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夏のガチョウあるいは鳥なき里の

引用元の表記は活動報告で

『農民が予期せぬネップの廃止に驚かされたのに劣らず、指導部自身も、コルホーズへの農民の予期せぬ殺到に驚かされた。しかし、驚きから立ち直ると、指導部は新しい理論を創り出した。それによれば、社会主義建設はその「第3の」段階に入りつつあり、市場の必要はもはや存在せず、クラークはここ数年の間に階級としては一掃される、というのである。

実際には、これは新しい理論ではない。これは一国社会主義という古い理論であり、単にそれが「サードギア[最高速度]」に切り替えられたにすぎない。以前われわれは、社会主義が遅れたロシアでは「亀の歩み」で建設され、しかもクラークが無痛のうちに社会主義を受け入れるだろうと教えられた。今や亀のテンポは、ほとんど飛行機のそれに置きかえられた。クラークはもはや社会主義を受け入れるのではなく――このようなテンポではできるわけがない――単に行政命令で一掃されるのである。 

クラークの一掃は、それを真面目に受け取るならば、明らかに最後の資本主義的な階級の一掃である。クラークの土台がなければ、仲買人や投機者や都市のネップマンは経済的に生きていけない。まして、階級としてのクラークの一掃という公式の綱領が都市の小ブルジョアも対象に含めたものであるだけになおさらである。農民を一人残らず社会主義的経営へ編入し、これをクラークの一掃で補完するならば、それはソヴィエト連邦をここ2~3年の間に無階級社会へ変えることを意味する。階級がない社会には、もはや統治権力も必要なく、まして独裁のような中央集権的な形態の統治権力は必要でない。新しい路線を支持する若手理論家の一部がすくなくとも農村のソヴィエトを廃止して、それを単なる生産機関に、すなわちコルホーズ管理機関に置きかえるよう主張したのも不思議ではない。しかしながら、この「理論家」たちは、「独裁はまだ長期にわたって必要だ」という断固たる声明によって上からたしなめられた。しかし、1~2年後にせまっているクラークの完全な一掃のあとで、なぜ何のために独裁が必要なのかについては指導部は結局のところ説明しなかった。そして、これは偶然ではない。なぜならば、説明するとしたら、農民の荷馬車と犂とやせ馬の集団化によってクラークをいっきに一掃するという綱領は、理論的いかさまによって味つけされた官僚的冒険主義であるということを指導部自身が認めなければならないであろうからである』。 (トロッキー 『ソ連経済の新路線--経済的冒険主義とその危険性』志田昇 訳)


共産主義社会ではすべての人民が豊かになる

共産主義社会では富農クラークは人民の敵である

富農クラークとは豊かな農民である

よって共産主義社会ではすべての農民は人民の敵である

 

 5ヶ年計画の特別4半期においてモスクワ近郊の森林を開発することが決定された。

 この措置は農業の集団化を逃れて都市に流入する農民を森林開発に投入することにより、都市の治安が悪化することを防ぎ、さらには革命の首都モスクワの驚異的住宅難(1人当たり平均住宅面積5㎡)を緩和するために行われた。

 この事業に投入される人間は100万人にも達したが、十分な量の住居、斧、食料は支給されず、人々は年齢と性別により分けられた作業集団へと分断され、家族と連絡を取り合うこともできなくなった。

 武装した監視員が常駐している事実上の巨大な強制労働収容所が森の中に現れ、冬将軍が人々の運命を凍り付かせようと手ぐすねを引いて待っていた。




 氷点下の森の中に突然開けた空間があり、5階建て総コンクリート製、各階大部屋2小部屋5、ガストイレ水道風呂電気無し、1人当たり住宅面積20㎡、1棟当たり200人居住想定の共産主義的共同住宅が林立していた。


