なぜ私に相談するのですか
その日、私は婚約者に捨てられた。
「アリア・フォン・クラウゼン公爵令嬢。君との婚約をここで破棄させてもらう」
王宮で開かれた夜会。大勢の貴族が見守る中、私の目の前に立つレオン・アルヴェール王太子殿下はいつになく険しい顔をしていた。周囲からは小さなどよめきが波紋のように広がっていく。
婚約破棄。貴族社会で生きる令嬢にとって、それがどれほど大きな意味を持つのかは私だって知っている。けれど。
「……承知いたしました」
私が静かに頭を下げ、了承の意を示すと今度は別の意味で周囲がざわめいた。
もっと取り乱すと思われていたのだろう。泣き崩れるか。レオン殿下に縋りつくか。あるいは婚約破棄の理由を問い詰めるか。けれど、私はどれもしなかった。
レオン殿下の隣には、一人の少女が立っている。
淡い栗色の髪に、飾り気のないドレス。貴族令嬢が身につける宝石など1つもなく、その姿だけを見ればどこにでもいる町娘にしか見えない。
彼女の名前はエミリア。平民だ。そしてレオン殿下が心から愛している女性――らしい。
「……」
レオン殿下がわずかに眉を寄せる。その表情を見て、私は少しだけ笑った。
「殿下。どうかお気になさらず」
「……すまない」
「これまでありがとうございました」
それだけ告げて、私はその場を後にした。
別にレオン殿下を恨んでいるわけではない。 もちろん傷ついていないと言えば嘘になる。八歳の頃から婚約者として付き合ってきた相手なのだ。王太子妃になる未来を当然のものとして考えていた時期だってあった。
けれど、いつからだっただろう。レオン殿下が私ではなく、「王太子の婚約者」としての私を見ているように感じるようになったのは。
「はぁ」
小さくため息を吐きながら、それでも背筋を伸ばし公然と会場を出ていく。
私が何を好きなのか。何が嫌いなのか。どんな本を読むのか。どんな場所へ行きたいのか。そんなことを聞かれた記憶はほとんどない。
だから婚約を破棄されたことそのものよりも、この人はやはり最後まで私を見ていなかったのだとそう思った。そしてそう感じられてしまったことが、少しだけ寂しいような清々しいようなそんな複雑な感情になった。
それから数日後。私は実家へ戻ることなく、王都にある自分の別邸で暮らしていた。
婚約破棄された公爵令嬢。その肩書きのおかげで、社交界ではしばらく話題に困らないだろう。けれど私自身は、驚くほど穏やかな日々を過ごしていた。
朝は好きな時間に起きる。昼にはお気に入りの店で昼食を食べる。午後は読書をして、気が向けば街へ出る。誰かの婚約者として振る舞う必要もなければ、将来の王太子妃として作法や政治を学ぶ必要もない。
「ふふっ」
思わず笑みが溢れる。婚約者がいなくなったことで、思いがけず自由になったのだ。そんな生活を満喫していたある日のこと。
「アリア様。殿下がお見えです」
「……誰がお見えと?」
「レオン殿下です」
危うく読んでいた本を落とすところだった。
どうして?婚約を破棄した相手の屋敷に、いったい何の用があるというのだろう。
少し警戒しつつ応接室へ向かうと、レオン殿下は以前と変わらない豪華な装飾に包まれながら悠然とした姿で立っていた。……いや、少しだけ困ったような顔をしている。
「久しぶりだな、アリア」
「そうですね。婚約を破棄されて以来ですか」
「……その言い方は、少し胸に刺さるな」
「事実ですもの」
「それはそうだが……」
殿下は苦笑した。
昔ならこんなふうに軽口を叩き合うこともあったが、今は元婚約者と元婚約者。そのせいか妙に距離感を感じる。いや、それは今に始まったことではなかったな。
「それで、今日は何の御用でしょう?」
「実は……相談したいことがある」
「相談?」
私は首を傾げた。元婚約者に破棄した側が相談とは、余程深刻な悩みなのだろうか。
するとレオン殿下はしばらく言葉を探すように黙った後、とんでもないことを口にした。
「エミリア嬢に、どうすれば好いてもらえると思う?」
「…………」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「殿下」
