そんなこと言わないで
翌朝目が覚めると、右手の手首から上が消失していた。発見した時には驚いて、つい声をあげてしまったがこれが、いわゆる元のせかいへの送還であることを思い出して落ち着きを取り戻す。てっきり一瞬にして消え去るものかと思っていたのだが、徐々に消えていくということなのだろうか。それとも右手だけ先で、あとは一気に消えるパターンだろうか。
右手の事をネモさんに相談するも、
「わたしは専門外なので、推測でしか言えない。想定外や個人差というところだろうか。」
と言われてしまった。
「そも、番兵はワタリに関して専門的なことはあまりない。我々でも研究途上だ。」
いつも通りの無表情で、そう淡々と彼女は言った。
そうだ。番兵はワタリを保護こそしてくれるが、ワタリの世話をするためにいるわけではないのだ。むしろ殺すことの方が多い、のだろう多分。どちらかと言うと、どうやったら殺せるのかという方が詳しいのだと思う。いや、ネモさんに直接言われたわけではないので、全部私の推測だけど。
指を動かしている感覚はするものの、もちろん指は見えないし物を持つこともできなくなった。右手は今どの空間にいるのかわからないが、「どこか」に存在していることは確かだ。私は右利きであったものの食事で使うのは専ら箸ではなく匙であったし、此処に来てから文字を書くこともなかったので、今のところ特別に不便と感じることはなかった。強いて言うなら、立ち上がる時やよろけそうになったときはつい利き手側が優先的に出てしまうので、転ぶことが多くなってしまったのだが。
「小さな傷でも侮るなよ。ひとは、ひとの思っている以上に脆い。腹にほんの小さな穴が空いただけでも、放っておけばあっけなく死ぬ。不衛生なら、尚更な。」
擦りむいた膝小僧に、消毒薬とガーゼを処置されながらネモさんにそう言われた。
ネモさんは、元々「そういう」せかいのひとだった。私の居たせかい、西暦二千年代の日本に居れば死ぬことすらしないような怪我や病でバンバンひとが死んでいたのだろう、酷いせかい。でももうなくなってしまった、というせかい。
亡くなった家族を弔うことも出来なくなって、ネモさんはどう思ったのだろう。せかいを滅ぼした直接の原因だと言われ、ワタリに恨みを持たないわけがない。それでも今、私というワタリを手厚く保護してくれている。保護せよ、と命じられているからかもしれないけど、個人が感じてしまう意思はどうしようもないだろう。
冷え性なのだろうか、それとも先ほどまで水仕事をしていたのだろうか。ネモさんの手は、少しばかりひんやりとしていた。余計なことをすれば、怪我を治してくれたこの手で私を物言わぬ肉塊にしてしまう。そう考えてしまうと、身体に触れている彼女の手が氷のように冷酷な、冷たいものに感じてしまった。
「希望を持たせるようなことを言うべきではないのかもしれないが、右手が消えたならそう遠くない、数日中に還れるかもしれない。悲観をするな、大丈夫だ。」
幼子へそうするように、ネモさんは私の頭を撫でた。いつぶりだろうか、ひとに頭を撫でられたのは。
ああ。異邦の地で優しさに触れると、こんなにも簡単に絆されてしまう。
「手厚く保護」?