SIDE: ジョイス
ーーージョイス・ゼメルギアス皇太子殿下は見た目は母譲りの美麗さだが、美しいだけの彼に、果たして次代の王が務まるのか……?
王宮内の日和見貴族たちに、自分がこんな陰口を叩かれていることはずいぶん前から知っていた。
400年続く帝国の威信は、2代前の王の時代から翳りが表れていた。50年ほど前に穀倉地帯で例年にない干ばつが続き、水の魔術の使い手による救済措置もむなしく、麦の取れ高は大きく減少した。
また、その数年後には平民たちの間で原因不明の病が蔓延し、教会の聖職者…光の魔術の使い手達が癒やしても間に合わぬくらいの早さで病が平民たちを蝕んだ。光の魔術の使い手たちも多数が病に倒れ、平民や、魔力の少ない下級貴族たちも、かなりの数を減らした。
民たちは病や飢えで次々と倒れ、国は混乱を極めた。
この窮状を救ってくれるはずの王や高位貴族たちは、魔術による浄化や水の散布を何度も行ったが、根本的な原因の解決にはならず、そのうちに民たちの間には「王たちは自分たちだけが特効薬を使っている」などという噂が流れる始末だった。
一定の魔力のある貴族は、確かに自分たちや家族などを病から守るために魔術を行使していたことは事実だが、それは致し方のないことだと、高位貴族や王は考えた。こうした考えがこの50年間の貴族たちの主流となり、平民と貴族は、また高位貴族と下級貴族は、ますます溝を深めていった。
(それが、どうだ)
この8年の間に下水道が整備され、平民街の衛生状態が劇的に改善された。
それにより平民の死病率は激減し、汚染が進んでいた河川や土壌も、その美しさを取り戻しつつある。
レナルド・マクレーガンによるこの8年の改革は見事なものだった。
平民の街など放っておけ、貴族だけを優遇しろ、という選民思想に侵された貴族たちに、平民街の整備がどれだけ国にとって有用であるかを説き続け、下級貴族を中心にその支持者を徐々に増やし、多数派となった段階で、当時反対派の急先鋒だった宰相と魔術長官を排して一気に改革を推し進めた。
下水道整備に一定の目処が立つと、上水設備の国民全体への普及に取り組んだ。
貴族たちには大して使用用途のないクズ魔石に目をつけて平民に配給し、汚染された井戸水を使わずに魔石からの浄水の利用を呼びかけた。
クズ魔石に水の魔力を込めるために、教会で微力な水の魔術の適性を持つ平民を使ったことも、貴族たちには直接的な負担がなく、かつ、平民の死亡率を下げて農作物の収穫増につながると、ほぼすべての貴族たちの賛同を得た。
下水道整備事業では下級貴族を中心とした数の力で押し切って、王に自身の右腕でもあった宰相を切り捨てる判断を下させたので、上位貴族との遺恨が残る結果になったのだが、次の上水設備の普及では、その上位貴族たちを見事に懐柔した。
(このあたりの駆け引きが、侯爵の辣腕さを感じるところだ)
煮え湯を飲まされた貴族たちも、翌年には領地の収穫量の増加に満足し、手のひらを返したようにマクレーガン派を名乗る始末だ。
さらに極めつけはレナルド・マクレーガンが改良した馬車だ。
今までは傷ですぐに腐ってしまうような果物・野菜、それに沿岸部の魚介類などは、加工品にする以外は地産地消するしかなく、また、各地で作られる繊細な陶磁器などは、王都までの道中で壊れてしまうため、なかなか買い手がつかなかった。
それが、レナルド式馬車では揺れが大幅に減り、さらには水の魔術を駆使して車内に涼しい風を生み出すという、誰もがあっと驚くような画期的な装置を搭載したことで、瞬く間にあらゆる問題が解決できたのだ。
彼は何度目かの試作品を制作後、まず王へ献上して、王からの太鼓判を得た。
その話が見る間に貴族たちの間に広がり、まずは王都の上位貴族たちにレナルド式馬車が普及した。
さらに噂を聞きつけた地方の貴族たちは、レナルド式馬車に、文字通り涙を流して大喜びした。
これまで地産地消していたものを王都で売れば、麦を売る他に新たな利益ができる。
レナルド式馬車にいくら資金がかかったとしても、それを上回る潤沢な利益が地方貴族にもたらされることは確実だった。
