1-02
空のはしでカラスが泣き喚いてる。
昼夜の境をなくした蛍光灯の常世の城から一歩外へ出た瞬間、過度な明かりに慣れきった目が一瞬視界を暗く染める。ただ、時間を置いたところで真冬の朝イチは大差なく暗かった。
吐き出す息の白ささえ体に凍みる十二月。
「……さむ」
ぐるぐるに巻いたマフラーに目元まで埋もれるようにちぢこまる。マフラーの裏側にあくびを隠して、涙の浮かんだ目をこすりながら歩き出した。
日中は渋滞がデフォルトになる大通りも、早朝の今くらいはひとの気配がまばらで静寂が浸透している。バイト先の店の立つ区画から小路を二本ほどまたいだところで、一時停止の白線を踏みつけて生活道路に入り込んだ。通勤や通学の人たちとことごとくすれ違って住宅街の奥深くまで入り込んでいくと、いかにも人工的とわかるくらい木が鬱蒼とする場所に突き当たる。
マンションやアパートばっかり立ち並ぶこの辺りは、四季を通しても景色にあんまり変化がない。せいぜい植え込みや街路樹が色づいたり散ったりするだけだ。
そんな、自然を忘れた都心のオアシスがこの緑地公園というわけだ。昼間は小さな子ども連れのママ友や犬愛好家たちで賑わって、夜は雰囲気作りでいい仕事をすると評判の噴水広場がリア充たちの御用達。今みたいな早朝は、普段ならランニングや犬の散歩で多少なりともひと気があるけど、今日は一層寒いからか誰もいない。猫の子一匹……は、いるみたいだけど。
するりと現れて軽快な足取りで公園へ入っていくのは、暗いからよくわからないけど、ただの黒猫じゃなくてダークグレーの毛並みだった。特別珍しくもないのになんだか目を惹かれて、わたしは追いかけるように園内へ足を踏み入れた。……そもそも近道だから通るつもりだったけど。
とっとっと、と前をいく猫と反対にのそのそ歩くわたしは間もなく彼――なんとなくそんな気がした――を見失った。
「ざんねん」
マフラーの隙間からにじみ出たため息が白くたちのぼる。
ぼうっとその先の風景を眺める。冬の朝独特の霞がかった情景は、ただそれだけで心の隙間を冷やしていく。
冬は苦手。寒いし、人のぬくもりが恋しくなる。
普段徹底的に人付き合いをさぼりがちなわたしがそんなこと思ってもどうしようもないってわかってるから、尚更むなしくなったりして。
「どっかに話し相手転がってないかな……」
自嘲ぎみにつぶやいた都合のいいひとり言は朝もやに溶けていくはずだった。少なくとも「どさり」なんて重たい音にかき消されるはずじゃなかった。
「え?」
静寂だけがあるはずの早朝の公園に不安をかき立たせた音の正体に、わたしは目を丸くした。
噴水広場のベンチには、さっき視点を合わせたはずだった。その時にはまったく普段通りのよくある風景でしかなかったのに。
さっきの猫が人になって現れたんじゃないか、なんて笑ってしまうような想像さえする唐突な出現。
街路灯の明かりの届かない、暗がりの一脚に倒れた人影。まさしくあの猫が成り変わったみたいな暗色のコートとジーンズが四肢を覆う。けど、冬にしては薄着の部類だ。
「……まさかね?」
躊躇しながら抜き足で忍び寄る。
早朝の公園、それも無人なんてオプション付きのシチュエーション、いくら女っ気皆無のわたしだって警戒くらいします。それに、「こんな」のチープなドラマくらいでしかありえないと思う。
逃げ腰になりながら数メートルまで近付けば、異変はもう明らかだった。
「……っ……っ」
不規則に上下する体。荒い呼吸は風邪の症状に間違いない。
外でぶっ倒れる人、現実にもいるんだ……、なんて妙な感動。
無駄とわかってるけど熱も確かめた方がいいかと思って覗き込んだ顔に驚愕する。
「お、王子!?」
ひい!?
