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部屋に帰って驚いたのが、向こうの六畳間のほとんどを占領するベッドに、人が寝てないことだった。
普通とは逆の感想に戸惑いながら目を落とした玄関スペースには、昨日脱がせるのに苦労した男物のブーツが散らかったまま。
て、ことはまだ部屋の中にはいるってこと?
疑問に答えるようにトイレのドアが開いた。
「……」
目が合って、互いに無言。
そりゃね、気まずい。
あっちにしてみれば、目が覚めたら見知らぬ部屋にいて家主は不在で、鉢合わせてみたらわたしみたいな女なんてさ。おまけに体を拭くときにシャツを脱がせたから、彼は上半身裸の状態。
意識のある男性の半裸、っていうのにたじろいじゃって、わたしがなんて言っていいものか思案してるうちに、彼は動き出して、部屋にもどって、布団にもぐった?
おいおいちょっと待たんか。
慌てて追いかけると、どんな神経してるんだか、出勤前に見たようなのと変わらない我が物顔で彼がベッドに寝ている。
「なんで起きたのにまた寝てんの?」
第一声にはあまりにも間抜けなわたしの質問。それでも答えるべきだと思うのに、男は聞こえてないみたいに無反応。
「……」
そういえば店に来るときも、タバコの銘柄以外は一切話さない、この人。でもここ、店じゃないから。バーコードだけですべてを読み取るハンドスキャナじゃないから、わたし。あなたの意思をわたしに示してもらえないだろうか。あ、無理そう?
スマホも家出から戻ってきたことだし、当初の予定通り救急車にご退場願おう。それがいい。わたしはそう決意してスマホを手に取る。
だけど鏡みたいな液晶はいつまで経っても沈黙したまま。
……あ、充電きれてんだ。
引っ張り出した充電器に繋いだスマホで今度こそ通話アプリに数字を打ち込んだ――はずなのに、画面は「シャットダウンします」なんてメッセージが現れたと思ったら鏡面に逆戻りしていた。
「……は?」
壊れた? なんて固まって、ようやく充電の赤いランプが点いてないことに気づく。充電コードをたぐっていくと、しっかり差したはずのプラグがコンセントから外れてる。
「……なにしてんの?」
電源をはずした犯人――タバコ王子――いや今は判断力低下の風邪っぴきか。男に質問する。
わたしは奇行に対する弁解を求めていたんだけど、彼は言語能力を一時的に失ってしまったらしい。もしくは寝入ったとも言う。
「ちょ、寝んな、起きろ」
強めに体を揺すっても無反応。なのに握りしめたれたプラグは指が開かないから奪還も叶わない。あの細身と体調不良のどこにあんな力があるわけ?
なんなの、マジで。
わたしは無いよりマシと思ってパソコンのUSBから電源取れるプラグを引っ張り出した。捨てようかと思ってた試供品がこんなとこで役立つなんて。
とはいえパソコン経由の充電には焼け石に水くらいの馬力しかなくて、今すぐどうにかできるわけでもないし、何よりモチベーション的なところがはっきりと霧散していた。
「はあ……」ため息ひとつ。
スマホを放り出してコートとマフラーを脱ぎ捨てる。
夕飯どうしよ……なんてぼんやり考える。
「なあ、アンタ。チグサ」
「は?」
狸寝入りか、おい。
いやそんなことより今名前呼ばれた?
そりゃ何度か接客してるから知っててもおかしくないっていうか。でも、知ってたんだ。……意外。
なんて思ったのに、こけた自分のカバンからバイトの名札が顔を出してたんで、なんてことはなかった。
「なんですか」
「俺さ、なんでアンタの部屋にいんの。シャツ着てねーし」
気だるげだけど意識はすっきりしてるみたい。それでも布団に転がったまま聞いてくる男に呆れながら、わたしは中身の飛び出たカバンを片付ける。
「公園で倒れてたから連れてきたの。シャツは体拭いたから。今洗濯中」
あ、洗濯機から取り出してこなきゃ。さすがに一晩も入れてれば、いくらうちの洗濯機の乾燥モードがサボりがちだからって布団も乾く。
そんなことを考えてたら男のうろん気な視線とかち合った。なんですか、その目は。
「……変なことなんかしてないから誤解しないでよ」
「十分変なことだろ。見知らぬ男を一人暮らしの女が部屋に連れ込むとか」
「仕方ないでしょ、それしかなかったんだし」
結果論だけど、公園にいたまま救急車を呼ぼうとしたところで、その場にスマホがなかったんだから、どっちみちこの状況になってただろうし。
それにあの場で見て見ぬふりして、人殺しの片棒を担ぐほど薄情なつもりもない。
つーか連れ込んだわけでもないから。看病って言って。
「……変な女」
理解できないものを見るような顔でわたしを見上げるあんただって、十分変。
普通、もうちょっとうろたえないか。見知らぬ女にお持ち帰りされてるんだよ?
