表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

洗濯婦あるいはコウモリ

 教導師団ギルドが始動する記念すべき一日は、都市では見慣れた行列の復活から始まりました。

 アンナが教導師団員の手続きは先に済ませているので、教導師団員達はそれぞれの仕事先(実質的には今まで教導師団がやっていたことのどれかか、市場管理の手伝いが今受注できる依頼のすべてです)に既に行っています。

 では何故行列ができているのかと思い、どこから来たか聞いてみれば、都市管理委員会の管理下の人たちが来ているようです。


 都市管理本部は、メドヴェーチグラードを東西と南北でそれぞれ10区画ずつに分割し、格子点ごとに塔を建設し、各組織に区画を分配しました。

 各師団にそれぞれの守備区域を分配し、都市管理委員会には(3,7)区画(1に近いほどモスクワ側です)を分配し、教導師団には(4~6,4~6)の9区画が分配されました。

 教導師団の区画が多いのは、演習の為には広い土地が必要である(砲兵の最大射程は8.5kmあります)ので、そのことを配慮してもらったものです。


 都市管理委員会は、最初に母親と子供たちを解放したグループから形成され、60万人が所属しています。彼女らは、200人居住想定の共産主義的共同住宅を管理する棟管理人、50人の棟管理人の代表であり、都市管理委員会内にて議席を持つ地区管理人、後はそれぞれの棟の住人達から構成されています。



 教導師団ギルドは、(4,6)区画を住宅区画として整備することに決め、区画を50m×50m の1万個に分割して月あたり400点(教導師団員が1日8時間労働すると88点になりますので、5日働けば自分の土地が借りられます)で貸すことにしました。



 その結果がこの行列でした。聞いてみれば、皆さん土地を借りれるということと労働点数で貯蓄が出来るということを聞いて行列を作っているようです。


「……これは…つまり、利己心の勝利である」


「おはようございます、同志利己主義者。で、何が利己心の勝利なんですか?」


「……おはようございます、同志緋色のネズミ。……教導師団員は、生きるために市場に組み込まれる。でも、彼女たちは棟管理人に従っていればいいのに、わざわざこんな朝早くから、行列に並んで市場に参加しようとしている。これが利己心の勝利」


「はい。もちろん。でも、その勝利の分け前は血縁主義にも分配されますし、『個々人の利己的な行為が市場を通じて結局は利他へと転換される』のだから利己心の勝利は結局のところ利他心の勝利。というか、市場が存在する限り理論上、利己主義者は利他主義者に転換されてしまいますよ」


「……『個々人の利己的な行為が市場を通じて結局は利他へと転換される』としても、途中経過には差が出るはず。……『個々人の利己的な行為が市場を通じて結局は利他へと転換される』ことを知らない愚かな利己主義者は、結局は『見えざる手』(アダム・スミス)に導かれて利他主義者として働くとしても、その過程において私たちに利己主義者の存在証明を示してくれるはず」


「何度でも言いますけど生物学的優位性の観点から、利己主義者が血縁主義者に勝つことはあり得ない。よって利己主義者は存在しない」


「……利己主義者の刻印を押されて苦しんだのに、今更利己主義者が存在していない、なんて認められるとほんとに思ってる?ブルジョワ経済学者として言いますけど経済学的観点から、全ての個人は利己的な経済学的合理人。よって利己主義者は存在する」


「まぁ、平行線ですよね。議論はともかく行列はどうしましょう?」


「……この数を捌こうと思ったら今いるギルド員では足りない。……つまり、現地調達。……私は列の先頭200人くらいを連れて、即席ギルド員に仕立てるから、あなたは行列に今日できる仕事は住宅区画の整備だけと伝えて」


「……それ、絶対にそれだけじゃ済まないやつですよね。質問攻めに遭って対応に困るやつですよね。……はぁ、今日は城壁の方の様子を見に行くつもりだったのに」


 そして、ため息をついた私は気を取り直して人民に奉仕するために人民の海に飛び込んできました。自分でものを考えて人に伝えるという技能は、私のような労働者には求められてなかったのですが、高等教育を受けたカリーナとミロスラーヴァはともかく、農民出身のイリヤとアンナも普通にこなしてそうだという事実に割とへこみます。

 まぁ、私はたまたま生物学に帰依して、書いた童話がミロスラーヴァにインスピレーションを与えただけの労働者に過ぎないんだから、しょうがないです。


 しかし、これから来る共産主義の世界ではこの技能は必要なんでしょうか?

