ナターシャ・カンペンガウゼンあるいは私のための犠牲
まだ太陽が出る前に塔を辞してナターシャの印刷作業場へと私は走っていきます。当然のことですが、こんな時間ではどこもかしこも暗闇に支配されていて私の目的地もそうでした。鍵は開いていました。
鍵を掛けないのは前からなのですが、今日はこんなことでもより不安になります。私はここに置いてきたランタンを探して明かりをつけようとしますが、どうしようもなく手が震えてマッチを落としてしまいました。
明かりをつけるのを諦めて深呼吸します。確かめるためには決意が必要でした。自分に言い聞かせます。最悪でも彼女が死んでいることはないと。彼女は私の鳥籠になるだけだと。
そして諦観とともに私は彼女のベットの上の毛布の塊にそっと触りました。何か固いものがあります。私の手が熱いものに触れた時のように反射的に一度離れた後でがしっと掴み直します。私は片手を掴んだままにランタンとマッチを引き寄せて、もう片手で明かりをつけようとしました。冷静になれば非効率的なのは分かり切っているのですが、この時はとても冷静ではなかったのです。
それからやっとのことでランタンが辺りを照らし、早朝にこんなことをされて起きだしてしまったナターシャの疑問顔と奥の姿見に映った私の泣き笑いした顔があらわれました。
まだ朝日も出ない時に起こされて、目の前では昨日泊まるはずだったのに、連絡が来て泊まらなくなったと知らされた友人がわんわんと泣き続けながら抱き着いてくるのをとりあえず宥める。冷静になって後から考えるとすごく恥ずかしくなりますが、この時は心の中の抑圧が緩んで、どうしようもなく感情が溢れだしてきていました。もうお酒は飲まないことを誓います。
とにかく、落ち着きました。
「……それで、何が、あったの?」
「色々、です。親衛隊の所にはいつ行くんですか?」
「……私は何も聞いてないわよ」
「貴女のこととローザのことで脅迫を受けたんです。私にあることを確実に履行するための人質として私の友達を親衛隊の管理下に移動させると」
私とカリーナは夏のガチョウクラブひいては反革命の中での影響力が期待できるので、聖チイティヴィヨールティも直接的には手を出さないでしょう。だから残った2人が標的になります。彼女には聖チイティヴィヨールティに脅迫を受けたことは言わないで、婉曲的に伝えることにします。そうすれば脅迫の主体は聖チイティヴィヨールティ以外だと思うでしょうから。この都市でこれから生きていくことを考えたら、こんなことがあったことを知らせない方がお互いの為です。聖人が友達の為なら何でもするなんて、ソビエト政府に知られたらいったい何が起こるかなんて考えたくもないです。だから夏のガチョウクラブのメンバーにだけ伝えてその後は秘匿することにします。
「脅迫?偉くなったらそんなことに遭うこともあるでしょうけど、もう遭ったの?……それも親衛隊の管理下に移動させることが意味を持つ、元帥の命がかかっている、貴女、親衛隊長を敵に回したの?」
親衛隊長が聖チイティヴィヨールティの意思を忠実に実行すると考えたら、ナターシャの推測はほぼ正しいです。ただ敵に回したというよりは、確実に首輪を付けにきたという方が正しいでしょうが。
「敵には回してません。ただ向こうは確実な保証が欲しいみたいで、それに貴女とローザを当ててくると思ったんです。……すいません、貴女達を巻き込んでしまいました」
「……私は貴女達の成功を信じているから、いつかこういうこともあるんじゃないかと思ってはいたけど、まさかもうあるとは思ってもみなかったわよ。……それで、貴女は、私にどうしてほしいの?」
彼女は私の眼を覗き込みながら寂しげに微笑みました。
成功するとは、友達を犠牲にすることに値するでしょうか。『自分は無実だという信念のせいで、多くのボリシェビキが無力化していた。彼らは、有罪の者だけが逮捕されるという論理を自分に言い聞かせ、自分は無実だから安全だと根拠もなしに思い込んでいた。エレーナ・ボンネルは、生涯を通じて忠実な党員だった両親が友人たちの逮捕について真夜中に交わす会話を盗み聞きした覚えがある。……[中略]……ママは話しながら泣いていた。ママが泣くところは一度も見たことがなかった。彼女は「生まれてこの方」と繰り返し言って、すすり泣いた……パパが優しい声で宥めていたが、内容は聞き取れなかった。突然、ママが叫んだ。「スチョーパのことは生まれてこの方ずっと知っているわ。どういう意味か分かる?あなたより三倍も長い間、私は彼と知り合いなのよ。分かる?分かってるの?」またすすり泣きが始まった。……[中略]……「信じているのかどうか言ってちょうだい。こんな悪夢が信じられるの?」ママはもう泣いていなかった。「アガシの件は信じられる?……パーヴェルの件は?……シュールカの件は?……全部本当だと思ってるの?」ママは名前しか言わなかったが、何を言っているのかは明白だった。それから、ママは穏やかな声になって冷静に言った。「あなたが信じていないことを分かっているわ」。パパは懇願するような奇妙な声で答えた。「でも、ルファージャン[妻ルーフィの愛称]、信じないわけには行かないだろう」。しばらく間を置いて、パパは続けた。「ともかく、連中は君や僕を逮捕していないのだから」』。しかし、成功しなければ私の父に誰が注意を払うでしょうか。誰がシベリアから救ってくれるでしょうか。もはや、私は道徳的な二律背反に捕まってしまいました。