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さよなら私の愛しい人  作者: 白藤もも
Mirra's Story
1/6

決意の日



 世界はなんて美しいんだろう。

 それなのに、自分はなんてつまらない人間なのか。


 月明かりの照す水面は、その光を受けてキラキラと輝いている。それに比べて、自分という人間は光にも闇にもなることのできない『無』の存在だ。



 ――私は誰かに愛されたかった。……違う、本当はそれも嘘。私は……夫に。エドモンに…………愛されたかった。



 だけれど、そんな気持ちも今日でもう終わり。全てこの湖に消えて、世界から無くしてしまえる。そう思うと、不思議と笑みが口元に浮かんでいた。



 ――どうか、元気でいて。私の愛しい人。貴方に直接さよならなんて告げないわ。



 憎らしい気持ちと愛しい気持ちがない交ぜとなり、ぐちゃぐちゃと心をかき混ぜていく。そんな醜い気持ちも、湖に溶ければ清浄なものへと生まれ変わるだろう。



 ――あぁ、さよなら私の愛しい人。



 儚さを含んだその声は、風とともに消えていった。あとには何も、残らない。











 その日は晴天で、出掛けるには最適ともいえる温かな風の吹く1日だった。

 ミラはいつものように家事を行い、いつものように妻の役目を果たす。代わり映えのない時間が過ぎていくのだと、信じていた。――――その時までは。






「お前のような役立たずは、死んでしまえ」






 夫であるエドモンは、俯くミラに憎しみのこもった声で言った。表情には苦いものが浮かんでいて、彼の心情は全く理解出来ない。


(死んでしまえって……そんな)


 ミラは奥歯をぐっと噛んだ。生来、表情の出難いたちなのが幸いし、エドモンには苦痛に満ちた心情は伝わっていないだろう。この時ほど、自らが鉄仮面であることに感謝したことはなかった。


「申し訳ありません」


 喉が張り付きそうだと感じながらも、懸命に声を出す。そんなミラを一瞥したエドモンは、憎々しげな表情をしつつ鼻で笑った。


(彼は私を毛嫌いしている。それは分かっていた。でも……)


 正直、死んでしまえと言われるほど嫌われているとは考えもしなかったのだ。




 初めて顔を合わせた際の夫は、非常に優しい人だった。親によって決められた結婚ではあったが、エドモンは真面目で、いかにも好青年といった男だった。婚約した際は、それ相応にぎくしゃくとした時期もあったが、常にミラのことを思いやってくれたていたのだ。


 結婚する前までのエドモンは、何の記念日でもないはずなのに花束を贈ってくれた。休日は二人で出掛けようと誘い、何度も共に遠出をした。愛してるとは言ってはくれなかったが、優しいキスをしてくれた。



 いつからだろう。彼が変わってしまったのは。



 結婚をしてからは少しずつ、婚約した当初よりもぎくしゃくとした関係へと変わった。彼からは、ミラを妻として気遣うというという気持ちが抜け落ちていったのだ。そればかりか、苛々とした感情をぶつけられることが当然のようになっていった。優しかった面影は、跡形もなかったかのように消え去る。


 二人の記念日でさえも花束を送られることはなくなった。休日には彼一人で出かけ、夜遅くに白粉の香りをつけて帰ってくるようになった。キスなどすることはまず無く、手を触れ合わせる機会さえなくなった。


(もう、ダメなのかもしれない)


 ここ数ヶ月はそう思いながら過ごしてきたのだ。いつか、彼の口から別れの一言が口に出る機会が訪れるだろうことは予想していた。結婚して早3年。両家の繋がりはすでに確固なものとなり、結婚も十分役目を果たしただろう。だが。




『死んでしまえ』




 この一言で、ミラの何かが崩れ落ちていった。ギリギリのバランスで保っていたそれは、限界を迎えたかのように。


 現世と常世の別れ。ミラは、一度も考えたことがないとは言わない。


 壊れてしまった心を持ちながら生きていくのは、持ち主が辛いだけだ。死というものは、その辛さからの解放とも言える。


 残されるものの気持ちが分からないのか。そんな言葉をよく聞くが、ほかの気持ちを考える余裕がないからこそ、解放を選ぶのだ。


(そうね。それが……一番いいのかもしれない)


 密かに陰鬱な気持ちを映す瞳をエドモンの逞しい背中へと向ける。

 夫はいつもミラをなじる際、憎々しげな表情の裏に苦渋に満ちた何かを持ち合わせている。原因は、恐らくミラだろう。細かい理由までは分からないが、自分の中の何かがエドモンを苛立たせるのだ。





「…………さ……なら。わた………いとし……と」




「……? 何か言ったか」





 エドモンは不快そうに眉をひそめながら、ミラの方を振り返った。彼女は首を横に振り、常の鉄仮面で夫の双眸を見つめる。


「ちっ。気味の悪いヤツめ」


 夫はそう呟くと、自室の方へと歩いて行ってしまった。


(嘘よ。私はこう言ったの。『さよなら。私の愛しい人』って)


 自分を毛嫌いしていることはよく知っている。だが、ミラは彼と出会った頃の優しさが忘れられなかった。苦しくて、でも温かい気持ちはエドモン以外に向けることは出来ないのだ。そう、言うなれば。



 ――ミラは夫を愛してしまっていた。




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