家族のための戦い
キィンという姫狼と鬼面蟹の殻がぶつかる音。音がするたび鬼面蟹の脚は削れ、殻の欠片がパラパラと舞う。
(うーん、斬れない)
もう何回目になるだろう。鬼面蟹の脚や爪を避け、隙があれば脚の関節膜を狙う。しかし動き回る相手に、狙いが定まらない。
(まだまだ鍛錬が足りないなぁ)
関節を斬れるほど霊力で身体を強化すると、細かな制御がきかない。かといって強化を弱めれば、攻撃を避けるのも反撃するのも難しくなる。
(やっぱり一人じゃ手が足りない、かな)
動き回る鬼面蟹の相手をする場合、複数人で結界や脚を斬り落とすなどして、動きを止めてから霊鬼を祓うのが定石。
(夏凛さんなら、殻ごと斬れるんだろうけど)
爪を斬り睡蓮を助けられたのは、偶然に近かった。睡蓮を助けなければと無我夢中にやった結果。落下の勢いと、姫狼が殻を傷をつけていたおかげもあるだろう。
(全力の突きなら刺さるだろうけど、その状態で暴れられたら姫狼が折れちゃうしなぁ……。右目を潰してもっと暴れられたら、それこそ手が付けられないし)
好きなだけ暴れさせ、疲れさせてからというのも考えた。しかし自分の住む場所を荒らされたくはない。
どうにかして優勢に立ちたい。しかし鬼面蟹は考えあぐねる有希のことなどお構い無しに、攻撃を仕掛けてくる。
『ギリィ!』
ガラスを引っ掻くような歯軋り音を上げ、鬼面蟹が爪を振り上げる――が、振り下ろされる前に爪にナニかがブチ当たり、鬼面蟹にたたらを踏ませた。
「おう。アタシも混ぜれ」
数メートル後ろから、よく聞き知った声。
「くるかなーとは思ってたけど、ホントにきたんだ」
「そらぁくるさ。家族は守らなね」
鬼面蟹に当たったナニか――有希の斬り落とした爪の先端が、睡蓮の隣に戻る。
「ユーキ前衛、アタシ後衛。おーけー?」
「それしかないでしょ。無茶はしないでよ」
「心配すんなし。ユーキはユーキで勝手にやり。アタシも勝手にやるから放っといていいよん」
相談はこれで終わり。あとはそれぞれ、ご勝手に。
「ふうッ!」
有希が地を蹴り、鬼面蟹に姫狼を振る。だが、またしても硬い殻に阻まれ、表面を削っただけ。
『ギア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!』
鬼面蟹は足元にいる有希に爪を振るが、そこは後衛の出番。
「はっはーっ!」
睡蓮の放った爪の先端が、鬼面蟹の右目に刺さったままになっている木を強かに打ち据える。
『ギイイイイイイイ!?』
内部へと響く激痛に鬼面蟹が叫ぶ。身体を震わせ、痛みに耐える。その隙――痛みで硬直したのを、有希は見逃さなかった。
「はあぁぁぁッ!!」
胴打ちのように振るった横薙ぎは、脚の先端近くの関節膜に潜り込み、半分ほど斬り裂いた。
「よしっ!」
その手応えに、有希も思わず声を上げる。鬼面蟹は後ろに下がるが、体重をかけると一本の足先がメキリと音を立て、折れ曲がる。
このまま続ければいけるかもしれない。しかしそう思った矢先、鬼面蟹は行動を変えた。
『ギリィィィィィア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!』
苛立ち。怒り。ただ餌に誘われ出てきただけだというのに、爪が欠けた、脚先を失った。残った左目で、周囲をギョロギョロと見回す。
銀色の髪をした餌を見る。
自分の右目を、抉り潰した餌。大きな棘を刺し、鬱陶しく棘を狙い、傷を抉ってくる餌。
この餌が一番、自分を苛立たせている。
『ギィア゛ァァァァァギィリア゛ァィァァァア゛!!』
この餌を最初に喰らうべきだと、本能が叫ぶ。
「スイ!」
睡蓮へ向かってゆく鬼面蟹の間に割り込もうと有希は動くが、一歩目で踏みとどまった。
「放っておけ、だったっけ」
睡蓮の言葉を思い出す。現に睡蓮は、笑っているではないか。
「ははっ、ユーキはちゃんと覚えてたか」
それでいい、と睡蓮は頷く。
「よっしゃこいやキモ蟹がぁ!」
『ギイィィィィ!』
動かない睡蓮に向かい、爪を振り下ろす。渾身の力を込めた爪は土煙を舞わせ、地面を叩く。そして爪に感じた、ぐにゃりと潰れる感触。
『ア゛ア゛! ア゛ア゛ア゛!』
