はじめての異世界1
二度目の次元転移を終え、異世界へナイスランディングした吉村一箱は、眼前にドラゴンを見つけた。
「え? なんで?」
一箱にはドラゴンの喉の奥までよく見えた。それはドラゴンが大きく口を開けていたのと、その奥で炎が激しく猛っていたからだ。
(あ、死んだわこれ)
次の瞬間、ドラゴンが縦に裂けた。
ドジュバーーーッ!!
水風船が弾けるように、血液が飛び散った。
「GYAAAAAA!!」
頭から血をかぶり、全身がピンと伸び、絶叫した。
頭から爪先まで赤黒く染まる。
ドラゴンの死体の側には、一箱の他にもう一人女性が立っていた。
身長は190cm以上、髪は青みがかった黒でショート、着物に袴をつけている。眼光鋭い三白眼からは表情が読めない。
手にはその背丈よりも長い刀(長巻)を握りしめており、滴る血から今まさにドラゴンを叩き斬ったのだと分かる。
「うむ? なんだお前は」
「え? あ、よ、吉村一箱といいます」
(あ、やっぱり言葉は通じるんだ。助かるなあ)
一箱は今さっきの壮絶な状況から素早く思考を切り替えた。少なめの脳みそが直前の状況を記憶していないともいう。
「うむ、そうか一箱。お前は飛蜥蜴の化身か何かか?」
「いいえ、違います」
「うむ、ならいい」
女は長巻を背中の鞘に収めると、腰から一般的な長さの刀(打刀)を抜き、ドラゴンを解体し始めた。
いくつかのパーツを取り分けると、残った死体に呪文を唱え始める。
「市丹参因後碌南鉢灸、オンキリキリ!」
ドラゴンの死体はかき消えた。
「うおぉおおおおおーーーーっ!!!」
大きな歓声が上がる。
一箱が周囲を見ると、大勢の男が狂喜していた。
どうやらここはどこか小さな村の中にある農地で、男たちは建物の影から一部始終を見守っていたのだ。
近づこうとする男たちを、大太刀の女が手で払うような仕草で追い払う。
「あの……」
「うむ、一箱。汚れたついでだ。少し手伝え。おい、ほのか」
「はーい」
ほのかと呼ばれた女性、いや、少女が駆けて来た。
少女は刀の女と同じように着物を着ているが、袴はつけていない。
特徴的なのは二つ結びにしたその髪がピンク色だというところだ。そういえば周囲の男にもおかしな色の髪をしている者がいる。
刀の女とは対照的に、柔らかな顔をしている。
「じゃあ、そこの木まで運びましょう」
「うむ、ということだ」
「え? あ、はい」
何が何やら分からないまま肉を運ぶ手伝いをする。
ほのかが釣り針を肉に刺し、刀の女がそれを吊るしていく。
「……はい、お疲れ様でした。後はやっておきますね」
「うむ、任せたぞほのか。では行くぞ一箱」
「はい。……どこに?」
「風呂だ」
この村には露天風呂付きの旅館があった。
旅館だの露天風呂だのと言えば豪華にも思われるかもしれないが、実態は民宿といった規模で、露天風呂もこの世界には珍しくない魔術式の擬似温泉だ。
一箱は血が乾いてパリパリになった制服を脱ぎ、脱衣籠に入れていった。
着替えとして浴衣を渡されていたのでもう一度これを着ることはないが、下着は用意されなかったので血染めのトランクスは再利用する必要があるだろう。
「おおー」
露天風呂初体験の一箱には、しょぼい露天風呂も輝いて見えた。
とりあえず髪と体を洗う。
石鹸はどこかと探したところ、枝豆のような容器に入っていた。
容器というか、豆がそのまま石鹸になるという非常に都合のいい植物なのだが、一箱は知らない。
手の上で泡だて、髪を洗う。
顔も髪も血がべったりついていたはずなのだが、いつの間にか落ちていたようで、あまり残っていなかった。
「うむ、一箱じゃないか。なんだ混浴だったか」
刀の女が入って来た。
鍛えあげられた筋肉と、でかい乳を見せつけるようにやって来た。
手ぬぐいを肩にかけ、半ばおっさんのように現れた。
「ちょちょちょ、ちょっと!?」
「ちょうどいい、背中を流せ」
一箱の横にドッカと腰を下ろす。
一箱は顔を背けながら横目でチラチラ見る。
(えー、何これ。いいのかな。良くないよなぁ)
「あの、僕あがります……」
「おい待て、烏の行水は良くないぞ。しっかり温まっていけ」
「あ、はい」
(うう……恥ずかしいよ……)
自分の手ぬぐいで股間を隠しながら、女に渡された手ぬぐいで背中を流す。
なるべく見ないふりをしながら。
「うむ、なかなかいいぞ。もう少し強くすると尚いい」
「は、はい」
一箱は無数の傷がある女の背中を流した。
その背中は厚く、固く、まるで岩のようであった。
「うむ、ご苦労だった。よし、次は私が背中を流してやろう」
「え? いやいやいや、いいよ! 自分でできるから」
一箱は右手で股間の手ぬぐいを抑え、反対の手で女から渡された手ぬぐいを突き返そうとする。
だが、女はそのボディランゲージを無視した。
「まあ遠慮するな。これも何かの縁だ。親睦を深めようじゃあないか」
女は夏の入道雲のように一箱の前に立ちはだかる。はだかだけに。
そして圧倒的な腕力で一箱が持つ二枚の手ぬぐいを奪い去った。
重機のようなパワーで剥かれたがため、当然股間を隠す手も弾き飛ばされた。
「うむ……一箱……」
「きゃあっ!!」
一箱はうずくまり股間を隠す。
(見られちゃった……知らない女の人に大事なところを……!!)