 人間のリソースは一定(もしリソースが増やせるなら、それだけ生物学的優位を獲得するので、現時点で人間は可能なだけのリソースを獲得しているはず)なので、ある技能は必ず他の技能とトレードオフの関係にあります。

 共産主義の世界で生物学的優位を獲得する技能は、労働生産性を共産主義段階にふさわしい高さに維持する技能とひたすら子供を再生産するために役立つ技能です。


 この技能は労働生産性の方で引っかかってくると思いますが、よく考えたら自分でものを考えると人に伝えるは分離できる気がします。だとしたら、分業して分業の利益を獲得した方がよさそうな気がしますね。

 という訳で来るべき共産主義の世界ではこの技能は必要なさそうです。


 まぁ、今要るんですけどね。


 ということを質問攻めに遭いながら現実逃避的に考えていたのですが、これは考察しなければならない問題です。


 『共産主義のネズミ』を書いた時には、子供を再生産するために役立つ技能についてだけ、考えた結果として多産、早産、雌率が高いを満たすネズミが『共産主義のネズミ』つまり、共産主義下のネズミを代表するネズミ(長期的に見ればネズミたちから無作為に選んだ時にこのネズミが選ばれる可能性が極めて高くなります。他の特性を持つネズミたちも最初よりも数を増やしているでしょうけど、このネズミがすごい勢いで増えるので全体に占める割合から駆逐されていってしまいます)になると書きました。


 では、労働生産性を共産主義段階にふさわしい高さに維持する技能も考慮に入れるとどうなるのでしょう?




 考えれば、自分でものを考えるのは、我々の最高の知性が1人(偉大なる同志レーニン!!)いれば良いことが分かります。むしろ、他の人が自分でものを考えるのは混乱を発生させて、労働生産性を引き下げてしまうでしょう。偉大なる政治局員たちでさえレーニンに反対した過去を持っているのですからいわんや私たちをや。

 といっても、発生する問題に1人で対処することは現実的ではない上に、考えた指令を人に伝える必要があるので、共産主義の世界では労働生産性をつかさどる指導者階級と子供を再生産する生産者階級に分業の利益により分離するでしょう。


 これって前衛党理論ですよね。職業革命家の指導者階級に指導される将来の生産者階級たる労働者たちの世界に帰ってきました。

 当たり前ではありますが、それでも生物学から始めて共産主義の概念に帰ってくることには安心せざるを得ません。

 やっぱり、共産主義は真理を語っていることを確認できるのですから。


 これだと、労働者の前衛で、これから労働者が経験する困難を事前に強力に味わっているはずの職業革命家の指導者階級に労働者が合流しないので、職業革命家は労働者の前衛ではなくなる上に、共産主義社会においても階級は存在し続け『人類前史』は決して終わらないだろうことからは意識をそらしつつそんなことを考えていました。








 どんなものにも終わりはあるものです。ツァーリズムにも、長く苦しい冬にも、私の味わった苦行にも。


「『こんな素晴らしい午後には、世の恋人たちは二人きり、そして貴方もまた、彼女と二人きりなのです』」


「こんな素晴らしい午後にも、世の恋人たちは再教育されなければならないです。私的生活からありとあらゆる悪徳が生まれるのです。そして私達もまた、『私達』に鍛えなおされるのです」


「………」


「………」


「………それ、毎回やるんですか?」


「もちろんです。真実は真実として、私たちに関係なく存在しますけど、それはそれとして事あるごとに確認しておかないと忘れてしまうでしょうから」


「その『確認』が私的観念に満ちている以上は毎回攻撃せざるを得ないです」




 そう。どんなものにも終わりはあるものです。ただ終わった後により辛い苦行が始まらないと言ってはいないだけです。




 私は『共産主義のネズミ』を書いた後に、塔での午後のお茶会に招待されるようになりました。お茶会のメンバーは、聖チイティヴィヨールティに都市管理本部長グラフィーラ・キュイ、元帥フィグネリア・アレクペロフ、親衛隊長ミーシャ・バルマショフのみであるという参加できるということだけで、極めて名誉を獲得できるお茶会でした。


