月光
その昔、まだ人祖アダムとその妻イヴが天の楽園に暮らし出すよりも遥か昔、一人のひ弱な天使があった。
その天使は、他のどんな天使たちよりも幼く、他のどんな天使たちよりも弱い最下級の天使であった。けれども、創造主を思う気持ちだけは人一倍強く、またそれが本人の自負するところでもありさえした。
ある日、創造主を称える晩餐会が開かれた。その天使は末席で、晩餐の給仕係。大天使たちに手荒に使わされることさえ悦びであった。「お前たちに話しておくことがある。」と、唐突に主は告げた。続けて曰く、「お前、もっと近う寄れーー。」と。
そう言って万物の主は、静かに話して聞かせたのである。その天使にとって未来永劫、逃れることのできぬ聖なる御告げをーー。
これは大王ルシフェルの切なくも哀しいお話。
※登場人物が「自死」について言及しています。ご覧になる際は十分にご注意ください。
※誤字脱字等、御座いましたらご報告願います。
※ご意見・ご感想等、お待ちしております。
イエスが復活したとされる日は、今日では聖日とか主日あるいは安息日などと呼ばれている。
その日は一週間のうちではじめの一日(ユダヤ教では第七日)とされているが、個人的にはこの日は週のはじまりというよりはむしろ最後の休日のような感がある。
思考の半分ほどで、そんな祝祭日に対する一個人の捉らまえ方をつらつらと考えつつ、こんなことを真剣に考えているのは、この世界ではきっと自分くらいのものだろうと軽く失望する。
日曜日ということもあって、宮殿内部はいつも以上に暗い静けさに包まれていた。静寂な空気が離宮全体を支配する中、少年は一つ一つ丁寧に燭台に火を灯していった。
広い大食堂には、少年の他には誰もいなかった。
食堂の中央には一際大きな方形状の食卓が置かれ、それぞれ向かい合うようにして等間隔に椅子が並べられてあった。すべての席にはきちんと食器やグラス類が整頓して置かれてあって、これらの準備は勿論すべてこの少年が独りで行ったものである。
ところで、少年は見た目の容姿こそ十四、五のやや童顔の男子であったが、その齢はすでに万を遥かに超えていた。
きりりと引き締まった表情に漆黒の髪と瞳、軍服にも似た洋服をまとったその姿はなるほど地獄の長に相応しい威厳と気品に溢れていたが、今はその黒い洋服の上から真っ白のエプロンを身につけている。何とも可愛らしい様子である。
ただでさえ童顔でどこか儚い感じさえあったから、尚のこと重々しさから見放されていた。けれど、それでも永い歳月を生きてきた者の湛える貫禄と、あの落ち着きとが確かに感ぜられる。
その人物こそが確かに、地獄の一切を統べる大王なのであった。
大きな食卓には、二十にも及ぶ座席が設えられ、それぞれの席にはもうすでに温かいスープが注がれてあった。最後に主人のスープ皿にそれを注ぐとエプロンをワゴン台に片づけて、大王ルシフェルは何の躊躇いもなく最末席の椅子へと着席した。
「万物をお造り給うた創造主さまに。そして、その神の子たる救世主さまに……アーメン」
ルシフェルは胸の前で静かに逆十字を切った。主人の座すべき席に軽く杯を掲げ、目を伏せて独り黙祷を捧げる。そうして一口だけ聖なる神の血あるいは聖酒と呼ばれるものを口に含んで嚥下すると、少年はにこやかに微笑んでナプキンに手をかけた。「うむ」と一つ満足げに頷く。今回の葡萄酒の出来もなかなかに良い。
「先週のスープは少し塩気が強かったようなので。リベンジです!」
大王は主人の席の方をちらちらと盗み見ながら、他の上座の席々にそんな意気込みを伝えた。自身もスープ皿に手をつけるものの、意識の大半は上座の方へと向けられているために手元が覚束ない。けれど、そんなことにさえも心底楽しさが込み上げてきて、少年はまた微笑むのだった。
