帰去来 3 民生の遺したもの
ピッキン。
床に落ちたナイフは鋭かった。床に傷をつけるほど鋭い。
もうこのナイフしか残っていなかった。これが民生が自らの病名を明らかにした鋭い道具だった。
………………………
詩音はもうすぐ出産休暇に入るところだった。病理検査部へ、民生の遺品を整理しに来ると、もう民生の席はどこにもなかった。今日は、病理検査部長が預かっていた段ボールを、引き取りに来るだけ。
「上原さん。ここですよ。」
何度も会議で顔馴染みになった部長は、笑顔で迎えてくれる。彼らは詩音が同情を嫌うことを知っている。
「ありがとうございます。」
詩音は段ボールを受け取ろうとしたが、妊婦には重すぎる荷物だった。
「それなら…、ご自宅へ送って差し上げますよ。」
部長は詩音の気持ちをつかもうと、様子を伺いながら段ボールを配送させる手続きを取った。
………………………
鴻巣の三田は漸く暑かった。民生の遺品は、ほとんど公生たちが持って行ってしまった。詩音の手元に残ったのは、見慣れない道具箱のみだった。それさえも、一人で子育てを始めた詩音には、中を見る余裕はなかった。
「あんたと結婚させなければよかった。いや、あんたと知り合わなければ、民生は幸せだったんだ。」
公生は気がついたように詩音を睨む。
「サラはまだ乳飲み子。彼女が小さい間はここに置いてやる。一歳になったら出て行けよ。」
母乳とおむつ替え。夜泣きの際には、三田の町内会会館までサラをあやしつけながら、歩く。赤子の顔立ちに民生を見ていることだけが、救いだった。
………………………
サラは育って一歳。もう盛んに歩き回る。様々なことに興味を持ち、気持ちの優しさと表情の落ち着き。それらは詩音の宝だった。
ある涼しげな木陰のひと時、サラが黙って座っている。無言だった。
「いたずらをしている。」
そう思って背後に近づくと、民生の道具箱を開けていた。バラバラガチャン。何が落ちたのだろうか。慌てて受ける詩音。指から滲んだ血。それは、トリミングナイフだった。
その鋭さで、詩音は民生の鋭さを思い出した。