 1回目に呼ばれたのは女子階級独裁理論と『共産主義のネズミ』の関係性からその説明を行うため(発案者であるミロスラーヴァを呼ぶべきだと思いました。彼女の方がお茶会に参加した名誉を必要としているのですから)だったので光栄にも思いつつ参加しました。

 しかし、2回、3回と呼ばれた上に私以外の人がお茶会に呼ばれた様子はありませんでした。

 私はそれを不審に思い、グラフィーラ管理本部長に何故か尋ねてみました。答えはまさに貴女が私に尋ねてきたということに象徴されていると返されました。


 彼女は続けて、お茶会で貴女が見たように、フィグネリア元帥は聖チイティヴィヨールティを教育しようとしているが、聖チイティヴィヨールティに心酔している親衛隊長のミーシャはそれが酷く気に入らない、このまま『私達』だけでお茶会を続ければ、遠からず彼女は元帥を『取り除く』だろうと。

 そして、貴女が呼ばれたのは聖チイティヴィヨールティに招待されたからだが、貴女はフィグネリアに対して迎合せずに論争を始めたことで、お茶会での教育を阻止した上に聖チイティヴィヨールティからの好感を得ている。これによって貴女は何回も呼ばれている。

 最後に貴女以外がお茶会に呼ばれないのはミーシャと私が阻止運動を行ったからで、私もミーシャも出来る限りお茶会は最初のメンバーだけで運営していきたいと思っているが、このままだとミーシャとフィグネリアが激突してしまう以上、妥協案として一人増やすのは仕方ないがそれ以上増やさないことを聖チイティヴィヨールティにお願いしたと彼女は言いました。


 そうです。私は女子階級独裁理論と『共産主義のネズミ』を説明する際に元帥と論争をしたことでもう呼ばれないだろうと思っていたのに、また呼ばれたことから不審に思って尋ねたのです。


 でも、それが何を象徴しているというんでしょう。


 それは不服従と疑念、つまり自立の基礎とだけ答え、彼女はこうも付け加えました。

 もし、貴女が度を越せばミーシャは容赦しない、と。




「それはそれとして、今日もお茶会をしましょう。この世界の片隅で。資本主義の最も弱い環の打ち捨てられた場所で。世界を、事件を、エピソードを解釈しましょう。それが、それだけが私に残されたものでしょうから」


「『哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである;しかし重要なのは世界を変革することである』(マルクス)です。私たちに必要なのは共産党精神、つまり自己を融解させ『私達』へと変革することです。そうすれば『私達』は白海とバルト海を運河でつなげることすらできるのです」

「元帥閣下。そうでしょうか。本当にそうでしょうか。それに生物学的優位性があるでしょうか。何故原始共産制以後に共産主義は廃れたのでしょうか。『権利は、社会の経済的体制およびそれによって条件づけられる文化的発展より決して高くありえない』(マルクス)でしょう。共産党精神は明らかに文化でしょう。そして、当然に下部構造に規定されるでしょう。何故聖チイティヴィヨールティ様以前と以後で同じ精神を持つでしょうか?」


「共産党精神が、偉大なる革命家たちの精神が、人類の最終的到達点だからです。確かに文化は下部構造に規定されるものです。だから以前は一部の特権を持つ者たちだけがこの精神に到達していたのです。しかし、以後は、これからは、無限の前途が開かれるのです。」


