04 上司の妻に惹かれる補佐官
それからわたくしは、街の書店にて算術の本を買い求め、表紙を入れ替えてクルーレ様にお届けします。
算術というのは魔術と同じくらい数多くの用途があるのですが、なかでもクルーレ様は会計術に興味を示されたようです。
「会計術ってすごいんだよ! 組織のお金の流れが手に取るようにわかるの! それに人間の栄養素と同じで、どこか不足していて、どこが過剰なのかがひと目でわかるの!」
「そうなのですね。1桁の足し算がやっとのわたくしには、なにがすごいのかさっぱりなのですが……」
「これを見て! この本にある例だと、売上は高いですけど費用もかかってるよね!? これだと実際に手に入るお金はマイナスになっちゃうの! これを改善するためにはどうすればいいと思う!? 原価を安いものに変えると品質に影響が出ちゃうから、むしろ同じものを大量発注してコストダウンを図って、あとは輸送にかかる費用を……!」
会計術の素晴らしさを説かれるクルーレ様は、メガネがずれてもおかまいなしなほどに熱心でした。
わたくしとしても、さらに高度な会計術の本を差し入れるようにしたのですが……。
ある日、起こってしまったのでございます。
わたくしが買ったばかりの本を抱えてお屋敷の廊下を歩いておりますと、シューワイツ様の書斎から大きな声がいたしました。
「シューワイツ様! 裕福層向けの商業施設やレジャー施設ばかりではなく、孤児院や聖堂などの弱者救済のための施設をもっと作るべきです! 貧困層では犯罪が増えているんですよ!? 飢餓や病気による死者も……!」
「エアリッヒ、それは僕とブライブのほうでちゃんと考えてある。キミは領内の治安維持と、聖女組合の方々のお世話だけをしていればいいんだ」
「しかし、このままでは……!」
「くどいね。僕の大臣としての政治手腕は、長きにわたるゼルネコン家の歴史に裏打ちされたものだ。それに反対するということは、ゼルネコン家の歴代の大臣すべてを否定するも同然なのだぞ」
シューワイツ様は領主と土木大臣を兼任されておりますので、多くの補佐官がついております。
その筆頭がブライブ子爵様で、シューワイツ様の右腕とも呼ばれているお方です。
次に控えているのが、いまシューワイツ様と口論をなされているエアリッヒ子爵様。
とても精悍な顔つきをなさっていて、シューワイツ様が文化系の美青年だとすると、エアリッヒ様は体育会系の美青年といったところでしょうか。
エアリッヒ様の主なお仕事は領内の治安維持ですので、つねに帯刀されています。
ちなみにもうひとつのお仕事である、聖女組合の方々のお世話というのは、ようするにおばあさま方と……。
書斎の扉が勢いよく開いてしまったので、そばで聞き耳を立てていたわたくしは倒れてしまいました。
「ああっ!?」
「あっ、すまない! 大丈夫か?」
書斎から出てきたエアリッヒ様は、ごつごつして傷らだけの手をわたくしに差し出してくださいました。
わたくしはその手を取りながら、「ありがとうございます」とゆっくりと立ち上がります。
「キミは新しいメイドだな」
それは思わぬ一言でしたので、わたくしは思わず尋ね返してしまいました。
「どうしておわかりになるのですか?」
このお屋敷に住んでおられるのならまだしも、たまに出入りされるだけのエアリッヒ様が、なぜわたくしを新人メイドだと……。
「祭事の時は俺がシューワイツ様をお守りするから、関係者となりそうな者の顔はぜんぶ覚えているんだ。キミのことも覚えておきたいから、名前を教えてくれないか?」
「申し遅れました。『ラブバード・ヘルパー紹介所』から参りました、ミーテルと申します」
わたくしが賤民だとわかっても、エアリッヒ様は態度を変えられませんでした。
それどころか、わたくしが倒れたはずみで手離した本を、わざわざ拾ってくださったのです。
「おや? この本……もしかして、クルーレ様のために……?」
わたくしはまたしても、尋ね返さずにはいられませんでした。
「どうしておわかりになるのですか?」
するとエアリッヒ様は、廊下にわたくしたち以外は誰もいないことを確認してから、そっとささやいてくださいました。
「クルーレ様は計算が得意な才女なんだ。この前レストランで会食をしたときも、メニューの値段をこっそり暗算なさっていたよ。そうそう、食事中にブライブが領内の収支の話をしたんだが、クルーレ様は話題に加わりたそうにソワソワしてて……」
クルーレ様のことを話すエアリッヒ様のお顔は、上司の婚約者のことを話す部下のそれとは違うようでした。
すくなくともわたくしは、そう感じたのでございます。
「あの……エアリッヒ様。大変申し訳ないのですが、こちらの本をクルーレ様にお届け願えませんでしょうか?」
「なに、俺が?」
「はい。本来はわたくしがお届けするべきなのですが、さっき倒れたときに腰を痛めてしまったようで」
「なに、大丈夫か? なら俺が医務室まで連れてってやろう」
「ご心配には及びません。わたくしの腰痛はいつものことですから、湿布でも貼ればすぐに治るでしょう。でもこちらの本は、クルーレ様に急ぐように仰せつかっておりまして」
「そういうことならわかった。キミにかわって、すぐに届けよう」
エアリッヒ様は賤民であるわたくしのお願いも、嫌な顔ひとつせず引き受けてくださいました。
わたくしはそれから少し時間を置いて、お茶をふたつクルーレ様のお部屋へとお持ちしました。
お部屋の扉は少しだけ開いていて、外にまで聞こえるほどの笑い声が響いておりました。
せっかくのところを邪魔してはいけないと思いましたので、お茶だけを置いて、さっさと退散することにいたしましょう。
もちろん、楽しそうなおふたりのお顔を、真写に収めるのだけは忘れずに……。