プロローグ
冬休みの中頃。正月も終わり、そろそろ通常モードに気持ちと体を合わせなければならないという頃のこと。
吉村一箱は、どうも休みボケでそんな気にはなれず、テレビをみながら携帯ゲーム機で遊んでいた。
「ひーとくんっ」
姉の聖夜がいつもの調子で、一箱の後ろから抱きつく。
中学三年生とは思えないサイズのバストが、一箱の首筋を揉み、圧迫する。
「ちょっ! せいねえ!」
一箱がやっていたのはアクション性が高いゲームで、驚いて手元が狂うと大きなダメージを受けてしまう。
姉弟なので胸が当たったぐらいで動揺はしないが、突然抱きつかれればびっくりはする。
だが聖夜はそんな事情を知らず、豊満な胸を押し付けつつ話を続ける。
「何してるのー? ゲーム?」
「そうだよゲームだよ……ちょっとせいねえ! 邪魔しないで! ……ああ、もう、死んじゃった」
一箱は携帯ゲーム機をスリープ状態にし、聖夜に向き直る。
形の良いおでこが可愛らしい。
「何? 何か用?」
「ううん、何してるのかなーって思って」
「ゲームしてたよ」
「知ってるよー。続けて続けてー」
「続けてって……見られてるとやりにくいんだけど」
聖夜はソファーの後ろから覗きこんでいる。
「気にしないで気にしないでー」
(そんなこと言われても気になるものは気になるんだけどなぁ……)
そう思いながらもひとまず言われたとおり、気にしないふりをしてゲームを再開した。
数分後。
「ねーひとくーん。お姉ちゃん暇なんだけどー」
「えっ……? 気にしなくていいって言ったじゃん」
「言ったけどー。かまってー」
(理不尽だなぁ)
そう思えば少しは反撃もしたくなる。
「全く……イチャイチャしたいならそう言えばいいのに」
バシッ
「いてっ!?」
「い、イチャイチャって!イチャイチャって!!」
聖夜は頬に手を当ていやいやと顔を振る。
「冗談だよ……そんなに怒るなよ」
「冗談!? ひとくんはお姉ちゃんとイチャイチャしたくないの!?」
(理不尽すぎる……)
とはいえ姉の理不尽に耐えるのは弟の義務なので仕方がない。
「あ、そうだ。イチャイチャで思い出したけど、ひとくんバスケ部はいいの? 確か冬休みも練習があるって言ってたわよね」
「ああ、あれは1月5日からだから」
「……1月5日からじゃないの?」
「なんで?」
一箱はスリープにした携帯ゲーム機の日付表示を確認する。
[1月5日 10:25]
顔が青ざめた。
「どどどどどどどうしようせいねえ!? 今日だよ! 今日からだよ! もう練習始まってるよ!?」
聖夜の両肩に手をおき助けを求めるように足をじたばたさせる。
「落ち着いてひとくん、まずは深呼吸。すーはーすーはー」
「すーはーすーはー」
至近距離で深呼吸をしたため、お互いの呼気を吸い合うはめになり、むしろ酸欠気味になった。が、それはそれで冷静になったのでよしとしよう。
「よし、今からでも行こう。サボるのは良くない」
「偉いぞ! さすがひとくん!」
一箱は大慌ててで自室に駆け込むと、支度を始めた。
一箱は服を脱ぐ。聖夜は脱ぎ散らかした服を畳む。
一箱はシャツを着る。聖夜は掛け違えたボタンを直す。
一箱はズボンをはく。聖夜はチャックを上げる。
一箱は髪をとかす。聖夜は寝ぐせ直しスプレーを吹きかける。
一箱は歯を磨く。聖夜はコップを持って待っている。
一箱は顔を洗う。聖夜はタオルを持って待っている。
一箱は制服の上着を着る。聖夜はその隙にズボンのポケットにハンカチ、ティッシュ、家の鍵、財布、スマホを入れる。
一箱はなぜか用意されていたカバンを手に取る。聖夜が前日に用意していたものでジャージなどが入っている。
「よし! 行ってきます!」
「いってらっしゃーい。気をつけてねー」
外は一面の銀世界。雪と氷で真っ白だ。
一箱は自分の通う中学へ向けて走りだした。
「滑るから気をつけるのよー!」
一箱は振り向かず、手を振って応える。
聖夜は見送りながら改めて思う。
(はあ……1月4日は練習の日じゃないのにあんなに頑張って……ひとくんはなんて可愛くてかっこいいんだろう……)
おそらくあのまま中学まで走り続けるだろう。
そして誰もいない体育館でこう言うはずだ。
「……なんで?」
その姿を想像するだけで、聖夜の胸はキュンキュンときめいた。
イタズラの仕上げとして携帯ゲーム機の日付設定を元に戻すため、一箱の部屋へ向かった。
そのときだ。バツンという音とともに、シャツのボタンがはじけ飛んだ。
ボタンは器用に廊下を転がり、一箱の部屋の前でぱたんと倒れた。
「これは……」
(下駄の鼻緒が切れるのと同じように、何か良くないことが起きる前兆……?)