「聞いて下さい、創造主さま! ヴェルったら、ヒドいんですよ」
自らが焼き上げたライ麦の丸パン(手作りの石窯で焼いた自信作だ)を少しずつ千切っては口元へと運びやりながら、大王はまるで小さな子供のようにせわしなく喋り立てている。
「その日は午後から、庭園の湖畔を乗馬がてら散策する約束だったのに。すっかり忘れちゃってたんですよ! ねっ、ヒドいでしょ?」
やがてスープが終わり、魚料理、肉料理と大王は順にお皿を交換して回った。大王は終始、嬉しげであった。
ルシフェルはすべての座席において、誰がどのテーブルに座しているのか完璧に把握できていたから、各人の好みに合わせてソースの濃さや食材の絶妙な火加減などを調節することが自在であった。
「ガブリエルさま、ガブリエルさま! お肉の塩梅はいかがですか? ちゃんとウェルダンになってるでしょ?」
「カマエルさまはレアで、ソースも濃いめ。お肉は厚く切った方がお好きでらっしゃる。でも、良く噛んで下さいね?」
「ウリエルさまはほんのり赤身が残るくらいで、薄味くらいがお好みっと!」
ルシフェルは自身のテーブルに戻るとまた同じように上座の方を窺い見ながら眼前のサーロインにナイフを入れた。
自分で評を付すのも何だが、完璧だ。ステーキの火加減も、ソースの味も、その舌触りも完璧――。思わず笑みが零れる。後はデザートさえ上手くいけばもう何もいうことはない。
口元をナプキンで拭いつつ静かに指を鳴らすと、途端にワゴン台の薬缶から湯気が上り出した。席を立つと、ルシフェルはそれを慣れた手つきでポットに注ぐ。最良の割合で調合された茶葉は、すでに人数分準備してある(勿論、各人ごとの好みに合わせて、抽出時間やミルクの温度に細心の注意を払うことを怠ってはならない)。
「さあさあ、今日は洋梨のタルトですよ! たくさん召し上がって下さいね」
全員のテーブルにティーカップを並べ置きつつ、同時並行でタルトを切り分けてお皿によそう。にこにこと笑みを浮かべていた少年は、しかし主人の席まで来た時に、不意にその手をとめた。
「…………」
カップを置くには置いたものの、それを仲立ちとしてまるでテーブルと一体になったかのごとく、少年は微動だにしない。ただじっと、主賓席の左脇でやや身を屈めた状態で、しばらくの間そうしていたのだった。
実際には、ほんの十数秒のことであったろうが、ルシフェルにとってはもっと長くに感ぜられた。
一分か、一時間か、一日かいや一年か。気の遠くなるような時間、そこでそうしていたような気もするし、それはほんの数回の瞬きの間にすぎなかったようにも思われる。
意識が……自身の意識がぐちゃぐちゃに溶けて、何が何だか分からなくなっていくのが、この意識の奥底にいるもう一人の誰かを通して、漠然と理解できた。
狂った意識の中で、ああ今、自身は狂っているんだと認識しているこの意識は何だろう。その意識を認識する、この意識は何だろう。この意識を自己の意識と認識している、この意識は一体何なのだろうか。
気が狂いそうになるのを冷静な部分で落ち着かせつつ、ルシフェルは何とか自己の意識を正常に保とうと努力する。
その額に脂汗を浮かべながら、ルシフェルは甦る記憶を押さえつけようと懸命に耐え忍んでいた。
ぽたり、ぽたりと額から汗が伝う。
自分のような、悪しきものの汗が、主の御皿に滴り落ちる。
そんなことは許されない。決して、許されるべきことではないのだ。
「…………創造主さま!」
ルシフェルは主人の御許に跪いた。椅子の上に額を押しつけて、ただ静かに涙を流す。けれど少年の双眸から溢れ出るそれは場違いなほどに真っ赤な、血の涙であった。
