思い出を胸に抱く
――月日が経つのは早いものだ。それが、愛する人と過ごした時間ならなおのこと。
ミラはとある裕福な商家の一人娘として生まれた。厳格な父と、それを陰で支える控えめな母。両親は仕事中心の生活を送ってはいたが、ミラへの教育は欠かさなかった。
中でも両親が熱心に説いたのは「女性としての品格を大事にしなさい」という事で、感情を曝け出すことははしたないと教えられた。それが、現在彼女が鉄仮面を纏っている原点となる。
そんな自分を抑え込まなければならない環境で過ごし続けたとある時。ミラが16歳の誕生日を迎えた日の出来事だった。両親から人生に関わる大きな宣託を告げられることとなる。
「お前の婚約相手が決まった」
――そろそろだと思っていた。
一番初めに抱いた思いはそれだった。
一般庶民とは言え、ミラは大店の一人娘。ましてや商売に関わる両親のもとに生まれたのなら、確実に嫁ぎ先は勝手に決められてしまうに違いない。ずっと分かっていたことだった。だからなのか、心は冷静でいられた。
そしてミラは夢も希望も抱く事なく、両親の言うままに婚約者と面会することとなる。
婚約相手は、とある政治家を父に持つ家の次男だった。こちら側は政治家と繋がりを持ち、新たな顧客を獲得する狙いがあるに違いない。
だが、相手方は人脈に幅を利かせる大店との繋がりを持ちたいということなのか。だが、それに一体なんの意味がある?
ミラは政治方面には明るくないため、この婚約にどのようなメリットがあるのかは預かり知らぬところと言えた。
(所詮、私は道具)
人形のように、なんの魂も宿さぬ瞳は空虚な色を携えているのだった。
「初めまして、ミラ殿。俺はエドモンと言います」
夫となる男の第一印象は、清廉で真面目な男と言うものだった。挨拶のときも柔らかな微笑みを向けられ、思わずミラの白い頰は林檎のように赤く染まった。
美丈夫で漆黒の髪、そして優しげな雰囲気。両親の決めた婚約者は、女の理想を全て兼ね備えた男だった。
(素敵な男性だけれど、こんな方が私の婚約者でいいのかしら)
ミラは申し訳なく思った。
大店の一人娘ということ以外、これと言って抜きん出ているところもない自分。容姿は平凡、弁がたつわけでもなく、両親の言いなりになる操り人形。せめて性格が明るければ救われたのだろうが、鉄仮面の表情は冷たい雰囲気を常に醸し出している。
「初めましてエドモン様……これからよろしくお願いします……」
少しでも悪印象を抱かれないよう笑顔を思い出し、ミラはエドモンへと微笑んだ。
婚約の挨拶からすでに時は経ち、ミラとエドモンは二人で幾度も逢瀬をした。彼から何かにつけ執拗に誘われ、仕方なく折れたのが始まりだった。
初めは緊張と不安も相まって普段以上に表情の硬かったミラも、徐々に心を解けさせるようになる。
――貴女に贈り物です。
そう言って薔薇の花束を渡してくれた。
――ミラ、今度一緒に隣町へと出かけないか。
いつの間にか砕けた言葉遣いへと変わり、二人の心の距離は縮まった。
――ミラ…………キス、してもいいか?
初めて重ねた唇に、人の体温の心地よさを知った。
気づけばミラは恋をしていた。
それは必然とも言えるだろう。人にここまで温かい気持ちを向けられたことは、今の今まで一度もなかったのだから。
エドモンとなら、結婚をしても幸せな家庭が築けるのではないか。ミラは夢を見ていた。
しかし現実は真逆となってしまった。幻想はあっけなく飛散し、今や不幸な夫婦の縮図である。
結婚後当初は、婚約していたときと同じく幸せだった。徐々に徐々に、二人の間には隙間風が吹き始めたのである。
なにかきっかけがあったのかどうかはっきりとは分からない。だが、彼の瞳に嫌悪感が宿った日がミラにとっての絶望の始まりだったのは間違いない。
なぜ、彼は自分をそんな目で見るようになったのだろうか。
ミラはとうとう、恐ろしくて聞くことができなかった。