「同志軍高級官僚殿に同志教導師団政治委員殿、随分遅いご到着ですね。今日の会合は月明かりの下で行われるのかと思いましたよ」


「同志アデリーナ、今日の重要性を考えればむしろ今日の会合を開けるということに感謝するべきじゃないでしょうか」


「私は政治委員殿と違って塔の兎たちに軍の状況を説明し続けるという苦行を味わってきたんですが、政治委員殿はまず私に感謝するべきだと思いません?」


「もちろん感謝してます。でも、私は塔で自由に動けませんのでしょうがなかったんです。それに私の仕事は師団行政であって、貴方のように軍全体の行政ではないので、やっぱり貴方の仕事じゃないでしょうか?軍の兎殿」


「政治委員殿も塔の兎たちが知りたい情報は把握しているんだから、職責にこだわらず手伝ってくださいよ。交渉決裂時に教導師団に連絡を入れるのは政治委員殿じゃなくても問題ないでしょうに。どうせその後軍令待ちなんですから。」


「……そろそろ、中に入りません?同志ミロスラーヴァ、同志アンナ」


「そうですね同志カリーナ。続きは中でやりましょう。教導師団長殿もすぐに来るでしょうから今日の会合が始められますね」

 私、アデリーナは今日の会合が無事始められることを神に感謝していました。それは少なくても赤軍の即時侵攻が無いということを意味しているように思えたし、思いたかったからです。だから私は独立交渉の成否を聞かなかった。少しでも長く思っていたかったから。




 寒々とした暗闇が広がる大部屋で薪ストーブの中からの暖かな光だけが私たち5人を薄暗く照らしている。私たち5人はめいめい毛布に包まり、飲み物とパンとカルパスを手にしていました。

 教導師団長イリヤ・グシンスキーがおもむろに乾杯の音頭を取った。


「我らの偉大な父とその愛娘と我らが新しい都市、そして夏のガチョウたちに」

 

 私たちはその言葉を受けて杯を乾かしたが、軍高級官僚ミロスラーヴァ・クーツェンは杯を乾かした後に抗議しました。


「何でみんな紅茶で乾杯しているんですか?普通ウォトカもしくは蜂蜜酒、譲ってクワス(東欧の伝統的な微炭酸微アルコール飲料)を飲むべきだと思いません?」

 

 各人答えて曰く、「ロシア人の常識を押し付けるのはやめていただこうか」とイリヤ。

「今夜こそ危険ですから酔っぱらうのは避けておきましょう」と教導師団政治委員アンナ・グシンスキー。

「……こんな素晴らしい夜に、酔っぱらうなんて、もったいない」とカリーナ・レプス。

「もし、ウォトカを飲むことがそんなに素晴らしいことなら、その生物学的優位性によって私たちは全員ウォトカを飲んだはずです」と最後に私、アデリーナ・ワインスタイン。


 私たちの言葉を聞いてにっこりと笑ったミロスラーヴァは私たちのカップにティーポットから紅茶を注いで乾杯の音頭を取った。


「我らの偉大な父とその愛娘と我らが新しい都市メドベーチグラード、そして私の仕事を手伝ってくれずに、我が故郷ロシアの風習も尊重してくれない薄情な夏のガチョウたちに」

 

 ロシアでは乾杯するたびに文字通り飲み干さなければならないという風習があり、酒豪の方々は何回でも乾杯を重ねるので泥酔者が続出するのですけれど、私たちが紅茶を飲むことでそれを回避したことに彼女はお冠のようです。特にイリヤは教導師団の掌握の為になみいる古強者どもを片っ端から酔いつぶした酒豪ですから。

 

 彼は軍高級官僚であるミロスラーヴァの主導により教導師団長になったのですが、彼女は教導師団の設立を主導したことにより教導師団にかかりきりになり、さらに軍高級官僚としての彼女は軍政担当だったことから、これから彼女の子飼いとなるべき教導師団に軍令を出す権利を持てませんでした。しかも実際に教導師団を掌握しているのはイリヤで、それを牽制できる教導師団政治委員もその妹のアンナを彼女が推薦したことから、教導師団はイリヤの子飼いの師団になりました。