「フィグネリア、なら何故資本家が革命家にならないの?」


「『個体発生は系統発生を繰り返す』(ヘッケル)からです。なるほど資本家たちはその恵まれた物質的条件―下部構造―に導かれて、まず革命家にならなければならないように見えるかもしれないです。しかし、彼らの個体発生の時に、人類以前を、原始共産制を、奴隷制を、封建制を、資本主義制を繰り返すのですが、新しい、人類最後の共産制への、最後の一歩は私たちの世代が踏み出して、系統発生に刻み付けなければならないのです。ですが、資本家たちはその恵まれた下部構造のせいで、逆に資本主義制に強固に張り付けられているのです。資本主義制は国家による義務教育の普遍的導入によって、すべて国民にブルジョワ国家のための道徳を植え付けることで、プロレタリア革命の発生を抑止しているのです。恵まれた下部構造を持った資本家階級の子供たちは、他の階級の子供たちよりも相対的に共産党精神に目覚める可能性があるはずなのですが、資本家精神を持つ親たちが彼らの子供たちにその財産を用いて熱心に資本家精神を植え付けてしまうことで、資本家階級では延々と再生産だけが続けられてしまうのです。そして『長い産みの苦しみの後に資本主義社会からあらわれ出てくるような形での共産主義社会の最初の段階にあっては、ブルジョワ的な権利は……不可避である。権利は、社会の経済的体制およびそれによって条件づけられる文化的発展より決して高くありえない……』(マルクス)『消費財の分配に対するブルジョワ的権利は、もちろん不可避的にブルジョワ的国家をも前提にする。なぜならば権利は権利の規範を順守することを強制する力を持った機構がなければ無に等しいからである。そこから共産主義のもとで一定期間ブルジョワ的権利が残存するばかりでなく、ブルジョワジーなきブルジョワ国家さえ残存するということになるのだ!』(レーニン)です。何が言いたいかというと、下部構造は上部構造を規定する、これは決定するということではなく、許可するということに近いのです。『文化は経済の液汁を養分とするものであり、文化が成長し、複雑になり、洗練されるためには物質的余剰が必要である』(トロッキー)『基本的な経済的課題がいかに立派に解決されたところで、それは「社会主義という新しい歴史的原理の完全な勝利を決して意味しはしないだろう。全国民的な基盤での科学的思考の前進と新しい芸術の発達のみが、歴史の種子が茎となって育ったばかりでなく、花を咲かせもしたということの証しとなるだろう。この意味で芸術の発達はそれぞれの時代の生命力と意義の最高の試金石である」』(トロッキー)です。そろそろ解釈を終わる時です。何が不足しているのです?『何が不足しているかは明らかである。統治にあたる共産主義者の層に文化性が不足しているのである。ところで、4700人の責任ある共産主義者のいるモスクワをとってみると、この官僚機構、この大集団をとってみると、だれがだれを指導しているのか?私にいわせれば、共産主義者がこの大集団を指導していると言えるかどうか、たいへん疑わしく思われる。ほんとうをいえば、彼らは指導しているのではなく、指導されているのである』(レーニン)です。よって、私たちは変革を、私たちにプロレタリア文化を、そしてプロレタリアの権利の規範を順守することを強制する力を持った機構をおこさなければならないのです」




 そう。私は定期的にこれの相手をしなければならないのです。この恐ろしく雄弁で、熱意に溢れ、確信に満ち、マルクス、レーニン、トロッキーをきちんと引用してくる確固たる記憶力を持ち、私が対応に失敗すれば、遠からず『取り除かれる』であろう元帥と論争をし続けなければならないのです。栄達を望むのならば、それもいいでしょう。

 このお茶会のメンバーと知己になれることはとても素晴らしいことです。このお茶会のメンバーは、聖チイティヴィヨールティと労働収容所内で同じグループ、かつ親しい間柄で行動力があるという共通点で権力を確保しています。私も聖チイティヴィヨールティと親しくなればそれに応じて権力を獲得できるかもしれません。



 でも、恐ろしいことに栄達がすべてではないのです。もし、そうならば、私は父が逮捕されたときに自己批判して親子の縁を切ったでしょうし、そして人民の敵にならずに、未だに工場で働いていたはずです。


 これは、恐ろしいことなのです。栄達がすべてではないなんて!