「創造主さま、僕は! 僕はいつまで、この世界に居続ければよろしいのでしょうか?」血涙を流して、少年は問うた。「いつまでッ! こんな……」
ルシフェルは震えながら立ち上がり、不意に視線を隣の席へと移した。
覚束ない足取りで隣の……大天使ミカエル(が座すべきはず)の椅子ににじり寄る。蹴躓きそうになってとっさに食卓のシーツを掴んでしまい、お皿やグラスががちゃがちゃと音を立てて床に散らばったがどうでも良かった。胸が痛い。無性に胸が苦しかった。
少年は両手で左右の肩を交差するように掴んで、その胸を閉じ込めた。そうでもしなければ、抱え込んだ感情やそのほかの何もかもが、この胸から溢れ出してしまいそうだった。
背骨が痒い。肩甲骨のあたりがむずむずと……。
「ミカエルさま。あの時のように、また僕をお叱り下さい。どうか……」
ルシフェルは血涙を撒き散らしながらラファエル、ガブリエル、カマエルと、かつて自身を可愛がってくれた天使たちの御傍に歩み寄って懇願する。けれど、彼らからの返答が返ってくるなどということは決してなかった。
大王はとうとう、声を上げて泣き出した。それでも、声が漏れぬようにと、噎び泣くようにして独り身を震わし、ただひたすら血の涙を流す。
「こんな世界に、僕独りで……」
ルシフェルは上座の、主人の席の背後にかかる大きな絵画に視線を彷徨わせた。一際巨大なその絵は、昔いた天上界の神殿を描いたもので、そこには玉座に座る創造主と、主に近しい天使たちの懐かしい顔が微笑を湛えているはずだった。
主の御姿を探す――。
しかし、血涙のために、誰がどこにいるかさえ、今のルシフェルには分からない。
「僕独りで、どうやって……。一体どうやって生きていけと仰るのです」
まるでぜんまいの切れた人形のように、ぺたりとお尻を床につけてその場に崩れる。
足に力が入らなかったが、別に入れようとも思わない。錆色の血が頬を伝うのを、ただ何となく感じていた。
「血、だ」
あれだけ泣けば当然といえば当然で、主人の席を中心に床からテーブルクロスから、あちらこちらに自身の血涙が飛び散っている。デザート皿には汗も溜まっていた。
「どこのどいつだ、神聖な創造主さまのテーブルにっ! 罰当たりな奴だなあ」
こんなどす黒い、腐ったような濁った血を流す奴だ。まともな奴ではないだろう。少なくとも高位の天使ではない。
「まったく失礼な奴ですね、創造主さまのお席なのに」
少年は立ち上がり、新しい清潔なナプキンで濁ったデザート皿を拭った。
その時、再び主の皿に血の雫が滴った。
ルシフェルは皿を覗き込むようにして良く良く凝視してみた。そこには、双眸から穢れた血を流す自身の顔が映し出されていた。その顔が、冷たく笑ったような気がした。
「僕じゃないッ!」ルシフェルはデザート皿を叩き落とした。足元のグラス類とぶつかって不快な音が食堂に響く。「穢らわしいッ!」
「そうだ、清めなくちゃ!」
ルシフェルは懐から小さなガラスの瓶を取り出して、小瓶のコルクを抜いた。今朝清めたばかりのそれを、十字を切るようにして辺りに振りかける。飛び散った自身の血涙に触れた途端、それは焦げたような異臭を放ちながら煙を上げた。
「浄化だ、浄化の呪文。何でも良い。えっーと、えっと!」
「ルシフェル様」
不意に声がした。まさか本当に天使さまが――。
少年は微笑みながら、扉の方に視線を投げた。
「……ヴェルゼブル」
大天使ミカエルの椅子を支えにして何とか綺麗に直立する。けれど次の瞬間には、大王は忌々しげな視線を送った。この世のものとは思えぬほどに冷めた声色で彼の名を呟く。
「人払いを命じたはずだが」