 これで彼女は自分で作った師団を取られた間抜けになったのですが、もちろんモスクワで高等教育を受けたことを誇りにしている彼女が間抜けなのではなく、彼女は間抜けにならければならなかったから、そうなったのです。





 労働収容所での聖チイティヴィヨールティを神輿に担いだ反乱は、彼女が16歳の女子だったという歴史的偶然性(もしくは生物学的必然性)から、16歳から22歳の女が最初に参加したものになりました。

 聖チイティヴィヨールティには物質を生み出すことの出来る加護(もしくは能力)があったことから、私たちは銃とトラックで武装して数的優位と奇襲によりソビエトの監視員を撃破しました。

 いくら武装していたとはいえ100万人を管理するのに3千人しか監視員がいなかったのは正直どうかと思わなくもありませんでしたが、聖チイティヴィヨールティがいなければこんな大規模な反乱は起きなかっただろうことを考えると、これは共産党が無能であるというよりは不運であったということなんでしょう。


 監視員を撃破した後に聖チイティヴィヨールティは塔を建設し、塔の上から視界を確保することにより、一辺50kmの正方形に高さ30m幅30mの総鋼鉄製の城壁を建設することでその内部の空間を隔離し、新しい都市メドベーチグラードの独立を宣言しました。


 さて、反乱がとりあえず成功したので統治と防衛の時間がきたのですが、そのための機構、つまり私たちの上部構造は、もちろん生産諸関係の総体、つまり私たちの下部構造によって規定されます。

 ですので、生産諸関係の総体そのものである聖チイティヴィヨールティ(私たちの生活に必要な物資で彼女が創り出していないものはほとんどないので彼女こそ生産諸関係の総体です)が私たちの上部構造を規定できたのですが、彼女はこの時点で塔に籠り統治から手を引いてしまいました。

 その結果として、私たちの上部構造は極めて歴史的偶然性の強い体制から始まりました。反乱に最初に参加した16歳から22歳の女が権力を獲得したのです。

 まず、私たちは自らを解放しました。次に私たちは男たちを解放するグループと母親と子供たちを解放するグループ、塔に残るグループに分かれて行動しました。男たちを解放するグループからは軍が形成され、母親と子供たちを解放するグループからは都市管理委員会が形成され、塔に残るグループからは親衛隊とそれぞれの組織の司令部が形成されました。

 どの組織においても私たちは権力を確保していました。私たち以外は後から組織に組み込まれる以上当然と言えば当然のような気もしますが、それでも指導階級を若い女性が占めている社会なんて知られてないので、この体制は一時的なもので速やかに壮年の男性が私たちに取って代わるのだと思っていました。そうはなりませんでしたが。


 まず軍が城壁の守備の為に分散配備されましたが、これで子供を除くすべての男性が中央から距離を置くことになりました。次にソビエトの侵攻に備えなければならなかったうえに、家族の安否確認の方が大事だったために男たちには政治的な行動を起こすことが出来る時間的な余裕がありませんでした。そして軍司令部によって制定された軍制の中に取り込まれてしまいました。

 軍は階級として現場指揮を統括する師団長、物資管理を行い都市管理委員会内にて議席を持つ師団政治委員、そして10人規模を指揮する小隊長を基本として導入した上で配備、待機、休暇をそれぞれ昼夜間を区別して6交代制により各師団が任地を防衛することを定めました。ここまでは問題なかったのですが、各組織の司令部は女子階級独裁理論の正当性を確認し、相互に男性を責任ある地位につけないことを申し合わせました。

 この時点で人を率いる立場にいた人は理由はともあれ権力を愛することが出来て女子集団の中で優秀な人である可能性が高いので、彼女たちは指導階級を若い女性が占めている社会なんて知られてないことを知っていることから結束して対処しなければ優秀な男性(おそらくは壮年の)に取って代わられてしまうことに気付いていたんでしょう。

 それに収容所生活の時に年齢性別で分断されていたことから女子同士は知り合いのネットワークでつながりやすいのでお互いに信頼しやすかったり、連絡が取りやすかったりする利点があるということも司令部にとっての責任ある地位に女子をつけることを促進する動機になったことでしょう。