「……」
「私、あなたに婚約を破棄されたばかりなのですが」
「分かっている」
「……正気ですか」
「……ああ」
私は額を押さえた。
普通なら怒るところなのだろう。けれど目の前の殿下があまりにも真剣な顔をしているものだから、怒る気にもなれない。小さく息を吐き、殿下に顔を向ける。
「私と殿下は元婚約者同士とはいえ他人なのですよ?そんな相手に軽々しく相談などされては面目が……」
「……失礼は承知の上だ。しかし頼れる者が君しかいないのだ。もちろん給金も出そう。だから……」
「給金?」
「ああ」
「ちなみになのですが、それはいかほど……?」
「公爵令嬢という立場に失礼がないほどには用意するつもりだが」
「なるほど」
私は大きく息を吸い、殿下を見つめる。元婚約者とはいえ、物心ついてからの仲だ。情がなくもない。だからまあ相談に乗るくらいはしても良いだろう。そう、情に釣られたからであって決してお金に釣られてわけではない……はず。
「……それで、何を相談したいのですか?」
「エミリア嬢を食事に誘いたいのだ」
「どこへ?」
「ロエ・カリッサという喫茶店だ」
「ああ……」
私は少し考える。
「やめたほうがいいと思いますよ」
「どうしてだ?人気店だと聞いたが」
「確かに人気店です。ですが、あそこは甘いものが中心ですから」
「それがどうした?」
「殿下、甘いものは苦手だったでしょう?」
レオン殿下の動きが止まった。
「……なぜ分かった」
「隠していたつもりだったのですか?」
私は呆れながら答える。
「公務の合間に出されたケーキもいつも一口だけ召し上がって残していましたし、紅茶にも砂糖を入れませんでしたし」
「……」
「公務で疲れているときは、むしろ苦い珈琲を好んでいたでしょう?」
殿下はしばらく私を見つめていた。
「よく見ているものだ」
「婚約者でしたもの。それくらいは」
私は何でもないことのように答える。
「それにエミリア様は甘いものがお嫌いというわけではありませんが、特別お好きでもありません。以前のお茶会で、果物のタルトより塩味のある焼き菓子を選んでいましたから」
「……君は、エミリア嬢のことまでよく見ているんだな」
「一度ご一緒したことがありますから」
レオン殿下は黙り込んだ。そして「そうか」と小さく呟くと、切り替えるように咳払いを1つ。
「では、別の店を探そう」
「そのほうがいいと思います」
「助かった」
「いえ、お気になさらず。またいつでもどうぞ」
社交辞令でそう言ってはみたものの、本音を言えば2度と来て欲しくはなかった。婚約破棄されたこともあるが、それ以上に王太子殿下という立場は気を使うのだ。……まあ給金というのは魅力的ではあるが。
しかしそんな私の思いとは裏腹にレオン殿下は何度も私のもとへ相談に来るようになった。次に相談されたのは、贈り物について。
「エミリア嬢に、この髪飾りを贈ろうと思うのだが」
差し出されたのは見事な紅色の宝石が付いた髪飾り。しかし私は首を横に振る。
「おすすめしません」
「なぜだ」
「エミリア様はこういう派手なものはあまり身につけませんから」
「そうなのか?」
「ええ。それに平民の彼女が王太子から高価な宝石を贈られれば、周囲の目を気にするでしょう?」
「……確かに」
「もっと簡素なもののほうがいいと思いますよ」
「では、君なら何を贈る?」
「そうですね……」
私は少し考えてから、王都で人気の小さな工房を教えた。そこでは陶器や食器など値段は決して高くないが、職人が一つずつ手作りしている品が並んでいる。
「彼女はこういうもののほうが喜ぶと思います」
「どうして分かる?」
「以前街で見かけたときに、そこの工房の商品を眺めていましたから」
「……君は本当によく見ているんだな」
「人を見るのが好きなんですよ」
城下町を行き交う人々の活気溢れる表情、宮殿内を練り歩く貴族達の表情、そして婚約者だった者の表情。100人いれば100通りの表情があるのだ。本の中とは違う生の感情。それが私は嫌いじゃない。しかしその時ばかりはレオン殿下の視線の変化には気付けずにいた。
