ペニー大学あるいはピオネール
二日目ともなれば整然とするものです。なんの特徴もない「コミューン・ハウス」でも、目的意識を持って未来に希望を抱き目を輝かせている人々が集まり、それを少しぎこちなくも誘導するギルド職員がいて、それを横目にコーヒーを楽しんでいる私達がいる。すごく外聞が悪いような、特権階級的な暗い楽しみを疑似体験しているような、フランス的退廃を味わっているような、朝っぱらから何してるんだろう的な感じで、いや本当に何してるんでしょう。
天幕の下で大釜でぐつぐつとコーヒーが煮られ、大釜の中ではコーヒー粉を包んだ布が右往左往し、布からコーヒー粉が少し流され出てきていた。私は大釜の近くの席で暖をとりつつ、カリーナに引き合わされた人たちとコーヒーを飲んでいる。
こんなことをしているのも『共産主義のネズミ』が理由でした。
カリーナは教導師団ギルドの設立のために管理本部から人をひっぱって来ていたのですが、ユリア・フラトコフもその一人でした。彼女は教導師団ギルド付のカフェを運営するためにひっぱって来られたのですが、カフェがやりたいなら、こんな海とも山とも知れない所でやるより管理本部でやった方がいいでしょう。グラフィーラ本部長は個々人の夢の象徴の実現に熱心で、現に「象徴の実現通り」とでも呼べそうな街区が塔の周辺に建設されていますし、管理本部下の方が物資の手配も楽でしょうからそこでやればいいんです。
でも、彼女がこっちに来たということは相応の理由―ペニー大学(イギリスのコーヒー・ハウスにおいて種々の階級が入り混じり、日々の出来事や新聞の内容を討論したりしたことから1ペニーのコーヒーで上流階級から教育を受けられるということでペニー大学。なお、女子はしめだされたので正確性を期せばペニー男子大学だった)への憧れーがあるということなのですが、そんな人に引き合わされても何も言えることもないでしょうに。そもそも、私はペニー大学なるものにカリーナに教えられて知った知識しかないのですが、生物学的優位性の観点から何かを語れとでも言うんでしょうか。カリーナはユリアが『共産主義のネズミ』の著者に会いたいと言ってるとしかいいませんでしたが、私に当意即妙な対応ができないことは彼女も知っているでしょうに。
「初めまして、緋色のWさん。それとも同志アデリーナとお呼びしても?」
「初めまして、同志ユリア。どうぞお好きに。他の方のご紹介をしていただいても?」
ユリアの他に3人の計5人で席に座っているのですが、ユリアが大釜から柄杓でコーヒーを汲んで皆に配っているときにも誰も一言もしゃべらず緊張感に溢れていたので、私も話しかけなかったのですけれどもこの人たちは何なのでしょうか。
「はい。これが『不滅のライスプディング』ライサ・アルツェバルスキーで、あっちが『腐らないポテト』テレンティア・バラキレフ、それが『純良食品法信者』ヤナ・ゴロフキナ、そして私が『ペニー大学の戦闘的男女同権論者』ユリア・フラトコフです」
「……えーと、その、称号的なものは何なのでしょう?」
「同志アデリーナ、これは称号というか、決意というか……とにかくそういうものです。でも私たちがどのようなものかお分かりになられると思うのです。彼女たちには私がコーヒー・ハウスを今日から営業するということで来てもらったのです。と、いうわけで、さぁどうぞ。貴女方が私の初めてのお客様でございます。グラフィーラ本部長もお喜びになるようにまた一つ夢の象徴が実現します。私は大学に行けませんでした。『ラブファック』(労働者農民出身の若者のための大学進学予備校)まではいけましたが、そこでも志望と適正は異なっていた上に時代からも遅れていました。絵画の中の人間より現に生きている人間には驚くほどの価値がある。なのに、私たちは驚くほど心を画して生きている。だから人間の心を描いてみようと思っていましたが、それも無駄なことです。だから、せめて心をあらわせる場所を作ってみようと思ってみました。御存分に貴女の心をあらわしくださいませ。乾杯」
