そうだ、筋トレしよう
だれかに殴られたこともないような、無垢なる少女に狩猟ナイフを渡して。目の前の野ウサギを殺せと言えば果たして、彼女は野ウサギを屠ることは出来るだろうか。
どんなに切れるナイフを渡したとしても、屠る術を教えたとしても、なにかを「殺した経験」がない者に野ウサギを殺すことなど出来はしない。生業や、生きるか死ぬかの瀬戸際ならば分からないが、生きている体を、温かな肉を切り裂くのは経験のない者にとって決して容易ではないだろう。
ゲームの勇者がはじめのモンスターを倒すのに、なんの覚悟も葛藤もしていないと貴方は思うだろうか。生き物を殺すということは方法こそ容易だが、実行は簡単ではない。
ある番兵は戦国生まれの姫で、ひとの死が身近にあった。優しい彼女でも、ひとを殺すことに躊躇はなかった。ある双子の番兵は王直属の兵士で、人殺しのプロでもあった。
だがわたしは、ただの女だった。料理用の包丁すらもろくに握ったことがないような、凡庸な女だった。それでも殺さないでいられたのは、このせかいにワタリが来なかったからに過ぎない。
「番兵は兵であるから普通、戦闘力を持っている。もっと言えば『戦闘経験』が有る者が、派遣される。だがわたしは戦闘経験がないし、戦闘力もない。武器も護身用にと持たされた、この懐剣しかない。」
ハルさんはコートの懐から黒く光る、棒状のものをぼくの前に差し出した。長さは三十センチもないだろう。了解をとって触れてみると、大きさに反して少し重い。竹光などではない、まぎれもなく武器なのだろう。でなければ、護身用にもならない。
ぼくは刀を抜かず、そのままハルさんへ返す。ハルさんは、刀を受け取りはしたものの懐には戻さず、ぼくの目の前に置いた。
「わたしは人間どころか、そこらへんに生息している野ウサギすら殺すことは出来ないだろう。わたしは今まで、そういうことに縁がなかったのだ。」
「番兵というのは、本人の意思とは関係なく任命されるものなのですか。」
「意思はある程度反映されるが、最終決定はボスがする。」
「ボス。」
ぼくの頭の中に浮かんだのは、機関銃を背負ったサングラスのおっさんだった。
「ボスはお身体こそちいさいが、度量のおおきなお方だ。決して本人の意思を無視する方ではない。わたしが番兵として使えないことはご存知だろうが、それでも此処へ派遣されたのはなにかお考えがあってのことだったのだろうと思う。事実このせかいには、貴殿が来るまでワタリが来なかった。」
「そういう配慮だった、ということですか。」
「殺すこともできないくせに番兵になりたいなどと言った、これはわたしの咎だ。誰のせいでもない。だが、いざとなってもわたしには貴殿を殺すことは出来ないと思う。わたしの力では、成人男性を絞め殺すことも容易ではないからな。」
「世の中には、筋骨隆々の成人男性を倒すことが出来る細身の女性もいますよ。」とはさすがに、言わなかった。
「ワタリがせかいに影響を及ぼしたとしたら、せかいはどうなります。」
ふと疑問に思っていたことを質問してみる。
ハルさんは少しだけ考える素振りをし、答えた。
「決められた結末にならなかった、主人公の運命が変わってしまった場合そのせかいは消滅する。せかいとしての形、のようなものが保てなくなるからだそうだ。だがまれに、残ることもある。奇跡的に残ったとしてもそのせかいは、以前のものとはまったく異なったせかいになってしまうらしいが。」
「魔法使いが助けなかったシンデレラ、王子さまがキスしなかった白雪姫、と言った感じですか。確かにおはなしが変わってしまえばそれはもう、その物語としては当てはまらないですね。
では番兵がもし『悪性』のワタリを見逃した場合、その番兵は罰せられますか。」
予想外の質問だったのか、ハルさんは先程よりも長く考えていたが数分ほどで回答してくれた。
存外、記憶力の良いひとなのだろう。