さらに数日後。
「エミリア嬢をデートに誘ってみようと思うのだが」
「そうですか」
「どう言えばいいだろうか?」
それくらい自分で考えてくれ。とはさすがに言えない。目の前にいるのは仮にも王太子なのだから。…それならもう少し堂々としてほしいものだけれど。
「殿下は言葉を飾りすぎるところがありますから。素直に言えばいいのではないでしょうか」
「例えば?」
「好きなら、好きだと」
「それは……そうだが」
殿下は気まずさを誤魔化すように頭を軽く掻いてみせる。
「……君は、そういうところが容赦ないな」
「回りくどい言い方をされるより、そのほうが分かりやすいでしょう?」
レオン殿下は苦笑した。それからしばらく考え、
「君は、どうしてそんなに恋愛に詳しいんだ?」
と尋ねてきた。
「詳しいわけではありません」
「では、なぜ?」
「……殿下のことを知っているからでしょうか」
「俺を?」
「はい」
幼馴染、というよりは腐れ縁に近いだろう。目の前の彼は物心付いた時から目の前の婚約者で、敬うべき対象だった。舞踏会では一緒に踊り、お茶会があれば必ず出席させられた。だからだろうか。彼の行動、性格、思考、言いそうな言葉には大抵想像がついてしまうのだ。
「ちゃんと見てきましたから」
私は茶化すように少し微笑を浮かべる。
見栄っ張りで、装飾は派手。しかし立場で見られるのを嫌い、取り巻きには平民を取り入れる理想主義。だからと言って根回しが上手いわけではなく、むしろ対立してばかり。何度頭を抱えたことか。
懐かしむような、少しだけ呆れるような目線を彼に向ける。
昔からそうだった。困っていることがあっても誰にも相談せず、仕事が多ければ自分一人で片付けようとする。そして失敗すれば、自分だけの責任だと思い込む。幼い頃からどこか真っすぐで、妙に責任感が強い人だった。
「……そうか」
私のそんな心境を知ってか知らずか、今度は殿下が顎に手を当てた後僅かに微笑を浮かべる。
「自分のことを知ってくれている人間がいるというのは、存外悪くない気分なのだな」
その時見せた殿下の笑顔はこれまでのどれとも違う、暖かで和やかで春の陽気のようなそんな柔らかな笑顔だった。
「……殿下。それです」
「何がだ」
「その笑顔です!」
「?」
「その誰にも見せたことのないような柔らかな笑みを見せたら、エミリア嬢もきっと惚れるに違いありません」
「そんな顔をしてたか?」
「ええ。父君や母君の前ですら見せたことないくらいの笑顔でしたわ」
「……そうか」
何かに気付いたような、あるいは気付く前のような。そんな表情を浮かべると、殿下は赤くなった顔を手で覆いながら慌てて部屋を出ていったのだった。
「?」
そんな光景を私は頭に疑問符を浮かべながら見ていた。
◇
ある日のこと。レオン殿下は、いつものように応接室へやって来た。
「今日は何でしょう?」
「……少し、相談がある」
「どうぞ」
殿下は椅子に座ったものの、殿下はなかなか話し始めない。長期戦を見込み、私は紅茶と茶菓子を目の前の机に用意する。
「エミリア嬢に俺のことをもっと知ってもらいたいんだ」
「それなら殿下自身のことを話してみてはいかがですか?」
「自分のこと?」
「はい。好きなものでも、嫌いなものでも」
「……」
レオン殿下は少し困った顔をした。
「俺は一体何が好きだったか」
「無糖の珈琲」
「それは好きだな」
「夜空に浮かぶ星空」
「それもそうだ」
「あとは……平民の女性」
「……」
「それもあどけなさの残るような貴族……特に公爵令嬢とは正反対の可愛さを持った少女とか」
にやりと口角を上げながら繰り出す皮肉に、殿下は渋い顔で眉をひそめる。
「言葉に棘を感じるが」
「それは申し訳ありません。しかし事実でしょう?」
「それは……そうだが」
苦虫を噛み潰した顔というのはきっとこういうのを指すのだろう。高貴で端麗な顔立ちが見るからに歪んでいる。
「ふふっ」
婚約破棄をされた上なぜか恋愛相談を受けている私の溜飲は目の前の殿下の表情でかなり下がった。だからだろうか。ティーカップに満足げに口を付けると、私はにこやかに微笑みながら言葉を返した。