自分の出した大声に慌てて口を押さえる。辺りをうかがうと相変わらずひと気はない。……よかった。
現代日本で突然「王子」なんて叫んだらそいつはヤバイやつだ。
「げほっ……」
彼が苦しそうに咳き込んだのにはっとして、あらためて彼の額に手を当てる。
「あつい……」
凍てつく空気に冷えきったわたしの手は、彼の熱を奪ってあっという間に温まる。
つい数時間前まで健康体だったはずの彼とこんな姿で遭遇するなんて何時何分のわたしが想像しただろうか。ていうかなんで急にこの人風邪引いてんの?
「まさかあれからずっと外にいたわけじゃないよね」
口に出してみてあまりのばかばかしさにすぐさまその思考を却下した。
来店が深夜零時。今は早朝六時だ。
真冬の真夜中に公園でデートの待ち合わせ? そして待ちぼうけ? んなアホな。
だけど、彼の服や髪が冷えきってるのも事実。冷え症の手で触って冷たさを感じるって相当冷えてる。
「ねえ、聞こえる?」
軽く頬を叩いて呼び掛けてみるけど、やっぱり意識はないみたい。
とりあえず、どうしよう。救急車呼んだほうがいいんだよね。でもそうすると待ってる間寒い。この人も寒いし、わたしも下手すれば風邪コースだ。通報したら救急車来るまで付き添うくらいはしないとだよね。
ちょっと考えて、労働のあとでくたくたっていうのと眠気とで悩むのがめんどくさくなった。わたしは疲れてるんだ。
「よいしょ……っ」
なにこの生き物! ひょろ長いのになんでこんな重いの!?
四苦八苦しながら倒れてたのを座り直させて、三倍くらい苦労して背負いあげることに、どうにか成功した。
なんでこういうときに限って人通りがないのか……! って恨めしく思いながら歯を食いしばる。
バイト先では500mlペットボトル24本入り段ボールを二箱や、5kg米四つ入りコンテナを運ぶのが日常。大の男の一人くらい背負っていける。……はず。
家までは五分。だけどわたしは八時間の立ち仕事のあと。しかも連勤の後半で足はほとんど棒と変わりない。相手のタッパはモデル並で、標準的な身長しかないわたしの手には文字通り有り余っていた。
この真冬に二人して汗だくになってまで、知人ですらない人を世話してることにちょっとだけ「なにやってんだろ」って思いながら、わたしはやっと自分の家が見えたことにほっと息をついた。
雨風に本来の色よりやわらかくなったペールブルーの三角屋根。そのアパートの二階が当座のわたしの根城。いや、寝城?
それよりわたしの足が笑い死にして永遠の眠りにつきそうだよ。なんて冴えない皮肉を考えながらなんとかオートロックを突破する。憎たらしく立ちはだかる階段を前にして、わたしは背中の人を担ぎ直した。
「んー!!!」
腕も足も痺れてなんかもう意味わかんなくて、喧嘩でも売るみたいに一段目を踏みつけた。
怒りじゃないけど穏やかな何かでないことは確かな、意地とかやるせなさとか妙な達成感とかいっぱい色々ごちゃごちゃにブレンドされた感情がぐるぐるしてて、正直気づいたら二階フロアに立ってたことにすごく驚いてる。
握りしめたままの鍵は手のひらに食い込んで、すっかり手相の一部。震える指先はなかなか鍵穴をとらえない。
あきらめようかな、とか思ったところでドアが開き、ようやく帰ってきた部屋に挨拶する余裕もなく狭いキッチンフロアを横切る。
どうにか背中の荷物をベッドに取り落とせたことで、ほっとして力が抜けた。
「いや……、これは……ムリでしょ……」
整わない息でつぶやいた謎の言葉は我ながら意味不明。
今となっては暑苦しい、マフラーとコートをむしりとる。それだけなのに重力に意地悪されたような錯覚に陥るほどの疲労感。
あー、もう寝てしまいたい。
だって朝だ。世間にとっては起床の時間だけど、わたしにとっては真夜中。おやすみなさいだよ。
まぶたは勝手にとろとろ落ちてくるし、指先ひとつ動かすのだって億劫だ。