 栄達すれば何もかも思い通りになるはずなのです。服も、食べ物も、家も、医者も、自動車も、女も!そう、栄達すれば何もかも思い通りになり、それで得られるものが極めて大きな生物学的優位性を獲得させるように見える以上、栄達はすべてと言わずとも普通ならば追い求められるもののはずなのです。


 しかし、そうではありませんでした。私の心は父との縁を切ることを拒否しました。あまりにも意外でした。父の逮捕はもはやすぐには覆せない(父は無実です。あんなにも祖国愛に溢れた人が罪を犯した後に出頭しないはずがない以上は、この逮捕は働きすぎのチェキストの誤りなんです)以上は、私は率先して、親子の縁を切り、模範労働者となり、逮捕された父に小包を送り、スターリンに陳情の手紙を送るべきだったのです。

 そう、べきだったのです。べきだったのですが、それですら正解ではないのです。正解は親子の縁を切り、模範労働者となり、父のことを忘れ、恋をし、結婚して子供をたくさん産み育てることのはずなのです。生物学的優位性はそれを要求しているようにしか見えないのです。


 ですが、私は進んで最も愚かな選択をしました。この選択の代償は高くつきました。人民の敵としてこの森に送られたことは結果としては反乱によってそう長くは働かされなかったので大したことではありませんでしたが、私の世界観はすでに崩れ落ちていました。ただ共産党への一般的信頼を失ったのではないのです。生物学は生物学的優位性を以ってしてありとあらゆる人間行動を説明し予測できるはずだったのですけれども、私のとった行動はその予測されるべき行動であったとはとても思えないのです。そうです。私は、生物学―私たちの神学―をも疑ってしまったのです。


 こうなってしまってはもはや栄達など追い求めている場合ではないです。私は、私の世界観を再建しなければならないし、そしてそのためには、『何かを見るには、それにとりつかれていなければならない。他のものが目に入らないほど、それに没頭していなければならない』(ソロー)そう、生物学的優位性にとりつかれなければ、ありとあらゆるものに、それを見なければならないのです。


 しかし、私は元帥と論争しなければならない、私がいまや確固としては信じられない生物学的優位性だけによって、少しはカリーナとの論争によって学んだ経済学的武器庫から用語を用いることができるとしても、思考において元帥のです口調の影響を受けているようにすこしずつ元帥に影響を受けていくとしても。


 いや、そうでもないかもしれません。必要なことは元帥が聖チイティヴィヨールティを教育することを阻止することでした。もし、論争で勝てないなら私が教育を受ければいいのでしょう。そう、その考えは良いように思えます。聖チイティヴィヨールティも世界を、事件を、エピソードを解釈しましょうと言っていたのですから、もっと細かいものを解釈してもいいでしょう。そうです。ありとあらゆるものに生物学的優位性を見て、その解釈を元帥にぶつけてみましょう。元帥には聖チイティヴィヨールティよりも先に私を教育してもらいましょう。そう考えれば、苦行だと思っていたことが、人間の命をかけて有能な相手と論争しなければならないと思っていたことが、反転して実に楽しみなことに変わりました。人間の命がかかっていることに変わりはないのですが、私の持ちだす生物学的優位性が元帥の理論に打ち勝てるなら、また生物学への信頼を回復できるでしょうし、元帥も助かるでしょう。もし打ち負けたならその時は、有能な相手が私に新しい世界観を教育してくれて、私は世界観の再建に成功するでしょう。その場合は元帥の命が危ないですが、その時には私も『私達』になっていますから聖チイティヴィヨールティに直訴して何とかしてもらうか、親衛隊長を逆に『取り除く』ことにしましょう。

 そうと決めてしまえば、始めてしまいましょう。何から始めましょうか。一度好機であることに気付いてしまえば、もはや心を止めることなどできません。あれこれと聞いてみたいことが浮かんできます。でも、やはり、あれを聞いてみましょう。