 そして私たちに女子階級独裁理論(一生の内に男性が産ませることのできる子供は千人を超えるのに女性の産むことが出来る子供は百人に満たないという非対称性により、共産主義下では若くから多産で女性をたくさん産む血統が生物学的優位性を獲得することが予想されることから、常に多数派であると予想される将来の女子階級の利益を擁護するために女子階級による独裁が必要とされます)がもたらされました。必要が理論を生み出すのか、必要とされている理論だけが生き残れるのかは知りませんが、このアイデアはまさしく私たちにとって生き残るに値するもので、これをもたらしたことが軍高級官僚としてのミロスラーヴァと私たち夏のガチョウクラブの一歩目でした。

 私が書いた『共産主義のネズミ』を見て彼女は女子階級独裁理論を思いつき、私を夏のガチョウクラブに誘って私が同じグループにいたカリーナを誘いました。そして彼女は軍上層部に航空機、戦車、砲兵、毒ガスを装備する大戦型軍隊の建設とその運用法のノウハウを獲得するための教導師団の設立を働きかけました。さらに彼女は女子階級独裁を提案したうえで各師団から各種研究をするために大学出身者と死傷率の高そうな初期の兵器運用ノウハウ獲得の為に反女子階級独裁運動を起こしそうな不穏分子を教導師団に編入することを提案しました。

 大学出身者と不穏分子をただ集めるとここで反女子階級独裁運動を起こされてしまうので、これを指揮できて信頼できる人間が必要だったのですがそれがイリヤでした。

 彼には男であることから女子階級独裁下でも男が高い位置につけることが示せる上に共産党員を殴るために女装して反農業集団化の農婦暴動(女性は殺されないだろうという推測から女性だけが参加)に参加するほどの反共産党主義者であり、彼のいた村で一番の酒豪であり、彼の妹のアンナとミロスラーヴァは同じグループで知り合いだったという利点がありました。

 教導師団の掌握のためには男の英雄が必要であるという観点から、彼に女子階級独裁理論から論理を逆転した男性階級優秀性理論(男女間で子供の数の性的非対称性があるのに現在子供の数を最大化させる性比ではなく男女がほぼ同数であるのは、激しい生存競争を勝ち抜くために男性がたくさん必要とされることを示すと予想されるので、そのことから男性の方が女性より優秀であることを提唱する理論です。これらは矛盾してません。プロレタリア独裁が資本家の優秀性を否定しないように)を提唱させて、男性階級の利益擁護者として認知させる戦略を展開することを私たちと軍上層部が同意しました。

 これが彼女が間抜けにならなければならなかった理由です。彼女は将来的には彼との偽装結婚を通じて教導師団に対する指導力を獲得するといってますけど、それは結局彼を通した間接統治には変わらないのではないかと私は思ってます。


「我らの偉大な父とその愛娘と我らが新しい都市メドベーチグラード、そして職責に忠実な夏のガチョウたちに」


 アンナが乾杯の音頭を取りましたが、ミロスラーヴァは短い時間でウォトカを立て続けに飲み干したことですでに少しふらふらしています。彼女は別に酒に強いわけではないのですが、ロシアの風習を尊重しているのか、いずれ将来の為に酒に慣れておこうとしているのかは分かりませんが、他の全員が紅茶を飲んでいる会合の時に頑なにウォトカを飲み、乾杯を強要するので乾杯が一巡する頃には既に夢見心地になっています。

 というよりアンナとカリーナと私で、彼女が連続してウォトカを飲むことを防ぐために毎回議論を始めることで乾杯の間隔をあける協定を結ぶことによって、何とか夢見心地になるだけに抑えています。

 今まではウォトカをいくらでも飲むことが出来る人は限られていたことから、このロシアの風習は続いてきたんでしょうけれども、いくらでもウォトカを調達できるようになった現在では、この風習を続けていると死者が続出するでしょうから何とかしなければならないかもしれませんね。

