日常の崩壊
『……嬉しい……ありがとうございます』
思い浮かぶのは初めて見せてくれた心からの笑み。仮面を外した彼女は、美しく清らかで。
エドモンはこの微笑みをいつまでも見続けていたいと、そう願っていた。それなのに。
――どこで道を違えてしまったのだろうか。
◇
その日、エドモンは後悔していた。何故なら昨日、妻であるミラに心ない暴言をぶつけてしまったからだ。
『死んでしまえ』
人として最低なことを言ったのは自覚している。
だが、彼女を目の前にすると感情のコントロールがつかなくなるのだ。まるで子供のようだなと自分に辟易する。
妻であるミラは、常に覇気のない人形のような女だった。赤茶色の髪と揃いの瞳はこれといって珍しいわけでもなく、容姿は平々凡々。街中ですれ違ったとしても、声をかけることはないだろう『普通』の女なのだ。
――だがエドモンは、どうしても彼女に激しく心を揺さぶられていた。
ミラは平凡な容姿ではあったが、これ以上ないほど心の真っ直ぐな女だった。自分に非があれば素直に認め、人の話を聞くときは誰よりも注意深く聞く。
本人は意思のない人形そのものだと思い込んでいたようだったが、よく観察すれば全くそんなことはない。
彼女の奥底には真っ赤に燃え続ける激情があるに違いない。エドモンはそう確信していた。
それを垣間見る機会など、結婚してこのかた三年。いまだ一度も訪れていないのであるが。
その日は早く仕事が片付いたため、いつもより帰宅時間が早かった。
自宅の灯りはついていなかった。いつもならば表情の乏しい妻が出迎えてくれるはずなのだが、今日に限ってその様子はない。
エドモンはひと気のない自宅で、女の姿を探した。もしかしたら、昨日の暴言のせいで家を出て行ってしまったのかもしれない。
――とうとう自分は、ミラに愛想を尽かされたのか。
エドモンは嫌な考えを振り切るように舌打ちをした。
寝室に入ると、思い出の品とも言える宝石箱がサイドテーブルに置かれていた。エドモンは嫌な予感を覚え、その箱を開ける。中には一通の手紙が入っていた。
(なんだ……これ?)
妻の私物を勝手に漁ることに罪悪感を感じながらも、真新しさを感じさせられる手紙を開封する。
――エドモンは、その手紙の筆跡をよく知っていた。そして、それを書いた人物が何をしようとしているのか、最悪な予想が頭を過る。
咄嗟にエドモンは家を飛び出した。向かう先はあの場所だ。幾度も逢瀬を繰り返した、優しい思い出の溢れる湖。
目の前にはよく見覚えのある女が横たわっていた。蒼ざめた相貌も相まって、非常に精巧にできた人形のようにも見える。
エドモンは震え上がった。
妻が自分の手の届かぬところへ行ってしまういうことなど、いまだに信じられない。
果てのない恐怖と絶望に襲われ、現実を直視することなど不可能だった。
こんな事になるなんて、思いもしなかったのだ。必死の思いで手を伸ばし、水浸しのドレスを纏う細身の身体を抱きしめた。自らの体温がみるみるうちに奪われていくのを感じる。
――まるで屍体のようだった。
既に魂があるのかすら分からない状態だったが、エドモンには判別できる気力などない。
男は一人、女に縋って咽び泣いた。
「……お前がいないと俺は…………生きていけないんだよ……」
エドモンにとってミラは心の支えだった。それなのに、いつも心とは裏腹な言葉ばかり口走ってしまう。
素直になれない自分に腹が立ち、結婚したにも関わらず以前にも増して仮面をかぶり続ける妻を激しく憎んだ。
自分にだけは素直な心を曝け出してほしいのに、思い通りにいかない。怒りは留まることを知らなかった。この積もりに積もった感情を一体どのようにして処理すればいいのだろうか。エドモンはもう長い間、分からないのだ。
どうしてこれ程までに怒り、憎むことになったのか。考えれば誰でも分かる、簡単な答えだった。
――エドモンは妻を愛していのだ。