「冗談です。話を戻しましょう」
ほっとするような、罪悪感に苛まれているような、そんな複雑な表情を浮かべる殿下をよそに話を続ける。
「そういえば、静かな場所も好きでしたね」
「……そうだったか?」
「殿下は騒がしい場所では、いつも少し眉間に皺を寄せていましたから」
「そんなことまで見ていたのか」
「見ていましたよ」
そう言うと殿下は少しの間押し黙り、やがて小さく息を吐く。
「……叶わないな」
「婚約者でしたからね」
その言葉を口にした瞬間、レオン殿下の表情が少し曇った。
「……そうだったな」
それだけ言って殿下は立ち上がった。
「今日はもう帰る」
「承知しました」
「アリア」
「何でしょう?」
「……いや、何でもない」
「?そうですか」
言い終わる瞬間に合わせ扉が閉じる。私は一人になった応接室で、紅茶を再度口に含む。
扉が閉じる前、合間から見せた殿下の表情。何か言いたげで、しかしそんな資格は自分にはなくて。そんな後悔と懺悔を抱えたような表情だったような気がする。
今さら婚約破棄したことを後悔しているのだろうか。そういえばエミリア嬢を婚約者にしてから、殿下と貴族の軋轢が深まってしまったという噂を耳にしたことがある。私という緩衝材の価値を知って、後悔しているのだとしたら正直悪い気はしない。しかしあの表情はそれだけではない気がする。利己的な感じではなく、もっと感情的で感傷的な何かなような。
◇
季節は移ろい、王都には夜会や舞踏会の季節が訪れていた。不思議なことに、レオン殿下は最近ぱたりと相談に来ていない。最初の数日は何となく落ち着かなかったものの、一週間もすればそんなことも忘れ紅茶を片手に優雅な別荘生活に戻っていた。
むしろ相談相手をしなくてよくなったのだから、私としてはありがたい。
朝はゆっくり起き、昼は好きな店で食事をする。午後は本を読むみ、夜は好きなだけ夜更かしする。婚約者という立場から解放された私は、やはり思いのほか自由だった。むしろこれまで散々尽くしてきたのだ。これくらい許されてもいいだろう。
そうして過ごすレオン殿下がいない日々は、思っていたよりずっと穏やかだった。――ただ、なぜか時折無糖の珈琲を飲むと彼の顔が頭に浮かぶようになっていたことを除けば。
数日後。
今日もまた、王宮では大規模な舞踏会が開かれるらしい。当然、私のもとにも招待状が届いていた。
婚約破棄された身でわざわざ参加する必要などない。そう思っていたのだけれど、断れば断ったで余計な噂を立てられる。だから私は、仕方なく会場へ足を運んでいたのだった。
華やかなシャンデリア。磨き上げられた大理石の床。色とりどりのドレスを身にまとった令嬢たちと、彼女たちをエスコートする貴族の青年たち。どこを見ても煌びやかな光景が広がっている。そして私はといえば壁際で一人、グラスを傾けていた。
こういう場所は昔からあまり好きじゃなかった。誰が誰と踊っただの、誰が誰に声をかけただのそんな話ばかりが飛び交う。けれど、今日ばかりはそれ以上に目立っているものがあった。レオン殿下だ。
会場の中央付近。王太子である彼の周囲には、多くの貴族が集まっている。けれど、その隣にエミリア様の姿はなかった。
少し意外だ。レオン殿下はもうとっくに彼女との仲を深めたのだと思っていた。私のところへ相談に来なくなったのもそのためだろうと思っていたのだけど……
「アリア様」
背後からの声に振り返ると、見知った令嬢が立っていた。
「今夜はお一人なのですね」
「ええ」
「お相手は……?」
「いません。なにせ婚約破棄されたばかりですから」
私が答えると、彼女は一瞬だけ気まずそうな顔をした。
「そう、ですか……」
するとその隣にいた令嬢が小さく笑う。
「仕方ないのではなくて?」
扇で口元を覆っているものの、嘲笑の様子は明らかだ。
「おっしゃる通り捨てられたばかりですもの。さすがに、殿方も声をかけづらいでしょう」
「……」