乾杯がなされたなら飲み干さねばならない。飲み干さねば……飲み干さねば、…………苦っ。
勘違いしていただきたくないのですが、この苦みはコーヒー一般に対する反応ではなく、このコーヒーに対するものです。大釜での大量生産はどうやら品質を犠牲にしているようですが、という一般論よりこれは明らかにコーヒー粉を入れすぎてますね。
周囲を見渡してみると、皆さん顔をしかめていて、私だけがおかしくないことの傍証になっています。ヤナなんて泣いていますよ。
「……『雪にすっぽりと覆われた樹木のように、われわれロシア人は無数の問題に覆いつくされているが、それでも必死に生き残ろうとしている。だが、雪の重圧に耐えられなくなると、誰かに問題を打ち明けたくなり、黙っていられなくなる。しかし、口を開いた途端に誰かに盗み聞きされて、あっという間に姿を消してしまうのだ!人々は、ただひとこと言葉を交わしただけでも面倒に巻き込まれることを知っているので、最も親しい友人以外には誰とも話をしないようになっている。沈黙の共謀関係が構築されている』(ミハイル・プリーシヴィン)『最近のモスクワ市民の生活習慣、それは誰とも何も話さないという生き方だ。この生活極意は、誰も何も言わなくても、誰が何を言いたいかを察知するという点にある。もし自分の中に「心の底を打ち明ける」などという習性が少しでも残っていたら、それは完全に排除しなければならない』(ミハイル・プリーシヴィン)……。私たちは、ここまで来た。私たちは、何かに耐えられなくて、ここまで来た。私たちは、ここまで来て、支配階級になった。私たちは、何かに耐えられなくて、ここまで来たが、またもや耐えられなくなった。私たちは、もはや耐えなくてもいいのだ。そのことに耐えられなかった」
「……そう、もう耐えなくてもいい。……このコーヒーにはミルクを入れよう。いや、コメも入れよう。いやいや、もうそもそも、コーヒーライスプディングをつくろう。ミルクがタンパク質、コメがデンプン、あとは果物も入れてビタミンをとって、ぐつぐつと煮て殺菌してコーヒーも入れてカフェインをとろう。そうペニー大学でありさえすればよいのなら、重要なのは人々を興奮させ、議論を誘発するカフェインだけ。なら、そこで提供されるのは完全食であるライスプディングでもいいんじゃない?味は問題じゃない。少なくともこのコーヒーと比べたら」
それには同意します。
「うーん、それもそうなんでしょうけど、お腹いっぱいになったら議論なしに帰っちゃいそうで、それにコーヒー・ハウスのイメージとして、コーヒー、チョコレート、タバコですので、あっ、お客さんにはちゃんとミルクも、チョコレートもお出しするので苦くても大丈夫ですね」
私たちはお客じゃなかったとでも?
「そんなだから、コーヒー・ハウスは『近年、私どもは正真正銘のイギリス古来からの活力がはなはだしく衰えているのを目の当たりにし……[中略]……いまだかつて、男たちがこれほど大きすぎるズボンをはいたことも、また情熱というものをこれほどわずかしか持ち合わせなかったこともありません』とか『忌まわしい、コーヒーと呼ばれる異端の液体を飲みすぎるせいなのです。おかげで夫たちはすっかり意気地がなくなり、もっと優しい色男たちは無能になってしまい……[中略]……そのせいで男たちは水気といえば鼻水ばかり、固いのは関節ばかり、ピンと立つのは耳ばかりというありさま』とか言われちゃうんですよ。『重要なのは世界を変革することである』そう、今こそ、貴女がコーヒー文化を変革するときです。コーヒーライスプディングをつくろう。美味しいものをつくろうとするとひたすら時間と根気がいりますが、さっきのコーヒーより美味しいものはすぐ出来ますから、今から早速やってみましょう」
そもそも教導師団ギルド付のカフェと聞いていたはずなんですが、いつからコーヒー・ハウスに変わったんでしょうか?
