1-03
わたしの記憶の中にある季節は、街が華やかに染まる、恋人たちのための十二月。例年より少し寒いくらいの真冬だったはずなんだ。
「あつい……」
まかり間違っても、そういう感想で跳ね起きるような気温じゃない。
じっとり汗ばむほどの暑さにたまらなくて布団をはね除けようとした。なのに払おうとした腕は何かに縛られたように動かない。
え? おかしいな。
やっと重たいまぶたをこじ開ける。視界が効いたところで、わたしの頭は「?」で埋め尽くされた。
目の前に迫る秀麗な顔。目の前って、ほんともう文字どおり目の前。おでここつんの距離。正確には「目と胸の先」だ。
腕は相変わらず自由がきかない。確かめたら腕だけじゃなくて足と腰に、なんなら首もだ。大きな手のひらで頭抱き込まれて動かせない。……いや、これはもう固定されてるって言った方が伝わりやすいかも。
ひととおり自分の状態を確かめたあと、やっと回りだした頭が悲鳴をあげる。
えー、ちょっと待ってよコレどーゆー状況? わたし寝るときベッド寝てなかったよね? 知らない男とベッドインなんて迂闊なことはしてなかったよね? あと寝相が悪かったわけでもないはずだ、いつも寝たまんまの体勢で起きるもん。
一気に思考して、どうやらなんらかの原因で王子に抱き込まれてるってことを認めることにした。夢の続きと思い込むにはこの体勢は無理がありすぎた。生命の危機、っていう点で。
「離して……ってば……」
彼の熱との相乗効果で、いい加減布団の中の温度は人間が休まるには覚悟がいるような蒸し暑さ。
それにがっちりホールドされた首は下に腕が通ってる。いわゆる腕枕みたいな状態だと思うんだけど、これってかなりキツイんだね。筋ばった腕は、枕にするほどやわらかくも大きくもなくて不安定。首、つりそう!
もがけばもがくほどなぜか強まる拘束と格闘しながら、わたしの中で世間のカレシカノジョへの尊敬がうなぎ登りにあがっていく。こんな試練を喜ぶなんて、もはやバカップルなんて言えないよ。
ていうか、なんでこれだけ暴れてるのに起きないの、この人?
甘いシチュエーションなんてものと、とことん反発する位置にいるらしいわたしは息も絶え絶えにそんなことを思った。
……ダメだ、ちょっと小休止。暴れた分ますます息苦しいし、抱きついた腕は締まる一方で逆効果。そろそろ内臓飛び出るんじゃないの……。
大人しくすると、依然として規則正しい呼吸をしながら眠る、彼の顔を観察できるようになった。
見れば見るほど感心するしかない、均整の取れた顔。日本人離れしたすっと通る鼻筋に、切れ長の目を縁取る長い睫毛。今は風邪菌のせいでガサガサに荒れて痛々しいけど、安心したように無防備にあいた唇は薄すぎなくて厚すぎない、ちょうど美的感覚のど真ん中。美人としかいいようのないきめ細かい肌は、寄越せって思っちゃうほどすべすべだ。触り心地よさそ。
誘惑に負けつい触ってみたくなって、拘束の中から腕を引っこ抜いたところで、変化に気づいた。
彼の腕からは力が抜けて、今なら簡単に振りほどけそう。
背中まで回った重たい腕を、彼を起こさないように慎重にはずす。今起きられたりしたらたぶんヤバい。わたしの社会的評価が。
サンドイッチされたみたいな複雑な絡み方の足をほどくのはもっと大変だった。
やっとベッドから脱出できたときには、わたしはもう息絶え絶え。なんで朝からこんな運動しないといけないの……。いや、世界は夕方っていうか夜だけ……ど……。
「え? 今何時!?」
周囲のマンションの間に見える、猫の額くらいしかない空の色を見て、わたしは慌ててパソコンを立ち上げた。
今は冬だから、起きたときに空が暗いのは仕方ない。だけど夕陽の切れ端が見えててもいいんじゃないの。
「……八時!?」
寝すぎた、完全に!
たとえ昨日……ていうか今朝、わたしが人一人の命に関わるトラブルに見舞われたとして、バイトのシフトには関係ない。
わたしは慌てて風呂場にかけこんだ。知らない男が壁ひとつむこうにいるとか言ってる場合じゃない。
バタバタ身支度整えて玄関飛び出す直前、小さな1Kを振り返っても、彼は起きる気配がなさそうだった。
迷う時間は一秒未満。
「いってきます」
普段絶対言わないあいさつを無意識に呟いてたことに気づかず、わたしは急いで自室をあとにした。
「あー、やっぱここにあったんだ」
終業後、更衣室の共用ロッカーを片っ端から開けてけば、そのひとつに見慣れたスマートフォンがしれっと寝転がっていた。
手に馴染まないそれを操作するわけでもなくパンツのポケットにねじ込んだわたしを、隣で制服を脱ぐ先輩が呆れたようにしている。
「ケータイ忘れて焦んねーのおまえくらいだよ。ああ、おまえこの店住んでたっけな」
OL並みにこの店に出勤してるわたしを揶揄した言葉に顔をしかめる。
「住んでねーから。あとケータイに関してはバヤシさんのが常習犯でしょ 」
「日に何軒店回ってると思ってんだ。忘れ物くらいしょーがねー」
「なに忘れてもいいけどケータイ忘れんな。うちらが巻き添え食うから」
この先輩は、この界隈の系列店を毎日二軒以上ハシゴして勤務するバイトリーダーみたいな立ち位置。地区の総括マネージャーの右腕としてこき使われ……大活躍してるのに、しょっちゅう携帯を紛失するから、血相変えたマネージャーから捜索の電話が店に入るのも日常茶飯事だ。
だからこの人にだけはケータイ紛失かどうのこうのとは言われたくない。
なんでこんな人が鬼マネージャーの信頼が厚いのかいつも謎。だけど、先輩が次に言った言葉に疑問は撤回することになった。
「つーかお前今日、落ち着きなかったな。珍しく」
自分のことには抜けてるのに、気持ち悪いくらい人の気配に敏感でよく気がつく。スーパーのレジだって立派な接客業で、先輩の客への気配りは見てて尊敬する。
細かいところまで丁寧な仕事は文句の付け所がない。そういうところがマネージャーに目をつけられたこの人の優秀さ。
「え、わたしいつも落ち着いてる?」
「つーか覇気がねえ」
「バヤシさんほどじゃない」
「あー。まあとにかく今日はそわそわしてんで見ててウザかったわ」
自覚はなかったけど、この人がいうならたぶんそうなんだろう。恥ずかしい気もしたけどこの人相手に恥じらうことほど馬鹿げたこともない。
それはさておき、そんな先輩にどう答えるべきか。まさか馬鹿正直に男子拾いましたなんて言えるわけない。
「えーと、猫を拾ってしまいまして」
「うさんくさ」
「だよね」
けどそれ以上追求する気もないみたいだから、わたしは制服のエプロンを使用済み篭に放り込んでさっさとかばんを取った。
「じゃーお先します」
「猫によろしくなー」
名札を胸に下げたまま、ヤル気なく財布を探してるらしい先輩に放り出されたケータイを尻ポケットにねじこんでやる。
「バヤシさんは名倉さんによろしく言っといてくださいよ」
どうせこのあと朝飯買って、食べたら別の店に移って勤務だろう先輩を茶化しながら、更衣室を出る。
お似合いだと思うけどなあ、あの二人。
後ろから聞こえたら気のない返事をつまんないな、って思いながら、わたしはいつもよりちょっとだけ早足で家に帰った。