武官風の格好をした青年は、しかし立ち去るどころか主人の席の傍まで近寄ってきた。
「無礼者、主の御許に。悪魔の分際で」
これはルシフェルの本心である。なのに眼前の武官は、くすくすと笑声を上げるので、ルシフェルは気に食わない。まったくもって真剣であるというのに。
「お前、栄誉ある近衛騎士団の長でありながら。容易く主の御前に近づいて良いなどと思っているか?」
「確かに以前はそうでしたが。今は貴方にお仕え申し上げる騎士の一人です」
「減らず口は良いんだよっ。下がれ、今すぐにっ!」
ルシフェルはそう言って、また小瓶を振り上げた。
「陛下、お止め下さい」
武官は顔を顰めて主君に歩み寄り、
「お顔にでもかかったらどうします。爛れてしまいますよ?」
そう言って手慣れた手つきで大王からガラスの小瓶を取り上げて自身の懐にしまった。
「どうしてさ?」ルシフェルはきょとんとした顔で訊き返した。「ねえ、どうして?」
「貴方様が、魔王陛下であらせられるからです。最も強く、最も畏い」
「煩い……」
しかし、武官は言葉を続けた。
「強大な魔力とその知力で、すべての悪しき者どもを従え――」
「うるさい!」
ルシフェルは心底忌々しそうに顔を背けた。祝福された小瓶は、一つだけではないのだ。
大王はもう一つのガラス瓶を取り出すと、栓は抜かずに掌に握り締めて押し黙った。額にあてがい、祈るような仕草をする。あたかもそれが親の形見であるかのようにしっかりと握り締めていた。
武官は先ほどと同様、それもまたさりげなく取り上げようとしたが、はじめルシフェルは頑なに掌に閉じ込めて小さな抵抗を見せた。
魔王はいつも我が儘で自分勝手で、常に威張り散らしていなくてはならぬ。それに強情でなくてもならないのだ。魔王とはそういうものなのである。
ほとんどたいていの悪魔なら何を言わずとも跪き、どんな命令にでも進んでその身を捧げるというのに。しかしこの眼前の武官からはそんな風な様子は一つもなくて、ルシフェルはほんの少しだけ剥れた。
ぷいとそっぽを向いて視界の中から弾き出せば、多少なりとも胸中の不満や憤りが軽くなった様な気がして、ルシフェルはそんな自分自身に少し驚いた。
「王たちが不安がっております。貴族たちも。陛下がこの百年、まともにお顔をお見せにならないから」
「うるさい……王侯どもなど、勝手に不安になってるんじゃないか」
「陛下。皆、心配なのです。陛下にもしものことでもあれば、と……」
「もしものことなど、あるものかッ!」
ルシフェルは声を限りに怒鳴りあげた。刹那、その背から漆黒の見事な羽が勢い良く生え出でた。艶やかで光沢を帯びた美しい大羽である。
もしものことなど、あるわけがない。とうの自分自身がそれを望んでいるというのに。待望しているというのに。
自らの死――。これまで幾度となくルシフェルが冀うてきたもの。
配下の王や貴族たちは、待っているのだ。その時が来るのを。それまでは主の言いつけを守り、職務を全うしなくてはならない。誠実に、そして忠実に。
〈最後の審判〉。その時こそ、善なる者と悪なる者は地上で相対し、そうして二者はそれぞれの観点で人類を裁く。両者はそこで初めて互いに手を取り、協同するが、唯一その輪に加われぬ者がある。
大王ルシフェルである。地獄の長たるルシフェルだけは、唯一裁きに加わることができない。
「貴方様は、すべての生きとし生ける者にとって必要な存在です。何より創造主が望んでいるのです、あなたの存在を」
「うるさいっ、よくも! よくも主の名を軽々しくッ」
少年は身震いする。忘れようとしていたことを、眼前のこの悪魔が思い出させようとしている。考えたくなどないのに!