だが女の方も大いに動揺していた。
「うむ、うむ。一箱、お前は顔に似合わず凶悪なモノを持っているな」
「ううっ……」
一箱の顔は羞恥に歪み、今にも泣き出しそうだ。
「いや、恥じる必要はない。むしろ誇るべきだ。……さあ、背中を流してやろう。そこに座れ」
一箱と女はそう広くない湯につかる。
足や肩やそれ以外の部分が当たるが、女は気にしていないようだ。対して一箱は視線のやり場に非常に困っている。
「そういえば一箱はあんなところで何をしていたんだ。私にもどこから現れたのか見えなかったが」
「実はかくかくしかじかで」
「うむ、異世界か。なるほど、そういうこともあるだろう。それで、お前はどうしたいんだ?」
「それはもちろん、元の世界に帰りたいよ」
「うむ、そうか」
女はバシャバシャとお湯で顔を洗い、言葉を区切ってから続ける。
「私はそれなりに長く旅をして、多少は魔法の心得もある。だが、異世界を旅したことはないし、そのような魔法があるという話を聞いたこともない。帰ると言ったが、おそらく容易ではないだろう」
女の言葉はそれまでにない重みがあった。
そして一箱にも、異世界への行き方、帰り方などというのは雲をつかむような話で、おおよそ検討もつかないものであった。
容易ではないと言われたが、ほとんど不可能なのであろう。
「だとしても、僕はせいねえ……お姉ちゃんにもう一度会いたいんです」
「うむ、それもよかろう」
女が立ち上がると狭い湯船は津波を起こした。
「私はもうあがる。一箱ものぼせる前にあがるのだぞ」
立ち去ろうとする女に声をかけた。
「あ、あのっ! お姉さんのお名前は?」
「うむ? 名乗ってなかったか。これは失礼した。私は一文字海羅という」
海羅は全裸のまま、仁王立ちで挨拶した。
(なんて男らしいんだろう)
湯船につかりながら考える。
『帰ると言ったが、おそらく容易ではないだろう』
(容易ではないってのは簡単じゃないって意味であってる……よね? だったら簡単じゃないから難しいってことだ。確かに僕には帰る方法は全然思いつかない。けど、来る方法があるんだから帰る方法もあると思うんだよ。だって実際、ハーゲ……ハゲなんとかってあの男は僕をこの世界に飛ばした。だったら同じことをこの世界でやれば、元の世界へ帰れるはずだ)
じゃあそれはどんな方法なのか? というところまで考え始めると途端に手がかりがなくなってしまう。
お湯に口までつかってブクブクしながら考えてみるが、いい考えは浮かばない。手がかりすら見えない。
そうやってブクブクしながら考えていると、また誰かが入って来た。
(やばっ、そういえば混浴だっけ。面倒なことになる前にあがっちゃおう)
慌てて立ち上がると、視界がホワイトアウトした。
(あっ……)
のぼせた。
倒れる直前、肌色に乗っかるピンク色の髪が見えたような気がした。
「……?」
一箱は目を覚ました。
どうやら風呂場で倒れたようだ。
布団に寝かされており、浴衣を着ている。
体を起こすと、額から濡れタオルが落ちた。
「あ、起きましたか」
一箱が声のした方を見ると、着物の少女が座っていた。
そのピンクの髪には見覚えがあった。
「あなたは……えーっと、ほのかさん?」
「うふふ……ええ、佐倉ほのかといいます」
「吉村一箱です」
「びっくりしましたよ、急に倒れて」
ほのかはにっこりと微笑む。
「助けてくれたんですか。ありがとうございます」
