落ちる陰、笑う影 一
庭には玄関で靴を履き替えてきた有希と姫狼の姿。その隣には、縁側に置いてあったサンダルを履いた睡蓮もいる。
「なんっっっだ、あれ」
酔ったなずなから無理やり借りてきた双眼鏡を覗いた睡蓮は、見えた異様なモノに、口を開けたまま驚きの声を上げる。
「あれって幽霊なん? アタシでも見えるってことは」
「それだけ力を蓄えた霊鬼ってこと……だね」
噂をすればなんとやら。人間どころか霊も呼び寄せてしまった。それも計ったようなタイミングで。
「なずなさんは?」
「水ぶっかけたらフラフラしながら地下にいった」
「容赦ないなぁ」
「緊急事態ですし。だけど時間かかるかも。で、あれはなにしての? 逃げてるし、追いかけてる」
「見たまんまだよ。喰べられないように逃げてるし、喰べようと追いかけてる」
米粒から豆粒ほどに大きくなった二つの影。捕まれば喰われ、喰われれば消滅する。両方が鬼の追い駆けっこ。
「……共食いってこと?」
「一番手っ取り早い、霊力の補充方法だからね」
身体を維持するにも強化するにも、霊力が必要。そして姿を実体化できるほどの霊鬼というのは、霊力の塊ともいえる。悪霊や霊鬼同士の共食いというのも、珍しいモノではない。
興味深そうに霊鬼を見ていた睡蓮のスウェットから、携帯端末のバイブ音が鳴る。それは朝から無視し続けられていた相手からのメッセージ。
「美兎からだ。……ええと、『千里眼から。甲単独種と思われる霊鬼が二体、來豊山へ移動中。ユウちーに伝えて。ウチらはいかないからガンバレ』。まずアタシに謝れって話だよね」
「……冗談はやめてよね」
もちろんウソの攻略情報ではなく、睡蓮が読み上げた内容に対して。有希は苦笑を浮かべるが、目は笑っていなかった。
甲というのは、霊鬼の等級になる。極狭い範囲で人に危害を加えるような霊鬼ならば、甲。周辺にいる多数の人にも危険が及ぶような霊鬼ならば、乙。さらに大多数の人が危険ならば丙――といった具合。単独種というのは、そのまま一体だけという意味。
「アレが甲等級だっていうの? 千里眼も当てにならないなあ」
追っているほうの霊鬼は、有希の見立てでも千里眼と同じ甲等級。影鬼と呼ばれる霊鬼で間違いない。しかし、追われているほう。アレは一体なんだ、と有希の頬に冷や汗が流れる。
影鬼の身体は実体化できてはいるが、黒い煙のように時折ブレている。まだ実体を定着しきれていない。しかし追われているほうはどうだ。
真っ黒な身体に、太い手足の先には鋭い爪。そのうえ全身を鎧のように高質化しているように見える。鬼というより、まるでゲームに出てくるような悪魔の姿。蝙蝠の羽でも持てば、完璧だったろう。そして、のっぺりとした印象の影鬼と違い、実在していると思わせるほどの実在感。
「単独種なのに、完全な実体化をしてる……? それに、あの霊力の量」
身体の大きさは影鬼とさほど変わらない。大の大人より少し大きい程度だろう。しかし内包している霊力の桁が違う。影鬼数十体分の霊力が、身体に収まりきらずオーラのように周囲を覆っている。
姿形に違和感はあれど、あれこそ昔話に出てくる妖怪だ、と言われれば信じてしまいそうになるほど。
「絶対に丙等級はあるでしょ、アレ。そんな霊鬼を相手に援軍はなし……か。夏凛さんたちがいても、勝てるかわからないけど」
いない人間に期待をしてもしかたがない。しかし有希は、ふとあることに気付く。
「でも……だったら、なんで戦わないの? あれじゃ、霊力を見せびらかしてるだけじゃない」
霊力の多さこそ霊鬼の強さ。あれだけの差があれば、逆に影鬼を喰えるだろう。しかし、身体を削られながら影鬼の腕を避け、命からがら逃げ回るだけで、反撃もしない。