「主も主だ! なんと残酷なことを思いつかれるッ。どうして僕ばっかり……どうして僕だけがこんな――」
〈最後の審判〉。それは生きとし生ける者が等しく主の裁きを受ける儀式。それが終わった後、悪なる者はすべて主の祝福を受けることになる。そうして〈神の国〉で暮らす権利を得る。唯一、ルシフェル独りを除いては。
「〈主宣はく、「裁きはすべて悪しき大王が血を以て記せ。」〉」
「……やめてヴェルゼブル。お願いだから」
「〈続けて曰く、「悪しき大王を磔刑に処せ。さすれば審判は開かれむ。」と。〉」
「いやだいやだ聞きたくないっ」
大王の頬を文字通り、血涙が流れていく。
もう何度となく読み返し、暗唱すらしたその一節。大王ルシフェルの心はまたも切り裂かれる。
人間の国――地上の世界で編まれた教典は確かに主の御言葉や御告げを書き記してはいたが、それらすべてを忠実に、一言一句違わずに伝承することはできなかった。しかし聖なる書であることに変わりはない。ルシフェルは人間たちが編纂したその書物の一切を空んずることができるのだった。
今、腹心のヴェルゼブルが唱えた文言も、その聖なる教典の一節である。
主を神と信奉する人間たちが最も重要視する一節であり、天使も精霊も悪魔でさえもが大切としている一節。
そこにルシフェルの名はなかった。それが何を意味するか少年には分かっていたし、またこれが誤った伝承ではないということも分かっていた。だからこそ大王の涙は止まらなかった。
「いやだよ、ヴェルゼブル。死にたくなんかないよ……」
「ではご命じ下さい、ルシフェル様。我が軍はそのために在るのです。我らに闘う理由をお与え下さい」
「…………」
少年は青年に背を向け、そのまま主賓の――創造主が座すべきはずの椅子の前で跪くと、
「創造主さま。死を遠ざけようとする、この欲深なルシフェルを許し給え」
そう云って主の椅子に頬を擦りつけて、泣いた。
少年の言葉は呟くようで、最早微かな囁きほどであったが、それでも武官にはしっかりと聞き取れたようで、
「御意――」
返答するや否や、ヴェルゼブルは後ずさるとそのまま姿を消した。しばらくは彼の気配があったが、やがてはそれも無くなって、大食堂にはルシフェル一人になった。
どれくらいの間、そうやって主の椅子に顔を埋めていたか。
夢を見ていた気がする。
遥か昔。過ぎ去りし天界での思い出。
追憶の中の自身は、純白の羽に真っ白な白衣を身に着けて、誰よりも幼く、誰よりもか弱かった。髪の色は良く憶えていないが、少なくともこんな真っ黒でないことだけは確かだ。
「……眩しい」
少年はふと意識を窓の外へと向けた。主の庭園に似せて作った美しい庭に、白銀の月の光が降り注いでいる。今夜は満月のようだ。
星もなく、太陽も昇らないこの世界にとって月は、ルシフェルの気を幾分か紛らわせてくれる。
(眩しいと思ったら、今日は満々月か)
ルシフェルは庭園に出た。頭上を見上げると、寄り添う双子月の両方が真ん丸で、ルシフェルは小さく笑みを浮かべた。どんなに気の滅入る時でも、月を見るとやはり落ち着くものである。
「大魔王ルシフェル」
卒然声をかけられて、ルシフェルは辺りを見渡した。「おい、大魔王」
またしても腹心ヴェルゼブルかとも思ったが、その考えはすぐに捨てる。ヴェルゼブルなら決してルシフェルのことを「大魔王」などと呼びはしない。
「お前が地獄の大魔王ルシフェルだな?」
「……うん。そういうお前は? 奇麗な羽だね、それ」
ルシフェルは中空で翼をばたつかせている白い存在に手を伸ばそうとしたが、
「気安くボクに触れようとするな、悪魔の分際で」
「痛い!」
風の刃に手を切り裂かれて、その羽に触れることは叶わなかった。
「ボクは見習い天使のラタフェルだ。今日は創造主さまのお使いでわざわざ降りて来た」
「そうなんだ……」
「まったく主も僕使いが悪い」
「と言うと?」