「気にしないでください。困ったときはお互い様ですから」
そう言いながらほのかは濡れタオルを拾った。
「お着物はそちらに運んでおきました」
枕元には制服がきれいに畳まれている。
「それで、その、下着がなかったみたいなので……」
ほのかは顔を赤らめた。
何を言ってるのかと思えば、一箱は浴衣の下には何もつけていなかった。
浴衣のように前にスリットが入っている構造では、少しはだけただけで一箱の若い肉体の一番若い部分がもろ出しになってしまう。
というか出ている。
「うわっ」
一箱は慌ててパンツを探したが、制服の上下しか見つからなかった。
「あの、これぐらいのサイズの布ありませんでしたか? グレーの」
「ええと、ちょっとよく分からないですけど、脱衣籠にあったのはそれだけです」
「ううん……そうですか」
パンツはどこかへいってしまったようだ。脱いだ時は確かにあったのだが。
とりあえず制服のズボンはあったので、浴衣の下にはいておく。
肌に直接触れるのは多少着心地に難があるが、仕方がないだろう。
ついでに上着も羽織っておく。
結果、学生服の中に浴衣を着ている変な人が完成した。
(あれ? どっちも龍の血をぶっ被ったはずなのに、綺麗になってる。洗ってもらったのかな?)
ポケットの中を探る。
ティッシュとハンカチが入っていたはずの場所からは、灰のような物が出てくるばかりだった。
正確には、ティッシュのビニール袋は出てきた。
スマホと財布は無事。財布に入れておいた姉の聖夜の写真も無事だ。
「良かった……」
「なんです? それ」
「これは僕のお姉ちゃんです。とても大事な……僕のお姉ちゃんです」
「綺麗な方ですね」
姉が褒められると弟もうれしい。
一箱はいい笑顔をした。
つられてほのかも笑顔になる。
(でもお姉さんの写真を持ち歩くのってちょっと……ううん、そんなこと思っちゃ駄目ですよね)
「せいねえは自慢のお姉ちゃんで、いつも僕を助けてくれるんですよ。例えば小学生の頃、遠足におやつを忘れていったことがあるんですよ。そのときも、なぜかせいねえがいて、それで僕におやつを分けてくれたんです。いやあ、それもなぜか僕が買ったのと同じおやつで。あ、後でそれは僕のおやつを届けてくれたんだって分かったんですけどね、あのときはうれしかったなぁ」
訂正。ほのかはやや引きつった笑顔になる。
一箱が姉のすばらしさについて語っていると、海羅が入って来た。
「とってきたぞ、ほのか。うむ? 一箱じゃないか。なぜここにいる」
「え? 海羅さんのお知り合いじゃないんですか?」
「うむ、今回は私とは関係ないようだ」
「そうなんですか。私はてっきり……」
「うむ、一箱は良い奴だから問題ない。それよりほのか、肉を回収してきた。晩飯にしてくれ。一箱の分もな」
「はーい。一箱くん、食べられないものあります?」
「いや、特にないです」
ほのかは部屋から出ていこうとして、何かを思い出し、一箱に駆け寄り、耳打ちする。
あんまり近づくのでくすぐったい。
「あのことは黙っておきますね」
「あのこと?」
ほのかは顔を赤らめて、いっそう小声でささやく。
「その、私のはだかを見て鼻血を出して倒れたことを……」
「えっ!?」
(見えてない! 見えてなかったよ! っていうか鼻血じゃなくてのぼせただけ……あっ、鼻に詰め物してある! っていうか鼻痛い! 倒れたときに打ったんだこれ!)
