ランドル1 (1)
過去において、わたしたち一族が人間にもたらしてきたこと。
それは伝説となって残っている。恐ろしく忌まわしい事実。わたしは命を落とした全ての人間たちの冥福を心から祈ろう。
わたしの名はランドル・ウェルボルン。人間の言葉で言うヴァンパイアだ。
もっとも、人間のヴァンパイア像とわたしたちは必ずしも一致しない。伝説が伝説に過ぎないこともまた多いのだ。
そもそも、全てのヴァンパイアが人間に危害を加えようと企むわけではない。
現にイギリスの夜を治めるトレヴィス・C・ケントドリックは、人間との共存の思想を掲げている。
彼は命の糧を与えてくれる人間に対して、もっと敬意を払うべきだと考え、暴力と争いを好む同族たちと一線を画していた。
わたしの父ナイトもまた、人間に対して深く興味を持っていた。彼が人間とジョークを交わしたり、彼らの肩を親しげに叩いたりするのをわたしは見てきた。
トレヴィスの思想の表れる教育。父親という環境。そして何よりも、わたし自身が幼い頃、一ヶ月にわたって、わたしの正体を知る人間と暮らしたという事実。
わたしが仲間達の中で、もっとも人間に好意を持つ者になったとしても不思議でも何でもないことだろう。
そう、わたしは人間を愛していた。彼らにまぎれて過ごす時間が好きだった。わたしは多くの人々から少しずつ血を分けてもらい、生きていた。
伝説のヴァンパイアに比べれば、ひどく軟弱に思えるかもしれない。
だが、わたしは満たされていた。本当に満足していた。
そして出会った、とある人間の女性。
まさしく、これは運命だったのかもしれない。その時のことをわたしは鮮やかに思い出せる。
その時、わたしはネズミの姿をしていた。ヴァンパイアとして初歩的なミスを犯したために。
聖夜にネズミに姿を変える……。
わたしはわたしたちの言う“呪い”にかかり、元の姿に戻れなくなってしまったのだ。
わたしは父を頼った。父の血に頼り、開放の時、ハロウィンの夜を待とうと考えた。
だが、問題が起こった。父がイギリスを離れる任を負ったのだ。
『とてもネズミであるお前を連れてゆくわけには行かない』
それが父の見解だった。
ならば、どうするのか。誰にわたしを任せるのか。
わたしたちは話し合い、そして、結論を得た。
エリーゼの元へ身を寄せること。彼女こそ、かつて少年だったわたしと一ヶ月に渡り暮らした人間だった。
わたしは彼女の姿を思い返した。懐かしい思い出が胸をよぎった。彼女との再会を考えると、いやがうえにも期待が高まった。
わたしは知らなかったのだ。時の流れの感覚が我々と人間とでは違うということを。
そして、わたしの父ナイトもまたそれを忘れていた。
八月の終わり、比較的涼しい風が吹いていた夜。
ロンドンのダウンタウンにある旧いマンションから全ては始まった。
わたしは小さなバスケットに入れられていた。聞こえるのはわたしを運ぶ父の足音。感じるのはリズムある横揺れ。そして、時折見えるのは淡い裸電球の光だった。
天井の網目を通して差し込んでくるのだ。
ここがエリーゼのマンションだとすぐに分かった。匂いが感覚が教えてくれた。
ナイトがどこを通り、ドアへ向かっているのか容易に想像できた。だから、バスケットが床に置かれた時も驚きはしなかった。続いて聞こえるノックの音。
だが、返事はない。人の気配もない。人の残り香だけが香る。エリーゼは留守のようだった。
バスケットの天井が開けられる。巨人のような父が座り込んでわたしを見下ろしていた。
「さて、どうしたものかな。飛行機の出発まで時間がない」
腕時計を見、それからわたしにそれを示して見せた。針は九時四十分を指していた。空港までの時間を差し引けば、ぎりぎりといったところだ。
彼は数秒しかめ面をして考え込んだ後、おもむろに立ち上がった。ポケットから手帳を取り出し、一ページ引きちぎる。ドアを机代わりに何かを書き始めた。
その素早さと角度の悪さが災いして、わたしには何を書いてあるのかまるで分からなかった。
メモをわたしに被せる。いまいましくかさかさ音を立てるそれから顔をのぞかせた時、見えたのは父の後ろ姿だった。
『親父!』
わたしはいくら経ってもなじめないネズミの声で呼びかけた。父は立ち止まり、振り返ってからにっこりと笑った。
「エリーゼを待つんだランドル。きっとすぐに彼女は帰ってくる」
そうして、再び背を向けて彼は歩き出した。
わたしはバスケットの縁にかけた手を下ろし、ふてくされるしかなかった。足音は遠ざかっていく。
エレベーターのベルが鳴ったのと父の足音が止んだのは同時だった。
「失礼」と父の声。
「あっ、すみません」
若い女性の声。
エレベーターの扉が閉まった。モーター音と重なって足音が近づいてくる。柔らかい足音だ。どんな隣人だろう。わたしは興味をひかれた。
足音はまっすぐこちらへ向かってくる。
わたしの入っているバスケットが彼女を引きつけたのだろうか。女性はバスケットの脇で止まった。中を覗き込み、そしてわたしと目が合った。彼女はギョッとして、一歩後退りした。そして、あらためてわたしを見つめる。
わたしも彼女を見ていた。
パステルカラーのキッチリとしたスーツ。薄い化粧。見事に編みこまれた髪。表情の硬さが彼女を余計に神経質そうに見せていた。
腰を落とした彼女の服や髪からはうっすらと酒の匂いがした。そして、多くの人間の匂いも。
もっともそれは染みてしまった匂いに過ぎなかった。彼女自身からは何の匂いもしない。わたしの横にあるメモを取ろうと、彼女が手を伸ばしてきたとき、そう気づいた。
指がわたしの体に触れそうになる。温かく血に満ちたそれをわたしはうっとりと見つめた。
もし、自制をきかせていなければ、その手首に咬みついていたかもしれない。
彼女はメモを読み流した。透ける文字から内容を読み取ろうとしたが無駄だった。それより早くメモはポケットにしまわれた。
「まったく友達が多いっていうのも考え物よね」
エレベーターを振り返り、溜め息混じりに彼女は言った。
わたしはようやく落ち着きを取り戻した。彼女がわたしを部屋に入れる気だということに気づいたからだ。
バスケットは持ち上げられ、ドアは開かれた。
わたしは、かつてエリーゼと過ごした部屋に再び足を踏み入れることになった。そこはわずかに過去の面影が残っていた。それを目の端に捕らえ、わたしはこれからのことを不安のうちに考えた。
わたしはこれからどうなるのだろう。わたしはこれからどうすればいいのだろう。
横にいる彼女を見上げ、わたしは困惑するばかりだった。
ジャンルで言えば、ヴァンパイア・ロマンス物になるのでしょうか。
あまり得意な分野ではないけれど、ロマンティックな感じを出せればいいなと思っています。
ホラーもなく、スプラッタ表現もない予定です。
よろしくお付き合いください。