そこまで考えて、それって全部男性がした場合の彼らの感想だってことにようやく気づく。
女のわたしが取った行動にしては危機感に乏しい迂闊な愚行。「襲ってください」なんて舞台を自分でせっせと作り上げてるんだから。
そういう意味で、目の前の男はとても理性的かもしれない。
まあそれより第一、わたしの女性偏差値に問題があるとも言える。外見はどうであれ、中身は恥じらいを切り捨てたオヤジ女子。警戒心もなく簡単に男を部屋にあげる女にドキッとする男がいるわけない。
何より、相手は日本の男の上位数パーセントに入るような極上のイケメン。わたしに対して過ちなんか起こすわけない。
きっとわたしの「愚行」は、そういう無意識の結論に安心感があったから。
まあでも、意識が戻ったんならこの部屋に彼がいる意味はない。つーか、いるべきじゃない。
「電源コード返してくれない? 救急車呼ぶから」
わたしは色気なんて一ミリも感じさせない動作で手のひらを突き出した。
果たして今のこの男に病院が必要かどうかはおいといて、知り合いでもない男をいつまでも部屋においておくほど非常識じゃない。さすがにわたしにもそのくらいの分別はある。
それに、あれだけ熱が高かったんだから一度診察を受けるべきだって。
けど目の前に手を突きつけられた彼は、無言。おもしろいカッコのわたしをじっと眺めるだけ。
「やだ」
「やだって」
ぷい、とか顔背けてもダメだから。いい年した男がしちゃいけない仕草だから。……いや、いたたまれないことにね、かわいいんだけどね。イケメンのかわいこぶりっこ。
でもそんなことはどうでもよくて。
「元々そのためにここに連れてきたんだって。倒れてたの見つけちゃったから通報くらいするけど、そのあとのことにはわたしは責任とれないし、とらないから」
そもそも、普通はさっさと自分の家に帰りたいところだよね? お世話になったとはいえ赤の他人の家に居続けるなんて、わたしには無理。
不思議に思いながら、いつまで経っても男に反応がないのにもどかしさも生じ始めていた。
あともう何秒かで爆発するはすだったわたしのかんしゃく玉は、彼がのそりと体を起こしたことで静まることになる。
上半身を起こすだけでも彼の背が高いことがよくわかるほどの迫力だけに、本能的に警戒心が沸き起こるわけで。
「チグサって名字だろ」
「……そうだけど」
脈絡はまったくないけど、彼の言葉はわざわざ無視するようなものでもない。わたしはカバンに仕舞った名札を取り出して、彼が読めるように示してみせる。
スーパーのロゴが入った白い名札には、味気ないゴシック体で「千草」とだけ印字されている。
使用感でところどころ掠れたそれを眺めて、喉になにか引っ掛かったような不快感にわたしはつい眉値を寄せた。
「細かいこと言うようだけど、チグサじゃない。チクサだから」
一夜限り……って言い方だと大いに語弊があるけど、金輪際こんな付き合いにはならない人に訂正したところで意味なんかない。わかってても、「チグサ」と呼ばれるのは嫌い。茨城県民が「いばらぎ」と言われるのが嫌なのは、他県民にはどうでもいいことだけど、彼らにとっては大事な問題。
案の定、彼は大して興味もないように「ふーん」と言ったあと緩慢に瞬いた。
「じゃあ、チクサ。しばらくここ住まして」