「えー、『勃起をより力強くし、射精をより完全にし、精液に霊的性質を添える』ですか、言わせないでくださいよ。それに、女性がコーヒー・ハウスに反対したのは、女性がしめだされていたからですから、そっちを変革しますね。何ならコーラも出しましょうか。あれにも、カフェインが入っているはずですから」
「何で、我らが偉大なヴィクトリアン的性道徳をもつ政府と検閲官はその部分を全略しなかったんですか。女性側の訴えは中略しているのに」
「それは、もちろん男性側の主張だからですよ。ねっ、貴女も男女同権論者になりましょうよ。こういう小さなところから男女差別は維持され続けるんですよ。……同志アデリーナ、有り難うございます。貴方のおかげで159分の1の女子優位が確立されました。『十月革命は女性に対する義務を誠実に果たした』(トロッキー)それでもなお、『いかにして男性が女性を隷属させたか、いかにして搾取者がその両者をみずからに服従させたか、いかにして勤労者が流血の犠牲において奴隷状態の解放を試み、かつある鎖を別の鎖ととりかえただけにとどまったか――そのすべてについて歴史は多くのことを物語ることができる』(トロッキー)そう、歴史がまだ多くのことを物語れる以上、十月革命で足らなかった以上はもはや女子による独裁しかありませんでした。貴女にお礼を申し上げたくて同志カリーナに頼んだのです。本当に有り難うございます」
「女子階級独裁は軍高級官僚のミロスラーヴァが思いついたことなので彼女にお礼を言ってください。カリーナもそのことを知っているんだから貴女に教えればよかったのに、カリーナに頼めば会えると思いますよ。それはそれとして、コーヒーライスプディングはどうするんですか?」
ミロスラーヴァが言われるべきお礼を受け取ってしまいましたが、それでも誰かが誰かに感謝することは素晴らしいことです。彼女にはミロスラーヴァにお礼を言ってもらって、あまり満たせなさそうな彼女の自尊心を満たす役割を果たしてもらいましょう。それに人違いだったならば、もう解放されるでしょう。
それはそれとして、あのコーヒーを放置することは出来ません。教導師団ギルド付のカフェであんなコーヒーを出すことは教導師団ギルドの名誉にかかわるでしょう。断固として、別のものを出してもらいましょう。それに、コーヒーライスプディングがふさわしいのかどうかは知りませんが。
「いや、同志たち、コーラにしましょう。資本主義の、アメリカの生み出した偉大なる自然の征服―科学技術の勝利―であるチューインガムとコカ・コーラこそ、新しい時代の、私たちの時代の店舗にふさわしいです。イギリス的なコーヒー・ハウスより、アメリカ的な炭酸水売り場にしましょう。科学技術の進歩だけが私たちを救うでしょう。いつの日か、腐ることも、虫に食われることのないポテトだって科学技術が創り出すでしょう。そのためには、一人一人が科学技術に夢を抱き、科学技術の勝利の為に働かなければならない。チューインガムもコカ・コーラもその為にはうってつけです。誰がこれらを自然のものだと思うでしょうか。これらには魔法がかかっています。祝福を受けています。自然の素材が科学技術を通して文明に包摂されたのです。ライスプディングは、それは栄養満点かもしれませんが、美味しくないですし、文明度もせいぜい原始共産制といったところでしょう。いつか美味しくて、栄養満点な食品が科学技術によってつくりだされるでしょう。でもそれまでは、チューインガムとコカ・コーラに文明の夢を見ましょう。これらの夢を味わった人たちが、科学技術のとりこになって科学技術に決定的な勝利をもたらす夢を」
「ライスプディングが美味しくないのは、美味しいのを食べたことがないからでしょう。アメリカかぶれにはわからないかもしれませんが、伝統あるイギリスの、伝統ある学校給食で毎日出てるところもあるぐらいに栄養満点なんですよ。栄養満点で、美味しい、これで決まり。もう勝利は手の中にある。あとは、私達を鍛えなおすだけ、食習慣を変えよう!」