 それとも大酒飲み達が淘汰されていくんでしょうか。突然変異と淘汰が生物進化の原動力であり、それが私たちの神であること、つまり生物学的優位性を以ってしてありとあらゆる人間行動を説明し予測できることだけは知っています。しかし私は生物学の正規の専門教育を受けることの出来なかったただの――世界大戦でドイツ軍の捕虜となったことが原因(外国人と接触することは最も確実にシベリアへ行くための方法です。大戦後12年もしてから逮捕するのは遅すぎるとも思いますけど)で父親が逮捕されたときに自己批判し親子の縁を切らなかったことで人民の敵になった労働者――にすぎませんので私たちがどうするべきかはわからないのです。


 生物学はありとあらゆる人間行動を説明しますが、どうするべきかを教えてはくれないのです。それともほかに何かあるんでしょうか?


「教導師団が動き出してから5日になりますけど、航空で死者94名、戦車と砲で12名、ウォトカで68名、他7名、……このペースでいけば教導師団は1年で溶けますね」


「いや…いくらなんでもそんなことないでしょう。習熟状況はどうなってます?」


「航空はとりあえず飛んで帰ってこれるように、戦車はとりあえず動かせて、砲は誤差300m単位で射撃可能って感じですね。あと兄が大体酔い潰しましたし、これだけ死者が出てますから、とりあえず無理な速度で乾杯を続けてウォトカを飲みすぎる人は減ったんじゃないでしょうか」


「……誤差300mって事実上当たらないんじゃないですか?」


「毒ガス砲弾を面制圧の為に打ち込みますから当たらなくても大丈夫ですよ。ガスマスクでは防げない嘔吐ガス弾でガスマスクを外させてから窒息ガス弾で息の根をとめます。持続性のあるガスで通行不能帯を創り出す防御的な方法もありますけど、どちらにしてもこんな有効な兵器を禁止するなんて、ブルジョワ的人道主義は理解しがたいものですよね」


「ブルジョワは戦争がしたいんじゃなくて、利益を上げたい生物ですから、毒ガスでは利益が余りでないんじゃないでしょうか。割と現時点で完成されているので、戦車や航空機みたいに技術革新に伴う装備更新がなさそうですし。それに戦車や航空機なら、市街地を攻略する際に、市民を皆殺しにしないで建物を破壊するので、戦後復興需要に噛めますから」


「いや~私は、それよりも、コミ~ンテルンの陰謀、だと思いますよ、思いません?ブルジョワ的人道主義に、ブルジョワを、磔て、ソ連邦を守ろうとしてるんですよ」


 ミロスラーヴァはすでに3杯もウォトカを飲み干したので、ろれつが回っていません。もう少しすれば置物になるでしょう。でも置物になった後でも、話題が途切れるとせめて一巡するためなのか、まだ乾杯の音頭を取ってない人に音頭を取らせようとするので、厄介な置物ではあるんですよね。早く酒に強くなるか、ウォトカを諦めて蜂蜜酒やクワスに切り替えて欲しいものです。


「……カミンテールンの陰謀はともかく同志アンナ教導師団の方の明日からの市場開設の準備は大丈夫ですか」


 カリーナはネップマン(ソ連の新経済政策によって誕生した新興経済階級。二人の毛皮の外套や宝石をふんだんにあしらわれた美人を愛人として外車に乗せて走っている風刺画が有名)の父を持ち、経済学の高等教育を受けた人民の敵です。

 ですが彼女はマルクス経済学でも、レーニン経済学でもなく、市場を熱烈に崇拝したので、彼女の両親がシベリア送りになった時に彼女もブルジョア経済学者として追放されました。


 彼女が市場を熱烈に崇拝しているのには、彼女の父親がネップマンであることが関係しているようです。個々人の利己的な行為が市場を通じて結局は利他へと転換されるということが、彼女に市場を崇拝させました。だってそうでしょう?誰が親を悪く言うものですか。それに彼女は両親を誇りに思っているようですからなおさらです。