その感触に、鬼面蟹は喜んだ。これで苛立ちが一つ減った、と。
残りは足元をうろつく餌のみ。鬼面蟹は改めて有希に向かおうとする――が。
『ア゛ア゛……?』
爪がなにかに引っかかり、振り向けない。
そして、その様子をあざ笑うかのように。
「いやぁー! 掛かった掛かった!」
土煙のなかから、無傷の睡蓮が現れた。土煙を被ったせいで薄汚れてはいるが、どこも潰れてはいない。
鬼面蟹は動かない爪を見る。爪には、血も肉塊もついていない。ついているのは、網のように絡みつくワイヤーの姿。
「やっぱ知能は蟹かー。残念なヤツめ」
睡蓮は爪が振り下ろされる直前、自身の念動力によりわざと土煙を上げ、射程外まで身体を移動させていた。それも、網のように編んだワイヤーを罠として仕込んだ上で。
「そんなにアタシが美味しそうだったのか――ね!」
爪に絡んだワイヤーが、蛇のように鬼面蟹の身体を這い、縛り上げる。巻きつく端から鬼面蟹に切られるが、一本でダメなら二本。二本でダメなら三本と、細かくワイヤー全体を制御し、鬼面蟹の動きに制限を掛ける。
「ぬっ、ぐう……ッ!」
睡蓮の鼻から、赤い液体がぽたぽたと溢れ出す。頭にはかつて無いほどの痛み。耳鳴りはさらに酷くなるし、目からは勝手に涙が流れる。それでも睡蓮は、ワイヤーを操るのを止めない。
「ユーキ! これで外したら一生バカにするからな!」
睡蓮の声に答えるように、有希は全身に霊力を漲らせる。睡蓮のおかげで、求めて止まなかった隙ができた。
「いくよ」
姫狼を強く握り、構える。
「総氣什宝・姫狼!」
有希から溢れ出した霊力は姫狼に流れ込み、黒の刀身を輝かせる。
その色は銀。破魔の白金。
「しいッ!」
有希は地面を蹴り、姫狼は光の軌道を宙に残しながら、鬼面蟹に迫る。さっきまでの有希なら、姫狼が折れてしまうかもと躊躇うほどの斬撃。しかし、有希には絶対に切れるという確信があった。
頭のなかが、驚くほど澄んでいる。鬼面蟹の次の動き。視線。怒りや戸惑いまで、全てが感じ取れる。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
有希と鬼面蟹が、重なる。
散々鳴り響いていた金属音も無く。
『ギィォイア゛ァァイア゛ァイア゛ィア゛ア゛ア゛!!』
鬼面蟹の爪が根元から地面に落ち、青い血液と瘴気を撒き散らす。
「まだっ!」
踵を返し、再び姫狼を振る。振るたびに鬼面蟹の脚は減ってゆき、力を削いでゆく。
それは合計で十度。
「はぁ、はぁ……っ!」
大粒の汗が有希の頬を伝う。目の前には、全ての脚を落とされ、甲羅だけになった鬼面蟹の姿。
『ギギギギギギギア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!』
鬼面蟹は、左目だけをギョロギョロと動かし、怨嗟の声を上げる。有希はそんな声など無視し甲羅の上に立つと、垂直に姫狼を構え。
「ふッ!」
甲羅の中心を、姫狼で刺し貫いた。
鬼面蟹の左目が、感電したようにビクリと震える。甲羅はグズグズと崩れ、断末魔も上げずに瘴気となり溶ける。最後に残ったのは、真っ二つになった三十センチほどの蟹の末路だった。
「……ふう」
姫狼を血を払うため大きく振り、黒に戻った刀身を鞘へ納める。
暴れる霊鬼はいない。いつもどおりの、静かな庭へと戻る。
「はあぁぁぁぁ……終わったあ。スイー、大丈夫?」
「だいじょぶじゃないよー。あたまいたいよー。あうー……」
後ろには力を使い果たしたのか、睡蓮が大の字に寝転んでいる。起き上がる元気もないようだ。
「あー、疲れたよう」
家族を守れた。家族と言ってもらえた。随分と酷い数日間だったが、得るモノは大きかった。
「疲れたねー」
守りたいと思った相手を守れた。守りたいと思った相手ができた。随分と慌ただしい数日間だったが、得たモノはあった。
「スイのおかげで倒せたよ。ありがと」
「おう。一生感謝しろ」
「はいはい」
縁側には歓声を上げるなずなと、驚いた顔をしている螢の姿。
「まぁ、いいんでない」
「そうだね」
有希は睡蓮の隣に座ると、互いに拳を合わせる。
こうして突如始まった騒がしい数日間は、終わりを迎えた。