「私たちは炭酸水売り場の『麻薬』に反対する!私たちはファーザー・ワイリーを信じる。私たちは『国民の健康への害などささいな問題であり、考慮するに足りない。食品にまぜものをすることの最大の悪は、消費者を欺くことだ』(ハービー・ワシントン・ワイリー)と信じる!私たちはアメリカ連邦政府VS四〇樽と二〇小樽のコカ・コーラ事件の正当性を信じない!この事件の争点はコカ・コーラがまぜものをしたことと、違法なラベル表示をしていることの二つ。純良食品法によれば、心身に有害な成分が添加されていれば、その製品はまぜ物をしたことになる。したがって連邦政府は、カフェインが有害かつ、添加物だということを証明する必要があった。またコカ・コーラは、コカの葉のすべてを用いておらず(つまりはコカインが除去されている)、コラの実の含有量も微小であるため、正しい表示をしていないという点も争われた。連邦政府は敗北した。私たちは『人民の敵』が連邦裁判所内にいたと信じる!私たちはコカ・コーラがその含有成分を明らかにしていないのは消費者を欺く意図があると信じる!!」
「いや、同志ヤナ、コカ・コーラは消費者を欺いてなどいない。科学技術への投資は回収されなければならない。そして、そのために同業他社からの模造品を阻止しなければならない。結果としては含有成分を秘密にすることで技術投資が回収できるようになり、また新しい技術投資が行われて、消費者も利益を得る。その事件がきっかけでワイリー博士が連邦政府から追われたという私怨で悪い噂を信じてはならない。『コカ・コーラは田舎の老女から盗んだという、もっぱらの評判だ。今では五〇〇〇万ドルの価値。大桶のなかにネズミ。ウッズ薬局での麻薬のほうが、まだまし。だが、そんな噂は、ここでは力がなさすぎる。最近この飲み物が好きになり、毎日グラスに四、五杯飲んでいる』(トーマス・ウルフ 『天使よ故郷を見よ』)同志ヤナも飲んでみればいい、コカ・コーラにはそんなものに打ち勝つ力がある」
「……同志ユリア、ペニー大学ってこんなものだと思っていいんですか?」
討論や教育というよりは信念の押し付け合いに見えますが。
「えぇ、同志アデリーナ。本物のペニー大学はイギリスの文化や社会関係から生まれたものですから、私達のペニー大学はこんなものから始まりますよ。なーに、すぐに『ソーフキ(ソヴィエト人)』も『心の底を打ち明け』て、おしゃべりをするようになりますよ。なんせもう『姿を消してしま』うことはないんですから。……と、いうわけで、同志たち、記念すべき初回の討論はこの店舗で出すべきメニューを討議されたし。同志ライサは参考資料としてコーヒーライスプディングを用意、同志テレンティアはチューインガムとコカ・コーラを調達、同志ヤナは……」
「私たちは、紅茶を用意する。加えて消費者保護の観点から原材料表示も用意する。さらにコカ・コーラは『コカ』でも『コラ』でもないことを表示しておく」
「えーとっ、同志アデリーナは……」
「討議にはもちろん他のお客さんも参加されるでしょうから、私はお暇してもよろしいでしょうか。今日はしばらく会えてなかった友人の所を訪ねようと思っているので」
「あっ……、そうですか。……お客様のまたのご来店を心よりお待ちいたします。今度はミルクとチョコレートもご馳走しますし、今日の結果次第では我が同志たちご自慢の諸々もご提供しますよ」
否定しなかったということは、きちんとお客さんにも聞くでしょうし、そうすればあのコーヒーでは耐えられないでしょう。他のメニューがお客さんの口に合うといいのですけど。でも、私がいて何とかなることもないでしょうからもう行きましょう。