睡魔の甘い甘い誘惑にいっそ負けたくなったけど、どうにか寸でで留まった。拾ってきた犬猫の世話は責任もってやりなさい、なんて言葉がよみがえる。わかってるよお母さん。拾ったのは犬猫じゃないけど。
とりあえず必要なのは、水とタオルと体温計か。この部屋体温計あったかな……。
女子力ないなって我が事ながら呆れて苦笑して、取り出した新品のタオルをかたく絞った。コップ一杯汲んだ水を飲んでもらってから汗拭いて、体温計はそれから探そう。
脳内で計画しながらベッド際に座る。ところで、顔身体の造形がいいって罪深いですね……。
苦しげに眉根を寄せる王子には悪いけど、しばしじっくり観察してしまった。だってその様子ったら王子そのものなんだもん。
眉間をひそめてるのにまったく失われないどころか、フェロモン三倍増しの美貌。コートの襟ぐりからちらりと覗く、すらりと通った首筋に汗がにじんで、正直色気という点でわたしは惨敗だった。
自分のささやかすぎる胸の膨らみを見下ろせば「ふっ……」と笑いがこぼれる。いいさ、色気で腹は膨れないから。
「ちょっと失礼」
ワンクッション置いてから、彼の顔の横に両手をつく。
端から見たら、彼を押し倒してるように見えるかも。いや、色気皆無を確認したばっかでそんな暴挙には出ないって……。
「よっ……」
ベッドの淵を掴んだわたしは、思いっきり体重の重心を後ろに倒した。
人ひとりの体重ごと無理やり床面を起こされるかたちになったベッドは、断末魔にしか聞こえない金属音をたてながらふたつに折れる。スプリングがロックされる音が四回するまで背面に引き起こせば、ベッドだった赤い家具はソファーに早変わりしていた。
「もしかしたら初めてソファーベッドとして正しい使い方をしたかも……」
それはともかく、この人水飲めるかな。ぺちぺちと頬を刺激してみる。うわ、不快そうに眉間が寄ったけどただの美人なんだけど。
でも、反応があるってことは飲めそうかな。おそるおそるコップを口にあてがうと、少量の水は零れることなく嚥下された。ゆっくり飲ませながら、かすかに上下する喉仏の艶っぽさに感心しきりのわたし。ただ水を飲むだけなのにどうしたらこんなにセクシーになるんだろ。
全部飲み終わった彼は心なしかほっとしたように見えた。
そんな変化にちょっと嬉しくなって、彼の厚手のコートを脱がすのにもチャレンジしてみることにした。
どうせ休むんだったら窮屈なコートを着たままよりくつろげるような格好のほうがいいし。
……それにしても。
モデルみたいに画ぢからのある男でも、パートナーがちんちくりんだとここまで笑える絵になるんだな……なんて、パソコン画面の反射を見て知った。コートを脱がすのに、まるで抱きついてるみたいになってるのにそこに華はない。むしろ減退してるかも。
四苦八苦しながら脱がしきると、あまりの発熱に驚いた。この人よく生きてたな……。
もしかしたら肺炎くらいにはなってるかも、と危惧しながら濡れタオルで体を清めていく。っていっても、顔と首筋辺りに失礼したあと、ベッドに戻したところに転がして背中を拭くくらいしかできないけど。
肌はきれいにしてもたっぷり汗を含んだ服はどうにもできない。うちには男物の服なんかないから。
汗が冷えたのかちいさく震える彼に毛布をかけて、わたしはスマホを探した。救急車を呼ぶためにこんな苦労をしたんだから。
「あれ?」
肩掛けかばんの左ポケット。そこがスマホの定位置なのに、指先が触れるのはしおれた革の感覚だけ。
そういえば昨日の夜からまったく触ってないということを思い出す。友達関係はすっかり疎遠になって、迷惑メールからも見放されたスマホは今や、目覚ましと買い物のメモ帳という穀潰しに成り果てていた。
どこいったんだろう。
自分の部屋を見渡す。