私は何も言わずにグラスを口に付ける。公爵令嬢という立場上、こういう場面には慣れている。無闇に口を開かずじっとしていればその内飽きていなくなるだろう。
しかしそう判断した私を、言い返せないのだと見た目の前の令嬢はさらに語尾を強め声高に話してくる。
「正直こうなるのは時間の問題だと思っていましたの」
顔を若干のけ反らせ見下すように視線を向ける彼女はまさに悪役令嬢といった感じだ。
「不愛想で可愛げもなくあるのは家柄だけ。生まれで勝ち取った婚約者なんてすぐに崩れるはずだとみなさん話されてましたのよ」
「ちょっと。言いすぎですわよ」
すかさず私に話し掛けてくれた娘が止めに入るも、一瞥するのみで口を噤む気配はない。
「だって事実でしょう?現にあなたにもその噂は耳に入っているのではなくて」
「それは……」
苦い顔で押し黙る少女。別に誰にどう思われようが構わないのだが、さすがにここまで言われてしまっては文句の1つも返さないと気が済まないというものだ。
「確かに殿下との婚約は両親が取り付けたものであり、家のお陰と言ってもいいでしょう」
そら見たことかと言わんばかりに微笑む令嬢を尻目に私は続ける。
「しかし殿下はその婚約を破棄され、今はとある平民の少女を気にかけている様子」
こほんと咳払いをし、視線をきっちりと合わせる。
「つまり家柄に囚われない心の持ち主ということです。ですからあなたにもチャンスはあるはずですわ」
瞳を逸らさずじりじりと静かに、しかし確実ににじり寄っていく。
「私を家柄だけの女とおっしゃるあなたのことですから、きっとあなたは私よりも芸事に優れ心根が綺麗な方なのでしょう。でしたらきっと殿下の心も掴めるはずですわ」
「そこまでは……」
「さあちょうど殿下もいらっしゃることですし、踊りにでも誘ってらっしゃいな」
「……」
「さあさあ」
そう言い私は笑顔でにじり寄っていく。一方目の前の令嬢は涙目だ。やり過ぎてしまっただろうか?そう思った時だった。
「失礼」
突然、タキシードを着こなした可憐な紳士の声が割って入ってくる。
「……殿下」
やり過ぎだ、と言わんばかりの視線を向けて来る紳士。反省と謝罪の意を込めて私は一礼をする。
「お久しぶりです。王太子殿下につかれましてはご機嫌麗しいようで感嘆の意に…」
「よい。俺と君の仲だ。気軽に話せ」
「……かしこまりました」
殿下と私の仲?そんなものあっただろうか?
頭に疑問符を浮かべ本気で悩んでいる私をよそに、殿下は溜息混じりに先ほどの令嬢に侮蔑混じりの視線を向ける。
「確かに俺は婚約破棄をしたが、それは彼女に不満があったわけではない。むしと俺の方にこそ原因がある。だからあの1件に対し何か思うところがあるのなら、俺が聞こう」
「い、いえ!殿下のことを煩わせるようなことは何も!!」
先ほどまで威勢よく私を責め立てていた令嬢が、今では子犬のように身体を震わせている。無理もない。一国の王太子にこんなに詰められたら私だって鳥肌ものだ。
「では去れ。それと今宵は演舞の場ということで見逃すが、今後は俺の目が許す限り彼女への侮蔑は許さないからそのつもりでいるように」
「は、はいっ!!!」
頭を垂れ勢いよく言葉を発すると、彼女たちは一目散にこの場を去っていった。その背中を見送ってから殿下は小さく息を吐く。
「……呆れたものだ」
「私にでございますか?」
「両方にだ」
疲れたと言わんばかりに壁に寄りかかる殿下。
「貴族の場などあんなものです」
私は肩を竦めた。
「噂話に花を咲かせ、自分の権威や見栄えを競い合う。実に不毛な時間です。だから私はあまり舞踏会には出席しないことにしているのです」
「そうか」
「それより――」
私は殿下を見る。
「少し意外でした」
「何がだ」
「殿下が庇ってくれたことがです」
多少の情はあるものの特別良い思いもないが、特別悪い思いもない。そんな関係値だと思っていたため、彼の行動はまさしく予想外であった。
「さっきも言ったが婚約破棄したのは別に君に不満があったわけではない」
少しばかり不服そうな顔をした殿下は、その後すぐに心境複雑そうな表情に切り替える。
「少し聞いていいか」