『イズベスチヤ』によると『わが国の道路の荒れ方ははなはだしい。モスクワ―ヤロスラブリ間の最重要幹線道路は自動車で一〇キロ以下でないと走れない』が、それはともかくも道路があるとしてのことで、私たちはほぼ森の中で生きています。管理本部と60万人の人口密集地である都市管理委員会の管理地区との距離は直線35kmですが、それだと教導師団の演習区画を横切ってしまうので、実用最短距離50kmで毎日大量の物資が輸送されています。森の中を時速8kmで走れるとして片道およそ6時間になりますが、一度城壁を経由すると城壁の上を時速50kmで走れますので、管理本部から1時間(城壁まで)プラス1.5時間(城壁上)プラス2時間(城壁から)で都市管理委員会まで4.5時間に短縮されますので、実際には100kmの距離を毎日トラックが走っています。このように現状メドベーチグラード内での移動は城壁からの距離にルートが大きく左右され得るのですが、軍事上の危険、移動時間の削減の観点から内側全天候型環状高速道路建設計画が持ち上がり、1時間で管理本部―都市管理委員会間を結ぶ予定になっています。
各師団は城壁の守備の為に分散されていて補給上の利便性もあることから、必然的に城壁での移動が利用しやすいようになっている上に、軍制上では毎日師団の3分の1の兵士が休暇をとれるので、それが36個師団でおよそ11万5千人の兵士が毎日都市管理委員会の管理地区に行って帰って来ているだろうという計算になります。
兵士(メドベーチグラードのすべての成人男性)は、おそらくその妻子が管理地区にいますし、もし管理本部に血縁者の女子がいたとしても管理本部の街区には、親衛隊に阻止されて入れません。また軍制上では配備、待機、休暇で、待機の時には師団の担当地区から動けないので休暇の時には目新しい場所を見に行くでしょうし、今のところ何かあるのは管理地区だけでどんなに遠くとも往復8時間で済むので必ず帰ってくることが出来ます。何が言いたいのかというと労働収容所で同じグループで、今では第5師団の98小隊長になった友人のローザ・ボリシャコワが休暇で管理地区に来ているはずなので会いに行こうと思っています。ローザは家族を自分の指揮下に置くために後から軍に転属したのですが、その後も管理本部の郵便局経由で何回か手紙のやり取りをしています。そのやり取りの中で彼女の家族が13地区第6号棟にいることと今日が彼女の周期上の休暇日であることが分かっていて、一度見に来るように誘われているので今日行くことにしました。本当は昨日塔に行く途中に寄り道をして第5師団を訪問してみようと思っていたのですが、昨日は人民の津波に飲み込まれて時間の余裕を失ったので行けませんでした。内側全天候型環状高速道路が建設されない限り、教導師団―管理本部間で往復10時間かかるという事実は我々にのしかかり続け、私やミロスラーヴァみたいな頻繁に往復せざるを得ない人間はひどく消耗を強いられるので完成が待ち遠しいです。
都市管理委員会の管理地区を城壁の上から見ると、森の中に長い年月をかけた風や雨による浸食で削り取られることをなぜか免れてしまった不毛な高台があるように見えますが、教導師団側から森を抜けてくるとひたすらにふしぎの街が広がっています。何が不思議かというと碁盤目状に地区全体で3000棟の「コミューン・ハウス」が林立しているので、街に入る前の通りからは左右に長い壁があって遠くに森が見えていますが、街に入って十字路に立つと急に左右の長い壁が取り払われて、四面が森に囲まれた街があらわれるのです。
このふしぎの街は60万人が1区画(5km×5km)に詰め込まれてるということから想像するよりは「コミューン・ハウス」間に空間があるのですけれども、だからといって車で容易に通れるという訳でもないです。まだ反乱から10日ですが、ソビエト農民の不屈の精神をあらわしているかのような種々雑多な建物が処女地を見つけた雑草のように高台の間に生えています。掘っ立て小屋から、鳥小屋、牛舎、サウナにプールさえあります。さらには、子供たちがそこらで遊んでいるので轢かないように気をつけなければならない上に牛や豚、鶏たちはこちらの都合に合わせてどいてくれたりしません。
ひたすらに同じような「コミューン・ハウス」と個性ある外の施設群の間を抜けて13地区第6号棟だと思われる建物のもとへとたどり着きました。車を止めると建物の入り口に立っていた二人の少女の内一人が駆けて来ました。
