大切な人
満月の夜。森の教会で日課の祈りをささげていたシスターは、扉を乱暴にひらく音で振り返った。
「シスター、いらっしゃいますか、助けてください!」
薄明かりが差す教会に入ってきたのは、黒いローブをまとった少女。栗色の髪の後ろで、なにかを重たそうに背負っている。
「この人が、森の崖から落ちてしまって」
少女は背負っていたものを石造りの床に降ろした。
中年の男だ。恰幅が良く、商人組合の所属を表す服を着ている。だがその服はところどころすり切れ、体には切り傷の他に打撲の痕もある。意識はなさそうだ。
頭に巻かれた包帯代わりの布切れは、すでに赤黒く染まっていた。シスターがそれをずらすと、右の側頭部で桃色の肉がぱっくりと口をあけた。
「教会のシスターは治癒魔法が使えるんですよね? お願いします、大切な人なんです」
泣きそうな顔で少女は言った。
容態をあらためて確認したシスターは、力強くうなずき、男の脇で膝をついた。精霊の力を借りて生物の自然治癒力を増大させる治癒魔法は、教会に所属する上での必修魔法だ。
シスターは口元を引きしめ、両の手のひらを男にかざした。ほどなくして、男の体が淡い緑色に発光し始めた。治癒魔法の力だ。
見守る少女は、邪魔にならない場所で両手を組んでいた。目元にはあふれんばかりの涙をためている。彼女を視界の隅で見たシスターは、ひたいの汗もぬぐわずにひたすら魔法を行使した。
しばらく経つと、男の体にあった切り傷や打撲の痕が綺麗になくなった。頭の傷口も、まぶたをゆっくり閉じるようにふさがってきた。
男の呼吸が安定した頃合いで、シスターは教会椅子に腰を落とした。長い息を吐いたあと、男の無事を少女に告げる。少女の目からついに涙がこぼれた。
「ありがとうございます、シスター。なんとお礼を言ったらいいか。ああ、近くに教会があって、本当に良かった」
少女は何度も頭を下げて感謝を述べた。その声に反応したのか、男が小さくうなった。目を覚ましたようだ。
「ここは、どこだ」
疑問と共に男は半身を起こした。シスターの姿を認めると、動揺した様子で問いかける。
「ここは教会ですか? 私は確か、崖から落ちて、それで」
「無事なのね!」
少女が男に抱きついた。二人は石造りの床に倒れこむ。
その光景を見て、シスターの顔がほころんだ。
少女も安堵したように笑った。
男だけが、頬を引きつらせた。
「お、お前は――」
直後、少女がローブの中から短剣を取り出し、男の喉笛を切り裂いた。一瞬の出来事だった。
喉にあいた切れ目から鮮血がこぼれる。そこに短剣が深々と突き立てられた。噴水のように上がった血しぶきが少女のえくぼに散る。
シスターが悲鳴を上げた。体を震わせ、揺れる眼差しで少女を見る。
「ありがとうございました、シスター」
少女は立ち上がり、けいれんする男を見下ろしながら言った。
「この人、長年探した両親の仇なんです。でも、追いつめたときに崖から滑り落ちて……。私、この人を両親と同じ目に遭わせるって決めてたから、どうしても助けたかったんです。ああ、近くに教会があって、本当に良かった」