動かないボタンを見つめ、じっと考える。
(まさか……いや、そんな恐ろしいことが起きたなんて……?)
その考えが正しいかどうか確かめるため、洗面所へ駆けた。
おそるおそる一歩を踏み出し、数値を確認する。
おお、なんということだろう。最悪の事態だ。抗うことのできない事実が眼前につきつけられた。
「正月太り」
聖夜は携帯ゲーム機の日付設定を直した後、腹筋することに決めた。
バスケ部員は誰もいなかった。
いたのはバレー部、それも女子バレー部で、突然息せき切って駆け込んで来た一箱は変な目で見られるはめになった。
「なんでだ……1月4日になってる……」
スマホは1月4日と表示している。一箱は論理的に考え、ひとつの結論を得た。
(走りすぎて過去に飛んだか……)
そういえば走りすぎてジャンプしたかもしれない。今朝食べたバナナが原因かもしれない。
理由は何にせよ、遅刻していなかったのだから良かったと一箱は考える。
つい10分前までの絶望に比べれば、清々しい気持ちだ。
少し浮かれながら帰り道を歩く。
そこに運悪く車が突っ込んできて、一箱は轢かれた。
一瞬だった。驚く暇もなく、気づいた時には宙を舞っていた。
前日少し気温が上がり、一度解けた雪が今朝の冷え込みで再び凍っていたせいでブレーキがきかなかったのだ。
こうして実にあっさりと、吉村一箱は死んだ。
(……あれ? 生きてる……)
確実に死んだと思っていた一箱が目を開くと、そこは石造りの地下室だった。
(病院……じゃないよなぁ)
一箱が地下室と判断したのは、その部屋に窓が無かったからだ。実際そこは地下室であった。
室内の照明には蝋燭が使われていた。壁や床が石でできているのと合わせて、古風な印象を与える。
一箱の他に、一人の男がいた。
金髪碧眼、古代ローマ人のような、ゆったりとした衣装をまとっている。男は一箱には目もくれず、本を読んでいる。
(なんてことだ。今度はすごい昔にワープしたみたいだぞ)
一箱は論理的に考えた。
(どうも今日は不思議なことが起きる日みたいだ。……あれ? でも過去に飛んだんだから今日は今日じゃなくて……)
一箱の論理は崩壊した。
何はともあれ、目の前の男に声をかけてみる。
「あの……」
「あー、ちょっと待って。今考えてるから」
日本語で話しかけると、ごく当たり前のように日本語が返ってきた。
しばらくして言葉が通じる違和感に気づき、また、言葉が通じたことで安心した。
二三分してから、男は本を閉じ、一箱に向かってこう言った。
「やあ、吉村一箱くん。はじめまして。俺の名前はハーゲンティ。君にはこれから異世界に行ってもらう」
「……なんで?」
これは一人の弟が、姉と再開するために奮起する姉物語である。




