落ちる陰、笑う影 二
逃げろと、ごめんと。苦悶を呻く口から確かに聞えた。
その声に、有希の背筋がぶるりと震える。
「ああああああああぁぁぁッ!!」
腹の底から、胸の奥から、空気を搾り出す。有希の叫びと影鬼の腕が姫狼によって斬られたのはほぼ同時。支えを失ったように、悪魔型の霊鬼が脇腹から血を流し地面に倒れる。
「スイ! この“人”を超能力で運んで!」
「ぬおっ!? お、おう!」
倒れた相手を睡蓮に任せ、有希は影鬼と対峙する。
『イダィィィ! マタ! マタウバウノカッ!』
腕を失った影鬼が有希に向かって怨嗟の声を浴びせる。しかし、腕を斬られた姫狼を警戒してか近づいてこない。さらに空へと距離を取られる。
「……なんなのよ、もう……」
念動力で引きずられてゆく霊鬼を見る。刺されたわりに出血は少ない。そのことに安堵しながら、有希は自分の間抜けさに唇を噛む。
睡蓮に危なくなったら逃げろと言っておきながら、守ると気合を入れておきながら、この体たらく。情けなくて涙が出てくる。そして。
「なにが、ごめんなさいだ!!」
なにより謝られた自分に腹が立つ。
「姫狼、ごめん。私が未熟だった。きっと噛み殺したいと思ってるよね」
なぜ姫狼が刀の姿に戻ろうとしなかったのか、有希もやっと理解する。姫狼はきっとわかっていた。霊鬼かどうかも、害意があるかどうかも。だというのに有希は、見た目で霊鬼と決め付け、霊力の多さに怖気づき、姫狼に刀に戻るよう無理に命じた。そのうえ、命を奪おうとした相手に助けられた。
今でこそ姫狼は霊刀として神代宗家の至宝と呼ばれているが、過去には未熟な所有者を、相応しくないとその刃でもって殺したという記録がある。であれば、今の有希に姫狼を扱う資格はない。
「だけど、お願い……もう少しだけ力を貸して。そのあとなら好きにしてから」
もし影鬼が睡蓮に襲い掛かっていれば、睡蓮が死んでいたかもしれない。そんな状況を招いておきながら、相応しい所有者とは到底いえない。命を代償に、手に握る刀に願う。影鬼程度に命を賭けるなど愚行に他ならないが、未熟者が招いたツケは払わなくてはならない。
『ヒィ、ヒヒッ! ヨコセ! モット、モット!! ゼンイン、ヨコセェ!!』
有希を嘲笑うかのように、影鬼が声を上げる。霊力が欲しい影鬼にとって、霊能力者である有希の魂も、極上の霊力に見えた。
「……うるさいなぁ」
甲高い声が耳に障る。影鬼がいるのは上空五メートルほど。騒ぐくせに警戒し、空から降りてこない。
普通の人間であれば届かない距離。有希も近づいてきたところで決着を付けるつもりだった。
それが適わないならば――
「発氣操身・八艘!」
――自分から近づけばいい。
霊力を込めた有希の下半身が、足の骨が軋むほどの勢いで地面を蹴る。睡蓮どころか空で見ていた影鬼も一瞬見失うほどの速度。しかし、有希の向かった先は影鬼ではなく塀。
いくら霊力が高くとも、助走もなく一足で五メートルなど跳び上がれない。
「ふッ!」
ドン――と漆喰の壁が凹む。
一足で無理ならば二足。有希は速度を落とすことなく塀の壁に跳ぶと、漆喰の壁に足跡を刻み、上空にいる影鬼に向かってもう一度跳んだ。
『ギヒィ!?』
影鬼は側面から跳んできた有希の姿を捉える――が、もう遅い。霊力を纏った黒刃が、影鬼の左足を斬り落とす。攻撃はこれで終わりではない。すり抜け様に影鬼を斬った有希は屋根に着地すると、すぐさま身を翻し、再び跳ぶ。
「はあッ!」
影鬼は慌てて下がるが、今度は残っていた腕を失う。塀の上に着地した有希は四度目の跳躍。暴れるようにメチャクチャに動く影鬼の腹部を大きく斬り裂き、屋根へと戻る。
『ア、アァァァアアアアッ! モドッタノニ! モドシタノニ!! オレノナカミガァァァッ!!!』
奪った臓腑は地面へと零れ落ち、瘴気を放ち霧散してゆく。もう二度と返ることはない。ぽっかりと空洞ができた腹部を嘆き、影鬼は呪詛を撒き散らす。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!』
影鬼は一際大きな叫び声を上げると――逃げ出した。
これに有希は焦る。有希は跳んでいただけで、空を飛べるわけでなはい。跳躍と飛行はまったくの別物。このことを理解しているのか、それとも本能からか、影鬼はフラフラとしながらも、空高くへ逃げる。
「くッ!」
有希が噛みしめた奥歯が、己の未熟さにギシリと悲鳴を上げる。二撃目で決めるつもりだったのが、三撃かけても倒せなかった。
確かに有希の霊力は高く、身体の強化“だけ”ならば一線級だろう。だが、現在の師からも霊力の扱いがまだまだと言われているとおり、細かな制御が利かない。霊力を漲らせれば漲らせるほど、身体は言うこと聞かない暴れ馬になってしまう。一撃目はなんとか狙い通りにいったが、二撃目、三撃目は跳ぶ場所にズレがあった。
「ユーキー、跳べー!」
聞こえてきたのは睡蓮の声。どうすればいいか考えあぐねている有希に対して、ごく軽く、いつもの調子で。
「アタシを信じろよぅ。なんたって、アタシがなんとかするって言ってんだからな!」
「……なによそれ」
理由にもなっていない睡蓮の物言いに、思わず口から息が漏れる。そして、有希は大きく息を吸う。
「わかった! 信じるよ!」
このままでは影鬼を逃がしてしまう。もう未熟者としての恥はかき尽くした。ならば上塗りになろうとも、睡蓮を信じてみようと。
「発氣操身・八艘!」
有希は霊力を下半身に漲らせ、屋根から影鬼に向かって跳ぶ。真っ直ぐに、暴れ馬ながら、狙い通りの場所へ。ぐんっ、と影鬼との距離が縮まる。しかし――届かない。数メートルの距離を残し、身体は重力へ引かれてゆく。だが。
「飛んでこい! ユーキ!」
睡蓮の念動力により、有希の身体は空中で再加速する。振り向いた影鬼の目が有希を見る。しかし、見えたのは一瞬。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
有希は振り向いた影鬼の後方へ。
『イギィ!? イダアアアアアアアイィィィィアァァァァ!!!』
姫狼により縦割りに斬り裂かれた影鬼の身体が、ずるりとズレてゆく。影鬼は痛い痛いと叫びながら……煙が散るように消えていった。
「よし!」
有希は空中で影鬼の結末を見届け、拳を握る。
「あとは私も下に……下に?」
加速は終わっている。しかし、止まらない。慣性の法則に従い、弧を描きながら飛んだまま。
「す、スイ! 止めて! 止めて!!」
「あははー、飛ばしすぎたったー! 力届かないやー! ごめんねプふー!」
笑いながら手を合わせる睡蓮に、有希の表情が凍りつく。空中で暴れるが、それでどうにかなるはずもなく。
「ばいばーい! お土産よろしくねー!」
「ばいばーい、じゃっ! なぁぁぁいぃぃぃぃぃぃぃ……」
ぶんぶんと手を振る睡蓮に見送られ、有希は暗い森のなかへと飛んでいった。