ち着いた立ち方は、まるで前からそこにいたかのようだ。

 男はよろよろと立ち上がった。体格の差は歴然としていた。喧嘩慣れしているような太い腕の男。比べると彼がなんと華奢に見えることか。

 それに気づいたのだろう、男は、にやついた。先ほどは不意打ちを食らっただけなのだ。だが、今は違う。男は素早く身構えた。ランドルはただ立っているだけだ。

 男が殴りかかる。ランドルはその腕を捕らえた。信じられないという表情の男は、彼に押されて後退りした。

 チェストが男の腿に当たった。ランドルは彼の首に手をかけ、押しやっていく。振りほどこうとする男だったが、どうもうまくいかないようだった。足をばたつかせてもその手から逃れることはできなかった。

 男の背が弓なりに反り、チェストの上に乗った。開いた窓から突き落とすつもりなのだろうか。苦しそうなぜいぜいという息だけが聞こえてくる。ランドルはさらに寄りかかっていった。

 座り込む私の目には男の顔も彼の顔も見えなかった。二人の肩は窓の外の闇にさらされていた。

 くぐもった悲鳴が聞こえた。瞬間、ばたついていた足が止まった。

 そして、数秒の沈黙。ランドルは体を起こした。男は遅れて起き上がった。

 首筋を押さえ、おびえたように彼を見た。鋭かったその目は今やどんよりと曇り、苦しさからか涙さえ浮かんでいる。

「化け物……」

 男は呻いた。その首筋は痛々しかった。私から見ても首を絞めた跡が分かった。男の手のひらで隠れてよくは見えないが、赤く色が残っていた。

「行け! 今度来たら容赦はしないぞ」

 ランドルは柔らかく、だが怒りを込めて言った。

 呪縛は解けた。男は弾かれたように駆け出した。首を押さえたままで。一度もこちらを振り返らずに扉から消えた。

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