「何でしょう」
「好きというのはどういうことだと思う」
「……」
そんなの分かるわけがない。と言ってしまうのは簡単だが、殿下の手前そう言うわけにもいかない。そもそもそんなことを口走ってしまえば、この数か月もの知り顔で相談を受けていた私がいかにも滑稽だ。
ここは悩む振りをしながらだんまりが正解だろう。そのうち飽きてどっかに行くはず。
しかしそんな願いも空しく殿下は話を続ける。
「俺はこれまで王太子という立場に縛られてきた。受けるべき学問も、関わるべき友人も、添い遂げるべき婚約者さえも全て俺の意志は介在していない。きっと今後もそうなのだろう。敷いたレールの上を走るだけ」
物憂げな視線を欠けた月に向け、黄昏るような口調でそう述べていく。
「別に不満があるわけじゃない。ただ、妻になるべき存在くらいは自分で選びたい。そう思ったのだ。……だが」
小さく息を吐き、一拍置く。
「エミリアと過ごす時間は楽しい。しかしそれだけ……それだけなのだ。この胸に抱きかかえたいとも、口づけを交わしたいとも思わない。俺は立場を忘れる為だけに彼女を利用したのではないか。そう思えてならないのだ」
私は何も言わず、殿下の横顔を見つめていた。
人を好きになる。この利権と打算に塗れた世界で、その本当の意味を知る者の方が少ないのではないだろうか。私を含めて。だけどそれでもこの悩みには誠実に向き合わなければいかない。この奇妙な数か月を無意味にしないためにも。
「殿下は少し難しく考えすぎではないでしょうか」
「そうだろうか」
「そうです」
私は殿下に向き合い、にこりと微笑む。
「分からないのなら、今すぐ答えを出す必要なんてないではありませんか」
「……」
「これから散々迷って、悩んで。そうして少しずつ、自分の気持ちに答えを出していけばいいのです」
私は胸を張る。
「だって私たちは、まだ若いのですから」
殿下は何も言わずにただこちらを見つめていた。瞬きすることなくただひたすらに、星を見るかのごとく。その瞳には何が映っていたのか、何を思っていたのか。それを知る由はないけれど。
しばらくしてから彼は笑いを堪えるようにして喉をくつくつと鳴らした。
「何です?」
「いや、想像していたより恋とはあっけないものだなと思ってな」
「そうでしょう?」
自慢気に胸を張る私に対し、殿下はなぜか呆れた目線で見て来る。
「まあそういうことにしておこう」
こほんと咳払いをし、再度言葉を掛ける。
「一曲だけ、付き合ってくれないか」
「喜んで」
差し出された手を取った瞬間音楽が流れ始める。レオン殿下に手を引かれ、私はゆっくりと歩き出した。
昔は何度もこうして踊ったものだ。婚約者として、王太子妃として。けれど今は違う。
元婚約者同士であり、ただの知り合い。いやもう少しだけ関係値は深いだろうか。いずれにせよ、不思議な縁には違いない。
「それで」
私は踊りながら尋ねる。
「エミリア様とお話ししなくてもよいのですか?」
何気ない疑問。すると殿下は少し黙った後、清々しい様子で微笑む。
「ああ。もういいさ」
「そうですか」
何があったかは聞くまい。きっと殿下の中で何かしらの心境の変化が起きたのだろう。彼もエミリアも、そして私もまだ20にもなっていないのだ。痴情のもつれくらい起こって当たり前。その内話したくなれば勝手に相談してくるだろう。
「……アリア。君に謝らなければなるまいな」
「何のことです?」
踊りを止めたかと思うと突然、レオン殿下が頭を下げた。
「俺は間違っていた」
「殿下!?」
「君との婚約を破棄したことを、ずっと後悔していた」
その声はいつになく真っすぐで、だからこそ彼の懺悔がひしひしと伝わってくる。
「俺は君との婚約を壊せば、自由になれると思ったのだ」
顔を上げ、それでも彼の言葉を終わらない。
「でも、婚約を壊して初めて分かった」
「……何がです?」
「君は、俺を縛ってなどいなかった」
「……」
「一度だってこうしろ、ああしろと命令したことなんてなかったのだから」
彼は自嘲気味の笑顔を浮かべる。
「それなのに、君との婚約そのものが俺を縛っているのだと思い込んでいた」