「いいんですよ、男の人ってそういうものですからね!」
言うだけ言ってほのかは行ってしまった。
(うわぁ……超誤解だよぉ……まあいいか)
とりあえず鼻の詰め物をとる。
詰め物には確かに血が付いているので、鼻血が出たというのは本当だろう。
「あの、僕もいいんですか?」
「何がだ?」
「晩ご飯」
「うむ、そのことか。肉運びを手伝ってもらった礼と、血で汚した侘びだ。それに、異世界から来たのでは行く宛もなかろう」
(そう言われればそうか。考えてなかったけど、ご飯も寝るところもないんだな)
「あ、ありがとうございます、一文字さん」
「うむ」
「はーい、ご飯ですよー」
「うむ、早速食おう」
海羅は両手を合わせ「いただきます」をする。ほのか、一箱もそれにならう。
とりあえず肉をひとつつまむ。
「!! おいしいっ!」
一箱はいい笑顔で驚いた。
今まで食べたどんな肉よりも濃厚でジューシー。細い筋を束ねたような食感で、一噛みごとにそれぞれがプチプチと弾ける。そのたびにうま味が溢れだすのだからたまらない。
だがそういった肉の素材の良さよりも何よりも見事なのが味付けだ。
焼肉のタレのような味なのだが、その味加減が絶妙なのだ。
甘さと塩味が絶妙にマッチし、その中に見え隠れする辛味がまた味の良さを引き立てる。
もし人間の舌がもっとも「美味い」と感じる黄金比のような味加減があるとしたら、この肉がまさにそれだろう。
「すごいですよ! ほのかさん! こんなにおいしいお肉、食べたことないです!」
「うふふ……ありがとう、一箱くん」
「うむ、一箱よ。これも食べてみろ」
「なんですか? これ」
「それは飛蜥蜴の睾丸の刺し身だ」
「こーがんですか」
白い刺し身に醤油をつけて食べると、ねっとりとした感触が伝わる。
「うん、こーがんもおいしいですね。このこーがんのお刺身もほのかさんが?」
「はい……そうですけど、あまり睾丸睾丸言わないでください」
ほのかが顔を赤らめる。
(なんで?)
「でもこのお刺身よりもお肉の方がおいしいです。やっぱり味付けが決め手ですね」
「料理魔法は火を使わないと使えないですから」
「料理魔法?」
「うむ、一箱のいた世界にはなかったのか? 料理魔法」
「料理魔法どころか魔法なんてものがなかったです」
ドラゴンのような生き物がいる世界なのだから、魔法があってもおかしくないだろう。
二人のやりとりに、ほのかが不思議そうな顔で口を挟む。
「あの、なんの話でしょうか?」
「うむ? ほのかはまだ知らなかったか。一箱は別の世界から来たそうだ」
「うふふふふ。そうだったんですか。それはすごいですね」
ほのかは笑い話として聞き流したようだ。
「あの」
「うむ? なんだ」
「僕、少し考えたんですけど、やっぱり元の世界に帰りたいです。たとえ難しいとしても」
「うむ、存分に頑張るがいい」
海羅は無表情のまま答える。
「この世界で頼れる人がいなくて、帰る方法を探すのも、どこをどう探したらいいかも分かんなくて。でも、一文字さんたちは旅をしてるんですよね? その、僕も旅をしたらどこかに異世界に行く研究をしてる人とか、そういう魔法を使える人がいるかもしれないと思うんです」
「それで?」
「僕を助けてください。一緒に旅をさせてください!」
海羅はその言葉を聞いて、にやりと笑った。
「ほのか、酒の用意をしてくれ。今夜は新入りの歓迎会だ」
「ちょ、ちょっと待ってください。男の人と一緒に旅をするつもりですか?」
「うむ、いけないか?」
「駄目です! 不潔です! それに異世界というのも嘘っぽいです」
ほのかはジト目で一箱を見やる。
やはり先程の誤解が尾を引いているようだ。
「ううむ、そうか。ならこの話はなしだな」
「そんな……」
ここで彼女たちについていけないというのは、つまり、異世界で何の頼りもなく自力で生存し、さらに元の世界へ帰る手がかりを探さなければならなくなる。
少なくとも同行できれば、今日明日死ぬということはないだろう。
一箱は涙目でほのかを見る。それだけでほのかはちょっとひるんだ。
「あの、ほのかさん。僕、本当に異世界から来てて、それで、すごく困っていて……あの、その……僕じゃ駄目ですか?」
一箱はほのかの足にすがりつき、半泣きで懇願した。
あまりに哀れな様子に、ほのかは断りきれず困っている。
「ほのか。一箱はな、ただ家に帰りたいというだけなんだ。それがどれだけささやかで重大な願いか、ほのかなら、うむ、分かるだろう?」
海羅の言葉で、ほのかはあきらめたようにため息をついた。
「困ったときはお互い様ですからね。でも、いやらしいことしたら駄目ですよ」
一箱の顔はぱっと明るくなる。
「うむ、決まりだな。よろしくな、一箱」
「よろしくお願いしますね、一箱くん」
「はいっ! 一文字さん、ほのかさん」
こうして一箱は姉の元へ帰る旅を始めた。