必要最低限、という単語すらおこがましいような有り様。パソコンと小さな机、それに男ひとり転がしてもまだ余裕のある大きなベッド。目に見えるものはそれだけのがらんどう。たとえばティッシュやコスメ品みたいな日用品の一切が排除された空間が、この部屋。
まるでデザイナーズマンションのモデルルームみたいな部屋は、なくしものができるほど生活感はない。
店に忘れてきたかな。わたしが寄るとこなんて店と家でほぼ九割だ。
思い付いて彼のコートのポケットをあらためてみるけど、この現代だっていうのにこの人、スマホを持ち歩いてなかった。わたしは自分のことを棚にあげて落胆した。
彼には悪いけど、しばらくここで寝ててもらうしかないみたい。今から店に電話を借りにいってまた戻ってくるなんてとてもじゃないけどできそうにない。
身体は疲労しきってるけど、変なふうにアドレナリンが出たからかいまいち眠気がきてくれない。
手持ち無沙汰で、わたしはノートパソコンを引き寄せた。よく知りもしない男とひとつ屋根の下なのにシャワーなんて浴びるわけにもいかないしさ。さすがにそれくらいの危機感はわたしにもある。
ベッドのへりにもたれてキーを操作する。すぐにスリープモードから目を覚ましたウィンドウに、インターネットブラウザを立ち上げて動画サイトにアクセスした。リンクをいくつかクリックしたら、朝方には毒なハイテンションがスピーカーをがならせた。
「きっっっっったああー! これもうクリアワンチャンあるで」
しょ! って続くはずだったから慌てて消音ボタンを押し込んだ。
普段部屋に人を招くような生活をしてないせいで音量調整という行為を忘れてたな……。
音量を最小まで絞ってから消音モードを解除した。とたんに最小音量と思えない「大声」騒ぐ放送主のトーク。
「だから、ここでこのアイテムですよ。……はい、勝ったー。リスナー、やりましたよ、ナイス勘、俺! これはリスナーのGJじゃないですよ、俺の頭脳がいい仕事しました。……主の頭脳大遅刻、ってオイ!」
放送主が笑う。ゲームの実況放送らしいけど朝方でこのテンションって、夜から何時間やってんだろ。
素人がネット上でライブ放送できるこのサイトは、寝れないときなんかに見に来たりする。
朝方の放送は結構おもしろい。
大体は、この放送主みたいな徹夜組か出勤前のリーマン、学生の身支度実況。
実況中継なんて迫真すぎて聞いてるだけなのにこっちまで焦る。焦るけど、こんなことしてないでさっさといけよっていうネタ満載感に笑う。で、これからわたし寝ますけど、っていう優越感だったり。
「リスナー、学校は? ……あ、そうね、冬休み。うらやましいなコノヤロウ俺と代われよ」
徹夜の弊害か、気分が激しく上下してるらしい放送主がノリの範囲内でぶちギレる。うまいけど、初見の身にはついてけない。徹夜ノリなんて内輪で完結するような初見殺しだから。
でも、そのゆるさが居心地よかったりする。
相手と通話がつながってるわけじゃない。このシステムは放送主の音声の一方通行に、ときどき視聴者のコメントっていう立て看板が提示されるような仕組み。
コメントも打たないわたしは、放送の「来場者」という数値として意識はされても、個人って認識はされない。それがラク。
ゲーム終盤に向けてボルテージがうなぎのぼりの放送を聞き流しながら、ダブルサイズのソファーベッドのふちを枕がわりに、楽な体勢を模索する。こないだ買い足したばっかの毛布をかぶっていると、放送主のハイテンションが遠ざかり、脳にだんだん眠気が忍び寄ってくる。
彼が寝返りを打てばおでこがくっつくくらいの距離で、わたしは「タバコ王子」をぼんやり見た。
つらそうに荒い呼吸を繰り返して、時折咳き込む。それでも損なわれない、きれいな顔の人。
「なんで夜中の公園なんかにいたんだろ……」
その疑問を最後に、わたしは眠りの渦のなかに落ちていった。