白いシャツに赤いスカーフの制服、汝らの名はピオネール。ピオネールは共産主義の価値観と規律を子供に教える少年組織で、加入できる子供は子供たち全員の内の階級的に選りすぐられた5分の1ぐらいに過ぎないのでピオネールの赤いスカーフといえば子供の憧れです。そのピオネールの制服を着た少女が駆けてきているのですが、プガーチ(おもちゃの空気銃)を手にしています。どうやらここもまた前線だったようです。
とにかくこういう時には機先を制さなければなりません。車を降りて大声を出してみます。
「ピオネールよ、用意はいいか?」
彼女は立ち止まって敬礼をしながら答えました。
「用意は万端、いつでもいいぞ!」
これはピオネールの定型的やり取りです。
「ローザ・ボリシャコワ小隊長はここにおられるか!」
「同志といえども軍事上の機密故話すことは出来ません!」
軍事上の機密故話すことができないというのはこの建物とローザが関係するといったようなものです。ここが13地区第6号棟だということがほぼ確定しました。
「私は同志ローザと労働収容所内で同じ鉢から食べたアデリーナだが、同志ローザに13地区第6号棟は素晴らしいところだから一度訪れるように勧められている。誰か案内出来る者に渡りをつけてもらえないだろうか」
さて、どう出るでしょうか。
「それは失礼しました。同志アデリーナ。ゾーヤ、防衛任務を離れて同志アデリーナを御案内しなさい」
「了解しました~アニーシャお姉ちゃん」
「ゾーヤ、『個人的な利害関係はすべて後回しにしなければならない』(アナトーリー・ルナチャルスキー)『私はソ連邦の若きピオネールの一員として、レーニンの教えを固く守り、共産党と共産主義の大儀を断固として擁護することを、同志の前で厳粛に誓います』(ピオネールの誓いの言葉)なのだから、ピオネールとして私のことを同志アニーシャと呼びなさい」
「われわれはそんなことしない!『若者たちには、『私』ではなく『われわれ』を主語として考えることを教えるべきだ』(アナトーリー・ルナチャルスキー)なのに、お姉ちゃんはずるい!!お姉ちゃんはいつもそういうこと言うのに、われわれのことは同志として扱わず妹として扱うじゃん。われわれのことを同志として扱うまでお姉ちゃんと呼び続けるからね!」
「……はぁ、お待たせしてすいません。同志アデリーナ。私の妹ゾーヤ、案内しなさい」
「え~~、そっちなの?いいもん、われわれが完璧に仕事するから、後で見直すといいんだからね!同志アデリーナ、ご案内しますので後で褒めてください」
そう言ってゾーヤは、私の腕を引いて走っていきます。どうやら、無事プガーチで撃たれずにすみました。私はプガーチにちょっとトラウマがあります。
ソビエトの子供たちの遊びとして「赤軍・白軍ごっこ」という内戦の伝説的戦闘を再現して遊ぶものがあるのですが、みんながレーニンを演じたがる(何故トロッキーやスターリンやトゥハチェフスキー、グーセフではなくてレーニンなのでしょう。赤軍・白軍ごっこなんだから軍隊を率いた人を演じましょうよ)ので配役を決めるためにしばしば喧嘩が発生します。その際に「赤軍・白軍ごっこ」の為にあったはずのプガーチが実戦に投入される羽目になるのですが、私の眼を狙った悪質極まる狙撃兵がいたのです。私は男の子たちに混じっていた唯一の女子(普通の女子は冬宮に機関銃手として突撃したグーセフの娘に憧れたりしないものでしょう?)だったのでなにがしかの反発があったのかもしれません。また、「捜索徴発ごっこ」では、男子たちが赤軍の徴発隊になり、女子をブルジョワ投機分子や穀物を隠匿するクラークとして糾弾してくるのですが、その時にも奴らは私の眼を狙ってきました。眼はやめましょう。眼は。
ゾーヤは私の腕を引きながら、私の肩に頭を預けて囁きました。
「ローザお姉ちゃんは貴女にもこういう風にしますか?」
「ええ」
「……やっぱり、お姉ちゃんはお姉ちゃんのままかぁ……。お姉ちゃんに付き合ってくれてありがとうございます」
そういって彼女は離れていきました。背後からアニーシャの怒声が響いてきます。確かめるためならそんなことしなくてもいいでしょうに。
※ライスプディングは完全食ではありません