 私が彼女と知り合いになったのは、偶々労働収容所内で同じグループに属していたからですが、速やかに私と彼女は論敵になりました。

 彼女は全ての人間は利己的であり、市場によって利他へと転換されると説きました。

 私はそれに納得せず、生物学的優位性からみて利己主義はありえず、利他主義も血縁主義に勝てないことから、市場によって利他へと転換される場合には、長期的に見て市場は維持されないことを主張しました。

 生物学的優位性からみて利己主義がありえないのは、極めて単純に利己主義者には子供に投資するよりも、自分に投資した方が利益が大きくなるからです。利己主義者が子供を愛する選好を持っていた場合には、子供に投資するだろうという反論がありそうですが、それはないのです。その選好を持っているものは血縁主義者と呼ばれるのですから。

 そもそも論からして、自分に投資した方が子供に投資するよりも利益が大きくなる者を利己主義者と呼んでいるのですから、この議論は転倒しているのです。

 つまり彼女が市場を通して救おうとしていた彼女の父親は利己主義者ではなく、彼女が産み育てられていることから、ただの血縁主義者ということになります。


 ということで、彼女に全ての人間は利己的でないことに納得してもらいましたが、問題は、ならば何故利己主義者(腐ったインテリよりも悪い恐らく唯一の罵り言葉)という言葉が生き残り、他者を攻撃する言葉として使われているのかということでした。


 私には答えられませんでした。


 ここから彼女は利己主義者の存在証明を試みはじめ、私はそれを阻止しつつ、『共産主義のネズミ』の執筆作業に入っていました。そして私がミロスラーヴァに夏のガチョウクラブに誘われた際に、私は彼女も誘いました。

 彼女は彼女で、ビラを作り周囲の人間に市場の創設を訴えていました。ビラによれば、メドベーチグラードはソ連に対して、人口比1対159で劣り、技術力で劣り、土地生産性で劣っている(この土地の生産性が良ければすでに開発されていたはずである)ので、ソ連と同じように中央統制経済を導入すれば、必ずや労働生産性で劣ってしまうから、再併合を避けるためには市場主義を導入し、その優位性に賭けるべきであるという主張でした。


 私にはその主張の成否は分かりませんが、私にとって重要なことは市場には中央統制経済と比べて有能な中央機関が必要ないということでした。


 夏のガチョウクラブには5人しかいないのに、教導師団には1万人もいるのです。これだけの人間の選好を満たすことは、中央統制経済では難しいですが、市場主義ならば彼らが個々人の努力で個々の選好を満たしてくれるでしょう。さらには、市場主義ならば教導師団外からも人を雇って、市場の運営に参加させることが出来ます。


 というわけで、教導師団の運営に市場を用いることが決定し、彼女が市場の設計と運営に携わることになりました。


「もちろん。建物と物資は用意して、さらに告知と仕事の希望の確認もしてますけれど。何分明日は初日ですから問題はまぁ起きるでしょうね。あと今更ですけど何でルーブルでもチェルボネツでもなく、労働点数制にしたんですか?」


「……ルーブルもチェルボネツもチイティヴィヨールティに願えばいくらでも用意できてしまうから。……市場の安定性を守るためには多少の不便や手間の増加は必要」


「労働点数制にすると、今度はギルド職員の不正が問題になりそうですね。あとこれも言っときますけど、何で市場管理組織を、教導師団ギルドなんて前時代的な名称にしたんです?」


「……ギルドは組合よりも響きがいいかなと」


「それは組合の評価を下げすぎてますよね」


「……組合は『党の希望の支柱』だから市場主義にそぐわないかと」







 こうして夜が更けていきます。ミロスラーヴァが寝るかウォトカを分解するのに十分な時間がたてばいいんですけど、それまでは議論を続ける必要があります。

 イリヤはさっきから一言も発していませんが、彼は5人集まっているときには話を振られないと話しませんし、彼が話すとミロスラーヴァと口論になる場合が多いので、彼にはかわいそうですが、話は振れないんですよね。


 ともかく、明日も素晴らしい一日になりますように。


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