名前は親からもらう最初の愛情だってさ
アリスという娘はなるほど、アンよりは疑り深いようである。
「ミネルバさん。此処がその、仮想空間であるという証拠は提示できますか。」
アリスがそう質問した際、アンは驚いた表情で彼女を見た。
「そういえば」、とでも思っているのだろう。いつか、悪徳な新興宗教や金融会社に騙されないか。少し古臭いけど、幸福の壺とか売りつけられそうだ。
おかあちゃんは、心配です。
「よろしい。では、外でも見せようか。」
「外?家屋の外、ということですか。」
アリスの問いに、ミネルバは頷く。
「アリスは外傷も疾患もないが、まだ布団から出られる状況ではないだろう。あたしは正規の医師ではないが、歩かせる状態でないと判断したよ。」
アリスは自分の身体を見る。確かに激痛はないが尋常じゃなく疲労しているような、身体の重さと怠さを感じている。
「お気遣い、感謝します。」
ミネルバの言に、アリスは礼をする。
アンはアリスの傍らで、ただ黙って正座をしていた。
そうしてミネルバは立ち上がって部屋の、南側の襖に近寄り手をかける。和室の入り口ではない、反対の窓側だ。
襖がスッと静かに開かれるとそこには日本庭園が広がっていた、わけもなく、ただ白い世界があるだけだった。
アンは立ち上がって窓側に近寄り、外を見る。外は無風だ。
材質は硬質プラスチックか、それともコンクリートだろうか。白い壁が三百六十度、家屋の周りを囲っている。その壁は、はるか上まで伸びていて先は見えない。壁はゆるやかに湾曲していた。恐らくは、この家屋を中心にして円柱状に、壁は広がっているものと思われる。
時々宙を飛んでいるのは、ドローンだろうか。形状は丸く、カメラであろうひとつのおおきな目玉みたいなものが付いている。
「これで、納得はしたのかね。」
「とりあえずは。」
アリスは頷く。
多分、確証ではないのだろう。
だが現実だとしてうら若き乙女たちを、こんなわけの分からない場所に誘拐する意味はないだろう。
どんな変態だ。
「本当は外部から機械を止めて、実際の肉体を起こした方が証明になるのだがね。強制終了させて番兵がどう動くか、予想もつかなかったものだから。君たち患者を人質に取られたら、厄介だろう。一応生体と、仮想の肉体には繋がりがある。まあこの状況自体、人質同然だろうけどね。」
「なぜ彼らに、個性を持たせたのですか。ウイルスバスターに、そんなものは普通必要ないのに。」
アリスには、それが疑問だった。無機質な、機械のようなデータに殺されたくもなかったが、自分たちと同じように生活を営んでいるようなデータに殺されるのはもっと怖い。
「あたしはただの工学研究員ではなくてね。元は、ロボットの学習能力プログラムを作る研究家だった。簡単に言えば、いかに機械を人間に近づけるかを研究していたといいますか。馬鹿な話だけど、人格を作る過程でモノに感情移入してきてしまってね。だから自分の作ったプログラムに感情や性格、ちょっとした人生も加えてしまった。あとご丁寧にひとりひとり、名前をつけた。自分の子供のつもり、だったんだよ。」
「名前。」
そう呟いたアンは、心当たりがあった。
番兵には兵番と偽名がある。『偽名』がある、ということは本名があるということの証明ではないだろうか。
「おはなし中、失礼いたしますがよろしいでしょうか。」
その聞き覚えのある声に、アンとアリスは肩を揺らす。
開いた襖の先、外の少し手前の縁側にその男は立っていた。
忘れようもないだろう、あの黒曜石の義眼を。
そこには番兵ヴィクターがいた。その腰に、六十センチほどの日本刀を携えて。
かの御仁に、斯様に物騒な得物はなかったはずである。
彼の身体は『出口』を通った影響だろう、ところどころ凍結していて白い。
「本心では麗しい女子会にお邪魔をしたくはないのですが、火急ゆえお許しを。」
ニコリと笑う、ヴィクター。
その身体が動くたびに、付いていた氷が剥がれて落ちた。
それがアンとアリスには殺人者の笑みに思えてつい、背中に汗をかく。
その緊張状態を破ったのは、他でもなくミネルバであった。
「なかなか遅かったな、一郎。」
「一郎。」
「一郎。」
ミネルバの言に、アンとアリスは声を揃えて言った。
「その名前で呼ぶのはちょっと、恥ずかしいので止めていただけますか。マスター。」
ばつの悪そうな顔で、頬をかくヴィクター。もとい『一郎』。
「マスター。」
「マスター。」
また声を揃えてふたりは言う。
「一郎はあたしが潜り込ませた、密偵のようなものだ。ただし他の番兵に疑いをかけられないよう、感情と内部情報にロックをかけて番兵として振る舞うようにしていたから、ほとんどあたしの隠しカメラだったけど。」
「ほら、これがカメラだよ。」と、彼の黒曜石を指さす。
「まあ此処に来るとロックが解除されるようにしていたから、あたしを思い出したのは先程だろうけどね。」
「面目次第もございません。」
縁側に正座し、ミネルバに頭を下げる『一郎』。
「彼は、本当に敵ではないのですか。」
アリスが訊ねる。
「まあ、そうなるね。あたしにとって、番兵たちは元から敵ではないけど。」
「マジで叱りつける為だけに、来たんですか。」
「オフコースだよ、アンちゃん。」
ミネルバは、親指を立てながら言った。
パワフルなひとだ、とアンは思った。
「一郎って名前だったんですね。」
アリスが、笑いながらはなしかける。
「呼ばれ慣れてなくて恥ずかしいので、あまり呼ばないでください。できれば今までと同じくヴィクターと。なんなら兵番でも、芥でも構いませんので。」
気のせいか、彼が若干赤面しているようにも見えた。
そんな人間らしいところを見てしまうと彼が本当に実在しない、ただのコンピューター上のプログラムデータだとは思えなかった。
仮想上ではあるものの、ミネルバの人間らしい機械を作る計画は成功していると言っていいだろう。
正否は、知らない。
「おかあちゃんが付けた名前が、そんなに恥ずかしいのかい。」
眉を下げ、悲しそうな顔でミネルバは言う。
「そういえば、なんで一郎なんですか。」
アンが、そんな疑問を口にする。
「最初の子供だったからじゃないの。」
「いえ、俺が最初ではないはずです。」
その疑問に回答したのは、ミネルバだ。
「ああ、病院関係者の名前から引っ張ってきたはず。
あたし、ネーミングセンスはなくてさ。確か小児科の若い研修医の名前だったかも。
看護師たちにモテモテの、イケメンだったよ。あの子、長男だったんだね。」
その言葉に一郎は右手で両目を覆って、深く溜息を吐いた。
「一郎。」(のдの)
「一郎。」(の∀の)
「その名前で呼ぶのはちょっと、恥ずかしいので止めていただけますか。マスター。」(*/ω\*)