二つの影がだいぶ大きくなってきたところで、動きに変化があった。追われている悪魔型の霊鬼が山を避けるように、急に逃げる方向を変えた。だが急な方向転換だったためか大きくバランスを崩す。そして成り立てといえど、影鬼はその隙を逃さなかった。
体当たりするように突っ込んだ影鬼が、フラつく霊鬼を大きく弾き飛ばす。まるで砲弾のように弾かれた悪魔型の霊鬼の向かう先は――有希たちの住まう家。
「スイ! もう家のなかに戻って! それで絶対に地下から出ないで!」
「イヤだね! 誰が戻るもんかい!」
「~~~! だったらせめて端っこにいて! 危なかったら、すぐに逃げてよ!」
「うーい。自分の身くらい守れるって。超能力者舐めんな」
超能力でどうにかできるかは不明だが、睡蓮は一度言い出したら頑として譲らないことを有希は知っている。ならば命を懸けて、睡蓮を守るのは自分の役目だと気合を入れる。
霊鬼は家の屋根にぶつかり、瓦と一緒に庭へと転がり落ちる。霊鬼同士の距離が離れた。しかも厄介そうなほうは、立ち上がろうとするが何度も転びもがいている。実体化に霊力を割き過ぎているのか、それとも元から弱っていたのか。
どちらにしろ、これはチャンス。一人では絶対に敵わない霊鬼が、目の前で首を差し出している。
「姫狼! きて!」
そう思い有希は姫狼を呼ぶ――が、姫狼は元の姿へ戻ろうとしない。
「ッ! “主が命じる! 戻れ姫狼!!”」
なぜだ、と問うている時間はない。所有者の権限を使い、姫狼を無理やり霊刀の姿へ戻す。現れたのは柄も鍔も鞘も、全てが黒に染まった刀。神代宗家の至宝にして、姫狼本来の姿。
「ふッ!」
鞘から抜いた刀身も黒。月の光さえ吸い込みそうなほどの漆黒。
姫狼を手に取り、塀の壁にもたれかかるようにやっと立ち上がった霊鬼へと走る。相手は霊鬼、倒せるときに倒す。動かない霊鬼の首を刈るために、姫狼を水平に振る。
倒せる、倒さなければいけない。よく見て、よく視て――その一瞬の間。目の前にいる霊鬼と、有希の目が合った。
「ッ!?」
一度動き出した腕は咄嗟に止まらない。だから体ごと押し込むように、足を動かす。姫狼の切っ先が壁に刺さり、霊鬼の首と紙一重のところで刃は止まった。
どうして止めたのか、有希にも分からない。
ただ、止めなければいけない。
そんな気がした。
「あなた……誰?」
何故、そんなことを聞いているのだろうか。
何故、そんなことを考えてしまったのだろうか。
何故、そんなことを考える時間があると思ってしまったのだろうか。
「ユーキ! 危ないっ!!」
名を呼ばれ有希が我に返る。だが、遅すぎた。すぐ頭上には影鬼の姿。目の前の霊鬼に気を奪われ、影鬼の接近に気付けなかった。
『カエセェェェェェアァァァァ!!』
ぞるり、と槍のように尖らせた影鬼の腕が迫る。
(ダメ! 間に合わない!)
有希は避けられないと直感する。致命傷だけは逃れることはできるだろうが、その後の自分がまともに立っていられるとも思えない。
(なんとか睡蓮だけは!)
睡蓮だけは逃がそうと痛みを覚悟した瞬間。
「えっ……?」
有希の体が、横に突き飛ばされた。
睡蓮が超能力を使ったのかと思ったが、違った。視界には伸ばされた黒くゴツゴツした腕。そして、入れ替わるように影鬼の腕が、悪魔型の霊鬼の脇腹に突き刺さる。
『ヒヒヒヒヒィ! ア゛ァァァァァァ!ン゛マイィィィィ!』
影鬼の恍惚の声が響く。突き刺した腕から霊力を吸い上げ、その美味に歓喜する。
尻餅を着いている有希は、その光景を呆然と見上げていた。
ああ、疑問しか湧かない。
なぜ自分は助かった。
なぜ霊鬼が自分を助けた。
なぜ――
「ごめん……なさい……にげ、て……」
――霊鬼が自分に謝っている。