実際にレナルド式馬車が量産され、各地に普及しだすと、その性能の高さと快適性、また、どんな修理にも快く対応してくれる安心感から、帝国各地にレナルド式馬車の愛好家……もといレナルド・マクレーガン信奉者が誕生した。
今や王都は、衛生的な平民街が広がり、市場では毎日各地からの新鮮な野菜、果物、魚介類や肉類が売り買いでき、今までは見られなかった食文化が生まれつつある。
人々は明るく、活気に満ちた表情で、子どもたちはひもじい思いをすることもなく、皆が生き生きと生活をしている。
(まだ、これは夢ではないか、と疑ってしまう自分がいる)
ジョイスは王宮の執務室で、レナルドから引き継いだ下水道整備事業の報告書を読みながら、ふうっと息をつき、顔をほころばせた。
「このところ、ろくな睡眠も取れずにご公務にあたられておられますが、なんとも幸せそうなお顔ですね?」
執務机の向かいに、報告書の束を持ち、同じくクマの目立つ目元に銀縁の眼鏡を掛けて、呆れたような表情でジョイスを見るのは、グレン・オルドリッジ公爵令息だ。
幼い頃から常にジョイスの側に居る、ジョイスが最も心を許せる側近だ。
グレンは黒髪に茶色の目で、ジョイスは金髪に緑の目なので、昔から二人で居ると「闇と光」だの、「夜と月」だの、様々な比喩表現にさらされたものだ。
ジョイスにとっては、見た目は対照的ではあるが、ざっくばらんに腹の中を共有できる貴重な相手だ。
「この8年の我が国の躍進ぶりを見れば、皇太子として誇らしくなるのは当然だ」
「マクレーガン侯爵には本当に感謝の念を抱いております。これ以上爵位を上げられないのが無念で仕方ありません。
ですが、ですがね……本当にこのまますべての公務をこなされるおつもりなのですか?この仕打ちは一体いつまで続くのです?」
グレンはげんなりとした表情でジョイスを見た。
「さぁな、私にもわからん。なにせ、仕事を創る能力にかけては、彼を上回る人物など、この国にはもはや居ないからな」
「巻き込まれる私の身にもなってくださいよ……」
「お前が進んで私の側近になったくせに、何を今更」
「あのねぇ、子供の頃の口約束なんて、もう反故にしてもらってもいいと思うんですよ」
「言葉には責任を持て。それが赤子の頃のことであってもな」
「そんな無茶な!」
ジョイスはうるさいグレンを無視して手元の報告書に目を落とした。
「侯爵は、娘を手放すのが耐えられないんだな」
「……普通に考えれば、皇太子妃にと打診されて、断れる者はいないんですがね」
「名目上は私のほうが立場が上だが、実権は彼が握っているからな」
「いま殿下が諦めて下されば、私は過労死を免れられます」
「ふ、面白いことを言うな。……私に諦めろと?」
「あー……」
ジョイスは冷ややかな顔で笑いながら、グレンを睨みつけた。
「死ぬほど働いても、私の光の魔術でお前を死なせはしない。これはあくまでもデモンストレーションだぞ?メイシーを皇太子妃……ひいては王妃にすれば、彼が私に何をしてくるか、もう想像がつかん」
「嘘でしょ…」
グレンは顔色を失くしてその場に立ち尽くした。ジョイスは眉間にシワを寄せ、グレンの弱腰に不満を表した。
「おいグレン。諦めることは許されないんだ。もし彼女が他国の王族にでも娶られてみろ。帝国はその国に滅ぼされるかもしれん。同じく、他の貴族に彼女を渡せば、最悪内乱の可能性もある」
「ええ、ええ……。分かっております。もう何度もその話はしました!ですが、連日の徹夜続きで、少々気弱になってしまってですね……」
「光の神、テクシステカトルに告ぐ。この疲れ切った者に癒やしを与えよ」
ジョイスがそう言うと、執務室がキラキラとした光に満ちた。
「わぁ……詠唱までしていただいて、ありがとうございます……」
「徹夜ごときで死ぬなど、お前には100万年早い」
ジョイスはそう言うと、執務机の引き出しから手紙を取り出し、グレンに渡した。
「ドメル・ハルガンディが私宛によこしたものだ。今のお前より、彼は数段有用だぞ」
グレンはサッと手紙に目を通した。
「この手紙を見れば、メイシーは絶対に他国へ嫁がせてはならんと感じるぞ」
「……何ですか、これは。彼女の魔力量が王族並みに高い?詠唱に関して秘匿すべき重要な情報を保有している??あとは……すでに第1研究棟の研修生として契約を交わしたのですか……?情報量が多すぎますね……」