「ボクはまだ天使になったばっかりで、つい半世紀前に生まれたところなんだ。なのに、そんな幼子に一人でこんな仕事をお任しに」
「へえー、それは大変だったね。ここに来るまで苦労したでしょ」
ルシフェルは傷ついた手の甲を摩りながら何事かを呟いた。見る見る傷が癒えていくが、飛び散った血痕だけは消えることなく庭を汚したままだった。
「本当だよもう! 疲れたー」
手についた血を嘗めとりながら、「それで、一体どんなご用事?」
「うーん」見習い天使は滞空したまま胸の辺りで腕を組んで、「それが良く分からないんだ。大天使さま方も、行けば分かるってさ。ねえルシフェル、どういう意味だか分かる?」
「うん。分かるよラタフェル」
「気安く名前を呼ぶなっ」
「ごめんね、天使さま」
「ふんっ。それで? どういう意味なのさ」
ルシフェルは笑みを深めた。そうして一歩、天使に詰め寄ると、
「――ッ! ぎゃあああッ!」
腰に吊ったサーベルを引き抜いて、物の見事に天使の右翼を切り落とした。これですぐには飛び立てまい。
「大魔王めっ! 貴様どうして!」
か弱げな叫声を上げて、それでもなお逃げ去ろうとする片翼の天使にサーベルを振り下ろす。
「や、やめろーッ!」
天使はついに、地獄の土に触れてしまった。
ルシフェルは慣れた手つきでラタフェルの頭上に燦々と輝く光輪を奪うと、その懐に大事そうにしまってほうっ、と息を吐いた。
「あな嬉しや、あな嬉し。ああ主よ、感謝奉らん!」
ルシフェルの感嘆の声に、ラタフェルは身震いをして、
「何なんだよ、お前! 気持ち悪い。何がしたいのっ!」
「ふふ……知りたいかい?」
サーベルを投げ捨てる。「喜びなよ、君は記念すべき666番目の〈宝物〉になるんだ。ああ主よ、確かに受け取りました、貴方のお慈悲を!」
「そ、んな……。創造主さま……」
呟くようにそう言ったきり、半秒後にはもう動かなくなった。刹那、ラタフェルの全身は石となり、最早最初からそこにあった石像かのごとく庭に馴染んだ。
ルシフェルは跪いて天を仰ぐ。
一世紀に一度届く、天界からの贈り物。天がまだルシフェルを見放してはいないという確かな証。純粋に嬉しい。これでまた聖水が造れる。聖なる清水の製造には、天の御使いの清らかな指先が必要不可欠だった。
(そうだ、せっかくの記念に……)
庭園の中央にある大噴水。捕えた天使見習いをその周りに並べ飾るのが、ここ千年の大王の愉しみだったが、不意に妙案が浮かんで微笑する。
「次は君の身体にしようか、ね?」
そろそろ今の外皮にも飽きてきた頃合いだったからちょうど良い。そうすると新鮮な聖なる道具を作れなくなるが、まあ何とかなるか。多少鮮度は落ちるが、他の石像の天使の石化を解けばいいだけのことである。
大王は石と化したラタフェルに飛びかかった。そのまま意識を失う。
大魔王の庭園には、無数の美しい石像と、二体の天使と悪魔が転がっていた。
白銀の双子月が彼らの頭上に位置したまさにその時、
「ううーん……」
天使見習いの喉から唸り声が上がった。
「…………」
周囲を見回す。すぐそばには、大魔王の身体が間抜けに転がっていた。
ややあって、天使見習いが立ち上がった。白衣の裾の塵を払う。
「……ふふふっ」
久し振りに着る純白の衣装だ。その着心地をしっかりと堪能しながら、ルシフェルは大きく深呼吸した。裾の方から少しずつ黒く変色しはじめていた。
体内にラタフェルの魂を感じる。ひどく熱い。きっと怒りに激昂しているに違いあるまい。しかし乗り移った以上、最早この身はルシフェルの物である。
しばしラタフェルの最後の抵抗につき合うことにしたが、やがてはそれも収まり、ついには完全にルシフェルの所有物と化した。
「泣くなラタフェル。お前の憎しみが、明日の我が糧となる」
ルシフェルは鼻を啜った。
両の瞳から零れる、澄んだ色をした涙を拭いきった時、身に纏った衣は完全なる漆黒に染まり上がった。
〈終〉