「いや、いまのところは懲罰の対象にはならない。懲罰機関もないはずだ、おそらくは。だが故意に見逃すことは、せかいの滅亡に加担することと同義だ。ふつうの番兵ならばまず、そんなことはしない。」
淡々と、教科書の字をなぞる様にハルさんは言う。
続けてぼくは質問する。
「このせかいの結末は、ハッピーエンド、大団円ですか。」
「住民が国に反旗を翻して抵抗するが、皆殺しになる。町には誰もいなくなって、はなしは終わる。」
「地獄みたいな、バッドエンドですね。」
「作者の意図など、読者には想像することしかできない。バッドエンドにはバッドエンドなりの理由も存在するから。現実世界への警鐘などがそうだ。確か作者は、国直属の処刑人だったはずだ。」
「処刑人。」
「首切り役人だ。どのせかいの、どの時代のひとかは存じないが貴殿の居たせかいではないのだろうな。
このせかいには、刑に情状酌量や執行猶予というものがない。暴力亭主に殺されそうになった妻が、反対に夫を殺してしまっても殺人罪。貧困ゆえに、借金を滞納してしまったら契約違反で私財没収。どんな理由があってもひとをふたり以上殺してしまったら、弁護の余地もなく死罪。ここはそんなせかいだ。」
刑は本来、情を介在させず公平に執行されるべきもの。だが、このせかいは度を越しているのだろう。刑に不服を申し立てても、反逆罪として処されるだけらしい。
「独裁、なんでしょうか。」
「独裁にしては税や、法令などは常識の範囲内だ。司法の裁定だけが異常、というべきかな。ちなみにわたしは司法関係者に会ったことがない、というよりはなしの根幹に関わるので会えない、というのが正しい。」
はなしを聞くだけ聞いてワタリは、顎に手を当てて考え込んでしまった。しばし思考したいのだろうと、わたしは静かに座っていることにした。
薄汚れた畳の隙間からちいさな蟻が一匹、這い出てきたのをただ茫然と眺めている。
「ハルさん。」
何分、何時間ほどが経過したのだろうか。番兵がワタリから目を放すなど、本来ならばあり得ないことだ。わたしは何事もなかったかのように居住まいを正し、返答する。
「なにか。」
「ぼくはこのせかいを滅ぼそうと思いますが、どう思いますか。」
まさかそんなことを言われるとは、夢にも思わなかった。
実際彼は、わたしがはじめて目にしたワタリだ。ワタリというものがどういうものなのか、わたしはわかっていない。
発言の衝撃にわたしは、返事ができない。ワタリは、はなしを続けた。
「貴女はワタリを殺さないといけない恐怖に怯え、町のひとは殺されてしまう運命にある。そんなクソみたいなおはなしには、ぼくは反対です。だからぼくはこのせかいを、滅ぼします。」
まるで、小学生が考えたテロリストの決意表明のようだ。いや実際に、テロリストの決意表明なのだが。
「そんなことを許容できるはずがないだろう。その前にわたしがお前を、」
「でもぼくは殺されたくないし、ハルさんに殺して欲しくないです。だから、ぼくはこれから行方をくらまします。」
そう言うとワタリはどこから取り出したのか、黒い布をわたしに被せてきた。視界が黒一色に変わる。嗅ぎ慣れたにおいにすぐ、自らの布団であることはわかった。
「お前は阿呆だ、真正の阿呆だ。」
「ぼくは最初から阿呆ですよ。」
布に重しがかかったのだろうか、あがいてもなかなか抜け出せない。そうこうしている間に戸の開く音がして、ワタリの声が遠くなり消える。
もがいてようやく、布団から抜け出すことができた。自分がこんなにも非力であったことに、ショックを受けつつ辺りを見回す。部屋にはわたししか居らず、ご丁寧にも玄関の戸が閉じられていたのである。しばしわたしは、頭を抱えていた。
番兵には、千里眼が備わっている。主人公とワタリが今どこにいるかだけが分かる、ごく限定的な超能力が。もちろんわたしにも備わっている。備わってはいるもののわたしは、今まで使ったことがなかった。
超常的能力が急に使いこなせるはずもなく、わたしはワタリを見失ってしまったのだった。
ぼくはこれから行方をくらまします。(・∀<)-☆