「ひとまずドメルには引き続き彼女の監視と護衛をさせる」
「それがよろしいかと」
「ただ、こちらも公務を切り上げて彼女に話を聞きたい。学園では色々な意味で彼女は標的だからな……」
「ご心配なのですか?」
「彼女が重要人物であることは事実だ」
「そうですか……。差し出がましいかもしれませんが、殿下に忠実な国内の貴族の子息を何名か選定済みですので、彼らに彼女のことを任せてもよろしいのでは?一応、入学生の中に数名待機させておりますし」
ジョイスはそう聞かれて不意に、メイシーのことを思い出した。
学園の森で休んでいたところに、突然話しかけられたこと。
道に迷って入学式場の方向を尋ねられたこと。
森の小道に着くと、嬉しそうにお礼を言われたこと。
感謝の気持ちを示すために、彼女が名乗ったこと。
そこで初めて、彼女がマクレーガン侯爵の娘だと知ったこと。
……振り返ると、あんなふうに、なんの下心もなく人に話しかけられたのは、初めてかもしれないとジョイスは思い至った。
森の小道で名乗った彼女は、編まれた濃い茶色の髪を揺らし、俗に言う侯爵令嬢らしい、きらびやかな服を着るわけでもなく、アクセサリーも付けず、純粋に魔術学園での学びに期待を膨らませて、その美しい青い目をきらめかせていた。
そこにとても聡明そうな雰囲気を感じたし、好感も持てた。
魔術学園に入学したのは、もちろん彼女の人となりを知るためで、彼女を娶るかどうかはそのうえで判断しても遅くはないと思っていた。
彼女は13歳で、まだデビュタントも済ませていない子どもで、自分より5つも年下の少女だということも、何となく、ジョイスにとっては気乗りしない理由でもあった。
グレンが言うように、もしメイシーを見て、気に入らなければ、どこか国内の貴族の子息に婚約させることも考えていた。
でも。
気がついたら、会場までエスコートしてしまったのだ。
なぜか、このまま一人で行かせれば、彼女が誰かのものになるかもと想像し、それは嫌だなと、少し思ってしまったのだ。
自分自身でも、驚いた。
皇太子として、国にとって利益になる結婚をすることは、子供の頃から理解していた。
彼女はあのマクレーガン侯爵の一人娘で、その条件には当てはまる。
まさに適役だ。
(どうせ、外堀は埋まっているのだ。とっさにとはいえ、彼女に決めたのは、自分の義務感からだろう)
ジョイスは、自分の行動に違和感を覚えたものの、そう思って納得した。
「グレン、国内の貴族に嫁がせる案は却下だ。彼女は2年後のデビュタントで私と婚約し、その1年後には私の妃になってもらう」
「……左様でございますか」
グレンは生暖かい目でジョイスを見ている。
「…何を勘違いしているか知らんが、ドメルの追加情報も含めれば、彼女の夫として適役なのはこの私以外にはあり得ない」
「そういうことにしておきましょう」
「しつこいぞ」
「はいはい、ではメイシー嬢とのお約束でも取り付けますか?すでに一度断られてますけどね?」
「……おい」
「メイシー嬢がお好きな食べ物とか、花とか、服屋とか、そのような基本的な情報を集めないと。興味のない男に突然食事に誘われても、女性は心を開かないのではないですかねぇ……」
「お前、私にそんなままごと遊びみたいなことをやれと言っているのか?」
「世の中の男性は、意中の女性に振り向いてもらうために、様々な努力をしておりますよ」
「……」
「殿下のお誘いが断られることなんて、なかったですもんねぇ……困りましたねぇ……」
「……」
「もう入学式から2週間も経ちましたけど、殿下は手紙を送られましたか?メイシー嬢から手紙はありましたか?」
「……」
「まぁ、不肖・グレンがドメル教授からの報告から察するに、メイシー嬢は魔術が大変お好きなようですから、メイシー嬢が興味を持ちそうな魔術の話題を持ち出して、食事かお茶でもしながら話しませんか、とお誘いすることはできるかもしれません」
「……」
「どうなさいます?」
「……まさかグレンに良案を先に出され、あまつさえ感謝したくなるなど、思いもしなかった……」
「お任せください。私は有能な側近ですから」
そう言ってとても楽しそうに笑うグレンを見て、ジョイスは頭を抱えて、ため息をついた。