「元帥閣下、服、食べ物、家、医療、自動車、配偶者、で貴女はどれが大切だと思われますか?」


「もちろん配偶者です。それら全ては獲得するための欲望から、私的蓄積と私的生活を始める個人主義者を生み出す恐れがありますが、よく整備された社会の分配制度によって食べ物と配偶者以外は最も必要とする人間に分配することができ、それによって私たちは集団主義へと到達するのです。ですが食べ物と配偶者では、食べ物は消費してしまい、配偶者達は結合してしまうので分配できないのです。しかも食べ物は不足すれば生きていけず、聖チイティヴィヨールティが言うように世の恋人たちは二人きりとそれぞれ信じあうことでどちらも私的生活を始める強い契機となるのです。しかし、いまや聖チイティヴィヨールティがいる以上、食べ物が不足することは考えられないので、配偶者が最も注意するべき問題です。人間の心が恋に落ちるのはしょうがないかもしれないですが、しかしそれでもなお理性によって良き共産主義者であれるはずなのです。『本物のボリシェビキは家族を持つべきではないし、また、持つこともできない。自己のすべてを党に捧げなければならないからだ』(スターリン)ですし、良き共産党員の家庭ほど夫も妻も激しく公的生活に従事していますからしばしば家庭は崩壊しているのです」


「そうですか。私も配偶者だと思いますよ。良き配偶者に巡り合えれば服、食べ物、家、医療、自動車を獲得することも出来るでしょうから。それに生物学的優位性から見て、配偶者よりも重要なものがあるとは思えません。何せすべてを共有して子育てという生物学的優位性の最重要任務を共に行うのですから」


「あら、緋色のWの提起した問題は面白そうね。二人とも配偶者と答えているはずなのに、結論が真逆になってしまうなんて。私は、自動車だと思うわ。ソフノフスキーが『自動車=ハーレム要因』がソビエト官僚の生活習慣の形成に特別な役割を果たしていると指摘しているし、そもそもこの国で自動車を手に入れられる者は他のすべても手に入れられると判断されるでしょうから、生物学的優位性も獲得できるでしょうね。グラフィーラとミーシャはどう思うかしら?」


 私は『共産主義のネズミ』の著者名に緋色のWと署名したので聖チイティヴィヨールティは私のことを緋色のWと呼びますし、カリーナに緋色のネズミと呼ばれたのもこれが原因でしょう。父が私のことを緋色のWと呼んでいることから、ペンネームとして使ったのですけど、父以外の人から呼ばれると、こう、何か、違うというか、やっぱり別のものにしておけば良かったという気がします。そもそも、何で緋色なのか父は教えてくれませんでしたし、私の髪は緋色じゃないですし、あの人は祖国に対してはすごい真面目なのに私のことはすっごくからかいますし、………………また、逢えたら、いいのに。


「私は家ですかね。それは、象徴なんです。森の近くで、小川が流れて、小鳥がさえずり、休日にはキノコ狩りに出かけて、たまに狼に怯えて、小さいけれども中は暖かくて、友達とお腹いっぱいベリーを食べて、たまにお祭りがあってお父さんたちが馬鹿やって、家具はほとんどないし傷だらけだけれども私達を見守っていて、お母さんに針仕事を教わりながら歴史を学んで、そんなあまりにありふれていて、あまりに小さくて、多分こうやって語られてきたし、語られているし、これからも語られるだろう夢の象徴」


「……医療を。それは神の御業でした。そのままならば、死んでいくしかない人間がまだこの世に留まることでした。まだやることがあるはずでした。そして、……そして、貴女がもたらされたのでした。私は貴女を守るのだと思いました。ただそれだけが残ったのでした」


「……そこまで思いつめなくてもいいのに。でも緋色のW、貴女を呼んでよかった。最初は偶然にすぎなかったけれど。貴女を呼ばなくてもいつか聞けたかもしれないけれども。でも、でも、……でも私は今聞けたの。みんなの夢を、解釈を、情熱を。『哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである』……そう、私は解釈を聴いただけ、世界に対する解釈を、でもそれも素晴らしいことじゃないかしら。それで世界は変わったりしないけれども。『私は、どこに向かうか予測のつかないつかの間のパターンにすぎないのだ』(ロバート・A・バートン)けれども。でも、いま、私は間違いなく柔らかい何かに触れたの。そして、それは私を永遠につくりかえたの。何かを共有することはやっぱり素晴らしいことだった。そんな単純なことも忘れていたなんて」


 聖チイティヴィヨールティはどうしたのでしょうか。そんなに感動することがあったでしょうか。私はもはや生物学的優位性にとりつかれて、そうなのかどうかすら分かりません。何かに感動する心にはどんな生物学的優位性があるのでしょうか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