やさしくころして
今日はまた、雨が降っていた。しとしとという音が耳に心地よいと、私は思う。友達は天気が悪いと頭痛が起きるだとか、ジメジメして嫌だとかいろいろ言っていたが、私は雨という天気が好きだ。私自身が梅雨の季節に産まれたからだろうか、と勝手に思っている。夏生まれでも冬好きはいるかもしれないので、完全な偏見だ。
「少し、外へ行ってきます。」
あまり意味はないが顔を隠すように、それと合羽の代わりにフード付きのマントを拝借し玄関の戸に手を掛ける。右手なしの生活にも、少しだけ慣れた。少しだけ。
「あまり遅くならないように。今日は米が支給されたから、カレーライスですよ。」
会話だけ見ればまるで、親子のようだ。実際は殺すかもしれないものと、殺されるかもしれないものの会話なのに。そういえばカレーを食べるのは、いつぶりだろうか。
実は、町へはちょくちょく出かけていた。もちろん、買い物をするわけでもなく交流をするためでもない。彼らは、このせかいのひとたちは私を認識することはできない。だからといってやたらにひとへぶつかったり、物を掴んだりしてはいけない。ちょっとしたポルターガイストになる。今の私は、幽霊みたいなものだ。
私は人混みに入って、人混みに紛れて、安心している。大衆のひとりになって、大勢のうちのひとりになると安心する。自分は特別ではない、そう思っていないと安心できない。
なんて弱っちいのだろうか、私は。
今日は雨が降っているせいか、町の往来にもひとが少ない。辺りを見回していると見知った顔が見えた、といっても此方が一方的に知っているだけなのだが。
赤毛の青年、トムだ。傘もささずに紙袋を抱えて、どこか急いでいる風だった。私はつい、彼の後を追いかけていく。相手から私は見えないというのに、物かげに隠れながら。
終着点は一つの家だった。ベルもインターフォンもなく、素人の私から見ても明らかに崩れそうなボロの家だった。私は中の様子が見えるように、窓へ近寄る。中にはトムと、これまたボロボロのベッドに横たわる老人が見えたのだった。トムのお父さん、いや、おじいさんか。老人の顔色は土気色で、今にも死にそうだった。
トムがネモさんのところへ薬をもらいに行っていたのは、そういうことか。この町には医者はいない。薬屋もない。病人や怪我人はいままで、自然治癒にまかせるしかなかったのだと、ネモさんは言っていた。医者に行こうにも、医者の居る町まで行くには距離もあるし金もかかる。
どのせかいでも多分、薬は安くはない。それでもこの国のどこの医者にかかるよりも、ネモさんは安値で提供していたはずである。ネモさんの薬は、町でリンゴ十個買うのと同じ値段だった。私目線で言えば、高くないと感じた。このせかいの平均年収が、ものすごく安かったら別だけど。
あの老人は、不治の病なのか。それとも、治せる病なのだろうか。例え治せる病だったとしても、治せる能力を持っていたとしても、私もネモさんも治すことはできないけど。
あの老人が死なないことによって、誰が、何が、困るのだろうか。『主人公』の冒険に、不都合があるのだろうか。伝説の聖剣を持つ、古の勇者だったとかなのか。
青い、私の安い正義感だった。ひとがひとの人生を、命をどうにかしようなどおこがましいにもほどがある。
なにも出来ないくせに、私は何を考えているんだ。
私は力の入らない足をなんとか動かして、重い足取りで小屋に帰っていった。
その老人の家が火事になっている、と知ったのはネモさんがカレーを作っている最中だった。
「想定外、だな。」
ネモさんがカレーをかき混ぜながら、ぽつりと言った。
私のせい、だろうか。私がトムを追いかけて、あの家に行っていなければ火事は起きなかったのだろうか。私はすぐさまフードを被って、足早に玄関へ向かう。
「おい。こんな雨の中で、どこへ行く。カレーが冷めるぞ。」
背後からネモさんに声をかけられる。小屋の中には美味しそうなカレーのにおいが充満していた。
「少し、忘れ物をしました。」
私は振り返らずに、玄関を出た。ネモさんがどんな表情をしていたのか、多分、いつも通り無表情だったかもしれないけど。
私は何をしているの。
あの老人を火事から助けて、それで私は殺される。
私は、私の人生って何だったの。
そんなことを考えながらも私の足は、速度を落とすことはなく老人の家まで走った。こんなに雨が降っているのだから、きっと鎮火しているだろうという期待もあったけど。
家は、まだ燃えていた。周りのひとたちは遠巻きに家を眺めているだけで、なにもしない。いや、もう人間の力でどうにかなるような火の規模ではない、と私は思った。普段なら私も、遠巻きで眺めているだけのひとりであっただろう。今もなお、私の身体は火事の恐怖に震えている。
「誰か、誰かじいちゃんを助けてくれよ!まだ中に居るんだよ!」
どこかでトムが、そう叫んでいる。
私はひとつ、深呼吸をする。全身の縮こまっていた筋肉が、柔らかくなった。
そうだ、今の私は幽霊だ。火も私を避けるはずだ。そんな根拠もない自信で、私は足を踏み出した。
結果から言うと、おじいさんは助けられた。火は熱かったし髪も皮膚も、少しだけ燃えたけど。おじいさんを離れた木陰に横たわらせて、私はこっそりと小屋まで帰ってきた。
小屋に帰って最初に目に入ったのは、椅子に座るネモさんだった。彼女は目を閉じて、静かに座っていた。足を組みながら座っていたネモさんはいつものワンピースではなく、黒いパンツスーツを着ている。そしてネモさんの傍らには、世界でいちばん切れる刃物があった。
日本刀だ。ネモさんの得物、なのだろう。それを見ると、背筋がぞくりとした。
「覚悟があったのか。」
目を閉じながらネモさんは、番兵は訊ねる。
「なかったです、すいません。」
正直に白状する。
「正直でたいへんよろしいな、お前は。まずは座りなさい、そして茶を飲め。」
「遺言でも聞いてくれるんですか。」
「落ち着きなさい、殺すつもりなら小屋に入る前に木陰で殺している。」
大変に物騒なお言葉をいただきました。