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さよなら私の愛しい人  作者: 白藤もも
Mirra's Story
3/6

さよなら私の愛しい人




 月明かりに照らされる夜を選んだのは、夫と初めてのキスをしたのが月下だったから。


 自宅の近くにある湖を選んだのは、何度も夫と逢瀬に来た思い出深い場所だから。


 ミラの最期はすべて、エドモンとの思い出に囲まれていた。このまま自分が湖の奥底まで持っていってしまえば、彼も心機一転、新たな幸せを手に入れることが出来るだろうという考えの元だった。



 だけれど――――エドモンが何もかも忘れてしまう事は寂しい。考えるだけで、胸の中に薔薇の棘が巻きついているかのような鈍い痛みに襲われた。

なにか一欠片でもいいから、自分のことを覚えておいてほしいと、そう願ってしまうのだ。


 女心というものは複雑で、綺麗さっぱり跡形もなく割り切ることなど出来ない。



 ミラは一通、手紙を残した。自分の死後、見つけてもらえるよう自宅にある思い出の宝石箱の中に。





『湖の底で眠ります。さよなら私の愛しい人』





 ――それは遺書という名を借りた、初めて送るラブレターだった。





 ミラは自らの言葉でエドモンに「愛している」と伝えたことが一度もなかったのだ。何故なら、彼は自分を愛していないから。


 自分を愛してくれていない人間に、愛を伝える。こんな困難なことがあるのだろうか。世の人たちは、どうして自らの気持ちを口に出し、曝け出すことが出来るのか。




 ミラにはなにもかも足りなかったのだ。


 愛を伝える勇気も。

 感情を曝け出す経験も。

 恋のために耐え凌ぐ強い心も。


 だが、後悔はもうしない。


 自分の最期を決めるのは自分なのだ。湖へと身を捧げることは、初めて自らの意思で決めた大きな選択だった。




 ミラは湖のほとりに膝をつき、水面に映る自分の顔を見つめた。冴えない鉄仮面はいつも通りで、こんなときでもと呆れる。思わず水面に手を伸ばすと、揺らぎとともに鏡の役割を果たさなくなった。


 ぽとり。

 ふと気がつくと一滴の雫が水面上へと落ち、新たなさざ波を立てる。濡れた指先で目元を拭うと、ミラは立ち上がった。


 月下で大きく息を吸い、瞳を閉じる。瞼の裏に映るのは、愛しくて憎らしいエドモンだった。


 彼は初めて会った時から結婚するまでの短い間、非常に優しく接してくれた。だが、ミラは知っていたのだ。


 ――この優しさには裏があるのだと。


 打算的な思惑を感じ取ったのはいつ頃だっただろうか。少なくとも、彼と初めてのキスを交わす前には薄々気が付いていた。


 だからこそ、自分はエドモンに愛されているのだと自惚れることはできなかった。いっそのこと騙されていることに気がつかなければ、ミラも本音を話すことが出来たのかもしれない。「あなたのことを愛している」のだと。

 だが、もう全てが遅い。


 愛しているのに憎らしい。

 抱いた正反対の感情は、次第にミラ自身を蝕んでいった。表には見えずとも、毒性のある汚らしい感情。こんなところで自分の人間らしさを感じ取るだなんて、皮肉にも程があると思った。


 ミラはゆっくりと瞼を開く。一目散に目に入ったのは、明るく照らす月光。宝石のような水面。世界はなんて、美しいのだろう。

 見慣れた光景のはずなのに、最期に見る景色だからか一層麗しく思えた。





 ――さぁ、そろそろいきましょうか。





 口元に緩い弧を描き、ミラは足を一歩踏み出す。


 当然のように水面を通り越し、全身を冷たい水が包み込んだ。それでもまだ水底に足がつき、水を掻き分けるようにして前へ前へと進む。息が苦しくても、意識が朦朧とし始めても、力の限りを尽くして歩を進めた。

 次第に力も入らなくなり、ミラは水中に体を委ねる。


 こんなときでも思い浮かぶのは愛する男だった。





 ――愛しい私の夫、エドモン。永遠に愛してる。




 意識が湖の奥へと溶けていく中、ミラは愛しい男の声を聞いたような気がした。だが、もう届くことはない。




 ――さよなら私の愛しい人。




 最後に思い描いたのは、幸せに満ちた二人の逢瀬。

 そして、ここ数年見ることのなかったエドモンの柔らかな微笑みだった。




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