箱の中のおおきな図書館
アリスは薄らと目を開く。木目の綺麗な、イナゴ天井が見えた。
暖色系のシーリングライトが、部屋を照らしている。
柱時計だろうか、規則的なリズムをコチコチと刻む音が聞こえている。
私は、和室に寝かされていた。かすかに香る、イグサが心を落ち着かせる。
身体がとても重く、起き上がれる気がしない。
ふいにワン、となにかがひと鳴きした。
声がした方へ視線を動かすと白い、毛がとてもモフモフしている犬がいる。サモエド種の犬が、舌を出して可愛らしく此方を見ていた。
私は、犬を撫でようと左手を伸ばす。
しかしながら、犬はそっぽを向き少し開いた襖から部屋を出ていく。
行き場を失って宙に浮く、私の左手だけが残った。私はぱたりと、左手を降ろす。
体力がごっそりと、抜けている感覚がするのだ。まるで高熱に浮かされたあとのような、激戦後の疲労のような感じだ。
此処はどこなのか。
何故、アンは傍らにいないのか。
我々は無事、追跡から逃れたのか。
心配すべきことは多々あったが、今の精神状態では考えることも難しいと思われる。
上質な布団に寝かされていることから、手厚く保護されていることはわかった。だが番兵とは、かなり手厚く保護もしてくれる連中である。此処が敵地ではない、という保障はどこにもなかった。
だが恐ろしく、まぶたが重い。そうこうしているうちに両の目は閉じられ、アリスは寝息をたて始める。彼女の神経は、図太い。
黒衣の女が説明することを、アンは咀嚼していく。
まず此処は、否、この空間は『現実』ではない。
ではなんなのかというと、「現実の反対は、仮想ということ。つまり此処は『仮想空間』ということだ。」と言われた。
仮想空間、というと小説や漫画でよく見るようなネットワーク内に形成されているせかいのこと、で合っているらしい。
ざっくばらんにではあるがどうせ己は素人、詳しい説明をされても解らない。
特殊な機械を用いて人体に影響を及ぼし、脳内に仮想的空間を作り上げる。これを用いれば空想したせかいを他者に見せたり、見せたい夢を見させたりすることも可能とのことだ。
例としては望む理想的せかいをつくって一種のサービスとして提供したり、建設予定の建物を仮想空間に建設し使用感を試したりもできるらしい。
その気になれば、ひとは仮想空間で生活もできる。
狡猾に活用されると疲れない、お腹が空かない、病気にならないひとがつくられてしまう危険性もあるが。
だがこの研究は予算などの関係もあって思ったよりも進まず、専ら精神の治療などで使われているとのことだ。
つまるところ。
「じゃあ私たちふたりは、患者なのですか。」
「君たちだけではない。今までいたどの『ワタリ』も、とある病院にて治療中の患者だ。
あるものは事故に遭い植物状態で、あるものは精神を病んで、あるものは服毒自殺を図って運び込まれた患者だ。ああ、何人かは金に困って自分から被験者に志願した、気骨のある輩もいたかな。」
「このせかいは、偽物か。」
アンは自分の掌を見て、揉んでみる。温かく、ふにふにとした肉の感触がした。
「残念ながら、偽物だ。
だが触覚、味覚、嗅覚、視覚、聴覚といった五感はもちろん、空腹すらも完璧に実現させたこのせかいを現実と言わざるして、何が現実なのか。開発者のひとりとしての、プライドはあったよ。例えマッド、と呼ばれてもね。
国がもう少し予算を出してくれれば、莫大な国力として稼ぎ頭となってくれたであろうに、この国は昔から重大なところで尻込みをする。」
女は眉間に皺を寄せて、顔を歪ませる。
頭の中に住む計画、ようなものだものなあ。
アンは、ちょっといいなと思う。それが正しいかは、さておいて。
「お偉いさんの顰蹙を買うぐらいならと、計画は頓挫気味だ。忌々しいが結果として、このプロジェクトには欠陥があったわけだけど。」
「欠陥が、『番兵』か。」
「番兵は、元は世界中の物語やゲームを集めたフィクション部門の監視プログラムだった。」
「フィクション部門。」
「童話、寓話、小説、ゲームなどのコンテンツを集めたデータよ。世界中の物語がひとつのソフトに集約されて、視聴できるようになっている。箱の中のおおきな図書館だと、当時は話題になったものでね。
第三者目線で傍観することもできるし、登場人物として参加することも可能だ。
番兵はもちろん、参加者を攻撃しないようプログラムされたはずだった。それこそ白血球みたいに、コンピューターウイルスを駆除するために放った子たちだった。だがバグか突然変異か、患者や被験者を異物として攻撃、排除するようになったのよ。」
「原作を改変させようとしたものは、異物か。」
「どこをどう設計間違いをしたのか、未だ調査段階だが。多分『正』を『異』とするものを敵性行為と見做したということだろう。無駄に個性を付けたのが、アダになったと思いたくはないが。」
確かに番兵は、やたら個性豊かだった。それこそ、人間みたいに。
「発覚したらものすごく、罵倒された。早々に彼らを駆除、破棄しろとも。
製作者としては憤懣やるかたしだったけど、子供を叱るのも親の役目だからね。こうして、自ら仮想に入ったわけだ。」
自らをおかあちゃんと言い、ただのプログラムを子供と言う。
あきらかに理系ぽいのに、文学的なことを言うものだと、アンはその時思った。
顰蹙
憤懣
読めるけど、書けない漢字が多いですね。
調べながら書いたり読んだりするのも、結構楽しいですよ。




