直視
今日は半日バイトだったが、美紗は心ここにあらずだった。
明里が泊まった次の朝。彼女は青ざめた顔をしてぽつりと言った。
「何かさ……………気味悪かったよ」
真夜中の笑い声のことを言っているのだと見当はついた。
「だよね、ごめん。煩かったね」
明里は自分の両肩をさすりながら、首を振った。
「ねえ美紗ちゃんは大丈夫なの?ここ、引っ越したほうがいいんじゃない?」
「え?」
大げさだと思った。物音ぐらい大したことないのに。
部屋の外の通路に立った明里は、玄関で見送る彼女から微妙に視線を外している。
「寝ている間ずっと…………見られてる気がして」
「え、なに?」
小さな声だった。だから聞き直した。聞こえた言葉にまさかと思ったから。
けれど明里は「またね」と手を振ったきりになってしまった。
気味が悪い。美紗はアパートに帰るのが憂鬱だった。そんなに気にしてなかったのに、明里の態度で急に怖くなってきた。彼女ははっきり言わなかったけど、お化けの仕業だと思っているようだった。
いるわけない。はっきり見たこともないんだ。非科学的なもの、説明のつかないものを確証もなく信じこむのは良くない。
彼女には、やっぱり何もないよとLINEを送って安心させておこう。
バイトが終わっても明るい時間だ。何を怖がることがある?美紗は気を奮い立たすと戸の前に立った。
鍵を差し込みノブを回す。
「こんにちは」
「ひゃあ!?」
横から声を掛けられて飛び上がらんばかりに美紗は驚いた。
「あらら、ごめんなさいね」
「い、いえ」
ふくよかな年配の女性は大家さんだ。安堵の息をつく。
「ちょうど良かった、これお裾分け」
「え、あ、ありがとうございます」
袋を渡されて中を見ると、タッパーに入った惣菜らしきものがある。引っ越した当初に会ったきりだが、どうしたのだろう。
「山本さん、学生でしょ。独り暮らしは慣れた?」
「あ、まあ、慣れました」
「そう」
良い機会だ、上の階の物音について言ってみたらどうだろう。
「いえね、山本さんの隣の部屋の人引っ越したから淋しくないかなって思って」
「そうなんですね」
美紗の部屋は向かって右側が外階段。隣といえば左の部屋しかない。
「でもこれで騒音も大丈夫だと思う。上の階の人は下の物音が酷いって言って引っ越したけど、原因は山本さんの隣の人だったから」
「あ、やっぱりそうだったんですね」
美紗は昨夜の物音は上の階ではなく隣だと納得した。なるほど、引っ越す準備をしていたのか。
「でも先月に三部屋続けて引っ越したから、早く入居者決まればいいんだけど……………古いアパートだものねえ」
「え、えっとすみません、先月?」
「そう、山本さんの真上と隣の人先月引っ越したのよ」
スッと背が震えた。
「え、でも昨日……………」