抱く激情を君に
優しさははじめ、すべて嘘だった。けれど彼女に触れたそのときから、何が本当で何が嘘なのか分からなくなったのだ。
「初めまして、ミラ殿。俺はエドモンと言います」
両親の決めた婚約者。
エドモンは目の前の女に挨拶をする。その日が顔合わせということで、彼女は目一杯着飾っているのだが。
――なんて陰気な女なんだ。
それがエドモンのミラに対する第一印象だ。
顔立ちは悪くないものの、纏っている空気が重すぎる。地味で潔癖な印象も受け、エドモンが今まで遊んできた女の中にはいないタイプだった。
だが所詮、女は皆同じ。エドモンが優しく微笑みかければ、彼女も頰を赤らめた。
けれども一つ、今までの女とは違っているところがあった。
「初めましてエドモン様……これからよろしくお願いします……」
――婚約者は困ったような微笑みを向けてくるのだ。
それからというもの、父親に言われて幾度もミラを逢瀬に誘い出した。初めは断られていたにも関わらず、粘れば最終的に折れてくれる。それは、彼女と相対するうちに学んだことだった。
ミラは控えめな女だった。
エドモンが表立って気を持たせるような行動をとっているのに、まったく自惚れることがない。
この逢瀬は結婚が確実になるまでの仕事の一環で、渋々始めたものだった。それゆえに、なびかぬ女に腹立たしさを覚えるのは当然だ。しかしそれ以上に、ミラがまったく興味を抱いていないという事実が胸に燻っていた。
自分はどうかしているのだろう。
それからというもの、エドモンは次第に自分が絆されていくのを自覚していく。
――薔薇の花束を渡した晴天の朝。
初めて向けられた微笑なりとも心からの笑みに、なぜだか目を離すことができなかった。
――二人きりで遠出をした温かな日差しの昼。
鳥籠から解放されたようなその無邪気さに、無性に惹きつけられた。
――初めてのキスを交わした月下の夜。
初めてなのだと戸惑いを浮かべる無垢さに、エドモンは心を奪われてしまったかのようだった。
気づけばミラのことばかり考えている自分がいた。これを世間では「恋に落ちた」とでもいうのだろうか。
だが、エドモンは今までの人生で一度も恋に落ちたことがなかった。それどころか、恋という感情などくだらないと馬鹿にしてさえいたのだ。
けれども、好きになってしまったのかもしれない。ミラを愛してしまったのかもしれない。
エドモンは認めるのが怖かった。心が自分の手を離れていき、コントロールがつかなくなる。そんなことは、気高く生きてきた自尊心を前にして許されるはずがなかった。
だがその弱さが、プライドが、後悔に繋がるとも知らずに。
結婚生活は順風満帆に過ぎていくのだと信じて疑わなかった。けれども階段を転げ落ちるかのように、瞬く間に崩壊していく。
いつの日から、ミラは出会った頃に戻ってしまったかのように鉄仮面で本心を覆い隠すようになった。そんな妻に怒りを覚え冷たく当たれば当たるほど、元々乏しかった表情は消えていく。ひたすら堂々巡りで、心は疲弊していった。
そして衝撃的な日が訪れた。
寝室で声も上げぬまま、ただひたすら涙を流す妻を見つけてしまったのだ。それは初めて見る、ミラの泣く姿だった。
彼女はなぜ、自分の腕の中で泣いていないのだろう。自然と呼吸が荒くなり、心は悲鳴を上げていた。
ここでエドモンが素直に本心を曝け出していれば、二人の関係は修復可能だったかもしれない。だが出来なかった。自分のプライドが邪魔をしたゆえに。
どこですれ違ってしまったのか、なぜ自分たちは不幸になってしまったのか。エドモンは一人考え込む。
(……不幸? それじゃあ、結婚前までは幸せだったってことか?)
もう、本心を認めなければならなくなった。――ミラのことを愛しているのだと。
愛しているから、幸せだった。そして上手くいかないことに苛立ちを覚え、深い憎しみと怒りに支配されてしまうのだろう。
そのとき、エドモンは妻を愛し続ける限り、自分は愛情と憤懣を抱き続けているのだと悟った。