父を救うために友を犠牲にするという生物学的には推奨されるだろう取引を行った形になったのです。父を救おうとしなくても聖チイティヴィヨールティは私を縛るために私の友を利用しようとしただろうなんて言っても無駄なこと!広い目で見れば意識してなかったとしても、間違いなく私はカリーナ的定義な利己主義者として名前と友を売って父を買い戻そうとしていました。私はカリーナに彼女は利己主義者に見えないのになんで全ての個人は利己的な経済学的合理人だと信じられるのかを問いかけましたが、他人のことは言えませんでした。私は生物学的優位性を信じた上で友を売って父を買い戻すという正直な取引に心を痛め、父を諦めて私自ら子供を産んだ方が生物学的優位性があるだろうという事実から目を背けています。私の内心は生物学的優位性を信じた上でなお、『歴史の掃き溜め』へと行くだろう性質を維持し続けました。
ともかく、もう友を売ってしまったのです。あと出来ることは最大限にそのことを利用することだけです。それだけが失われたものへのいたみになるでしょう。
「……ナターシャ、私のための犠牲になってくれませんか?私は聖チイティヴィヨールティにお願いして、こちらに来る旅行者にメドベーチグラード人民の家族がいるか確認して、いた場合には亡命者として受け入れることの出来る権限を持つ内外家族再会本部の長となったのですが、この職につく者はスパイを中に引き入れられることやそもそもお茶会に参加した私がその場で無茶な要求をしないようにという親衛隊長からの牽制でこうしてきたのだと思います。撤回も拒否も出来ません。私には家族が外にいるのです」
私の言葉を聞いた彼女は寂しげに微笑みながら頷きました。
「『日常生活の喜び。朝、目が覚めるとともに自動的に頭に浮かぶのは、昨夜逮捕されなかったことについての神への感謝だ。連中が昼間に逮捕に来ることはない。でも、今夜何が起こるかは誰にも分からない。ラフォンテーヌの子羊のようなものだ。どんな人も、逮捕されたり、どことも知れない場所に流刑されたりする容疑を免れない。私は幸運だ。私は完全に平静だ。どうなっても驚きはしない。だが、大多数の人々は完全な恐怖の中で生活している』(リュボーフィ・シャポーリナ)。私は幸運よ。私の犠牲は私と貴女だけのものではない。無意味なものでもない。貴女がそうしてくれるのでしょう?4人の中で私だけが家族をすべて喪失したのだから、私が行くべきよね。今夜何が起こるかは誰にも分からないけれど、想像よりもましだったわ。安全という意味ではむしろ強化されるでしょうし。流刑にされても会いに来てくれるのでしょう?私が行ったら、ローザは助かるのかしら?」
私は彼女の言葉を聞いて、また泣き出しながら彼女に抱き着きました。この期に及んで真実を語ってないことに、彼女が微笑みながら受けてくれたことに、たまらなく心が震えてどうしようもなくなったのです。いつか真実を語りたいと思ってしまいましたが、それは出来ないでしょう。墓の下まで私の後悔は一緒についてくるでしょう。それもまた神からの罰のひとつだと思ってます。
「わかりません。こうしょうをしてみますので、そのためにあとでてがみをかきますから、とうまでもっていってみてください。ありがとう、ございます。あなたのぎせいはかならずいみのあるものにしてみせます」
彼女は困った顔で私を抱きしめながら答えました。
「まぁ、犠牲と言っても私にとって親衛隊の管理下に置かれてもやることは印刷だけなんだから、作業場を用意してもらえれば引っ越すだけよ。私が仕事に他のなにものをも関わらせたくないというスタンスで仕事して、仕事に必要なものは全て作業場において作業場の中にいるときも外にいるときも鍵をかけているのは、印刷業で何か問題が起きた時に家族を巻き込まないための父から受け継いだ方法だったのだけど、そういうのは防げないわよね。……あーもう、泣き止みなさい。
『信ずるに足る私たちの国、
この国の生活は何と自由なことか!
愛するソヴィエト、輝かしい祖国、
ソヴィエトの生活は明るく楽しい。
将来の子供たちは
夜中のベッドで嘆くだろう。
私たちのこの時代に生まれなかったことを』
こんな素晴らしい国にいて泣いているのは罪よ。ほら泣き止んで、今は休憩して最高の仕事を仕上げましょう?」
「そんなかんたんになきやめたら、さっきもあんなにくろうかけませんでしたよ!」
「仕事の話はやめて楽しい話にしましょう。そしたら泣き止めるわよ。しばらく会えないかもしれないなら、今のうちにたくさん話しておきましょう。今度会う時は4人そろって素敵な話をたくさん用意しておきましょう。話したいことはいくらでもあるでしょうから。それで貴女の素敵な人にはいつ会えるのかしら?」
「それはうわさばなしだっていったじゃないですか」
「あら、私が言ったのは貴女のお父様のことよ?やっぱりちょっと意識しちゃったりしてるのかしら?」
「いつっていってるんだから、ぜったいあうときをきめられるほうだとおもうじゃないですか!いつかなんてわかりませんよ!いしきしたりなんかしてません!だいたいさいきんはいそがしくてあえてすらないんですよ!」
「じゃあ、今度会った時から恋が始まるのね。素敵だわ。式をやるならぜひ私も行けるようにしてね?」
「はじまりませんし、やりません。いつかつきそいにんはおねがいしますね」
それからも他愛のない話を時間が許す限りして、私は心に痛みを抱えながらもしばらく会えないだろう彼女との時間を楽しみました。