そして再び頭を下げる。
「本当に、すまなかった」
「……頭を上げてください」
「いや」
「殿下」
「謝って済むことではないことくらい、分かっている」
しばらくして、殿下はようやく顔を上げた。そして真剣な表情で私を見る。
「だから、賠償をさせてほしい」
「賠償?」
「俺が持っている財産を君に渡そう。全て」
「そんなものは――」
「それでも足りないなら、父上にも頼もう。君が望む地位でも、仕事でも、できる限り用意する」
そんなものは要らないと言いたいところだが、何かしら言わなければ殿下は引き下がってくれないだろう。昔から変なところで頑固だったから、この人は。
私は少し考え、一つの思い付きというか欲に気付く。
「では、一つだけお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「私を殿下の正式な相談役にしてください」
「……相談役?」
「はい」
レオン殿下が目を丸くする。
「家に帰れば、きっと両親はまた別の婚約を勧めてくるでしょう」
「……そうだな」
「かといって王都で普通に仕事を探せば、公爵令嬢という身分に見合う仕事を選ぶだけでも大変です」
「なるほど」
「なら、このまま王都に住み続ければいいのです」
腕を腰に置き、私は堂々と胸を張り言ってのける。
「たまに殿下の恋愛相談に乗って、そのほかの時間は好きな本を読んで、好きな店で食事をして、これから悠々自適に暮らしていくことにします」
「……」
「婚約破棄されたくらいですもの。それくらいの贅沢は許されるでしょう?」
レオン殿下は、呆れたように笑った。
「実に頼りになる相談役だな」
「そうでしょう?」
「ああ」
そして、少しだけ柔らかい顔で頷いた。
「了解した。ではそのように取り図ろう」
「ありがとうございます」
かくして私はかつて婚約者だった王太子殿下の、正式な相談役になったのだった。
◇
それから数日後。私はこれまで通り好きな時間に起き、昼にはお気に入りの店で昼食を食べ、午後は読書をして、気が向けば街へ出る。そんな優雅な生活を送っていた。
しかし勘違いしてもらっては困るが、これまでとは異なり私は今立派に仕事をしているのだ。
なぜなら相談役の仕事内容は、殿下が困ったときに相談に乗ること。つまりそれ以外の時間は好きに過ごして良いということになるのだから。少しばかり強引な理論かもしれないが、殿下には呆れながらも許可されたので合法なのである。
そんなふうに堂々と引き籠もり生活を謳歌していたある日のこと。突然レオン殿下が尋ねてきた。
「今日は何のご相談でしょう?」
午前中をまるまる睡眠に費やしたとは思えないほど、凛々しい態度で殿下に向き合う。眠そうな顔など微塵も見せてはいない。相談役たるもの、殿下の前では常に毅然としていなければならないのだから。
「実はな……」
レオン殿下は私の向かいに腰を下ろすと、珍しく言葉を濁した。いつもならばもっと簡潔に用件を告げるはずなのに、今日はどこか様子がおかしい。
一度口を開きかけては閉じ、何かを言おうとしては躊躇うように視線を逸らしている。その様子に、私は思わず首を傾げた。
「いや……その、だな」
いつになく歯切れが悪そうだ。婚約破棄の瞬間ですらこんなに言い淀んだことはないというのに。いったい何をそんなに言い淀んでいるのだろう。
「何でも話してくださませ。私は殿下の相談役なのですから」
「そうか……そう、だな」
殿下は背筋を伸ばし、こちらを真っすぐに見据える。その表情はまるで悪戯を見つけられてしまった子供のようでもあり、あるいはこれまで胸の内に秘めていた想いをとうとう誰かに打ち明ける覚悟を決めた人のようでもあるなんとも奇妙な表情だった。
そして殿下は、ほんの少しだけ視線を揺らしたあと――意を決したように、口を開いた。
「一度振ってしまった相手を、振り向かせたいのだがどうすればいい?」
「…………はい?」
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