炎に焼かれる予言で婚約を解消したら、元婚約者が見合いの灯り係に志願してきました
星詠みの塔の最上階には、窓がひとつもない。
昼でも夜のように暗い円い部屋で、明かりは水盤の縁に置かれた星灯だけ。わたしの家の工房で作った灯具だ。
ロウェル男爵家は、代々灯具を作ってきた。炎術師の火を入れても割れない硝子と、火の癖に合わせて形を変える芯。王都の魔導灯の半分は、うちの工房から出ている。
「イルゼ・ロウェル嬢。水盤をのぞきなされ」
大星詠みのヒルデガルト様が、皺だらけの指で星灯の火をつまみ、黒い水の上に落とす。
婚礼を控えた娘は、塔で一度だけ星を詠んでもらう。星が見せるのは、その娘の生涯でいちばん大事な景色。たいていは、子どもを抱く姿や、年老いて庭に座る姿が映るものらしい。
水面に、火の粉が散った。
広がっていくのは、一面の炎。そのすぐ向こうに、見慣れた鳶色の目がある。婚約者の、エーリク様の目。
そして炎の真ん中で、わたしが目を閉じていく。
像が消えても、しばらく誰も口をきかなかった。
ヒルデガルト様が、長い息を吐く。
「……炎の中で、目を閉じておられますな」
それ以上は、言われなくても分かる。
エーリク様は、宮廷魔術師団の炎術師だ。王都でいちばん強い火を持つ、と言われている。
その人の火の中で、わたしは目を閉じる。生涯でいちばん大事な景色として。
詠みの間を出ると、控えの間にエーリク様が立っていた。
婚礼前の星詠みに、新郎は立ち会えない。扉の外で待つのが慣わしになっている。
「どうだった」
低い、短い声。この人は口数が少ない。8歳で婚約してから10年、長く話すのを聞いた覚えがほとんどない。
わたしは、深く頭を下げる。
「エーリク様。婚約を、解消させてください」
顔を上げると、エーリク様は眉ひとつ動かしていなかった。
「星が、見せてくれました。あなたの火の中で、わたしが目を閉じるところを」
「…………」
「焼かれるのは、怖いです。でも、それより、あなたにわたしを焼かせるのが嫌なんです」
エーリク様は、何も言わない。
その代わりに、控えの間じゅうの燭台の火が、いっせいに消えた。
真っ暗な部屋のどこかで、侍女が小さく悲鳴を上げる。ひと呼吸おいて、火はまた何事もなかったように点った。エーリク様は、燭台から目をそらしている。
「……分かった」
返ってきたのは、それだけ。
背後で、杖が床を打つ音がした。
「――塔の不覚じゃ」
振り返ると、詠みの間の戸口にヒルデガルト様が立っていた。補佐の星詠みのノア様が、慌ててその肩を支えている。
「塔が建って以来、詠んだ星で縁を断たせたことは一度もない。それを、この老いぼれの代でやってしもうた」
「大星詠み様、あの、これは塔のせいでは」
「言うてくださるな」
ヒルデガルト様は、わたしの両手を取った。骨ばった指が震えている。
「ロウェル嬢。そなたの次の縁は、塔が詠む。火を持たぬ男で、星が太鼓判を押す最高の縁を、塔の名にかけて見つけて進ぜよう」
「そ、そこまでしていただかなくても」
「する。ノア、星図を出せ。今夜から詠むぞ」
「は、はい。……大星詠み様、今夜は満月で、星がほとんど見えませんが」
「月ごと詠め」
ノア様は泣きそうな顔で、階段を駆け下りていく。
わたしは助けを求めて、エーリク様を振り向いた。エーリク様の目は、まだ燭台に向いている。
◇
婚約を解消して10日もすると、工房の棚に、火の入っていない灯具が並びはじめた。
灯具師には、ひとつ慣わしがある。作った灯具には、最初の火を誰かに入れてもらうこと。その火が、灯具の癖になるからだ。
わたしの灯具の最初の火は、ずっとエーリク様が入れてきた。
始まりは8歳の冬。初めて作った不格好なランプに自分で火を点けようとして、指を焦がした。泣いているわたしの前に、10歳のエーリク様がしゃがみこんで言ったのだ。
「火は、俺が点ける」
それから10年、あの人の火に指を焼かれたことは一度もない。芯を整えるとき、わたしはエーリク様の火に素手で触る。灯具師の手は火に強いからな、と父はいつも笑う。
ほかの炎術師に頼めば、火はすぐに入る。分かっているのに、頼む気になれない。だから棚には、暗いままの灯具が増えていく。
その日の午後、ノア様が工房を訪ねてきた。目の下に、濃い隈ができている。
「ロウェル嬢。星が、最初のお相手を選びました」
「……本当に、月ごと詠まれたんですか」
「詠みました。徹夜で」
ノア様は、遠い目をした。
「それで、見合いの席にはロウェル家の星灯をお借りしたいのです。お二人の縁を、灯の火で詠みますので」
「ええ、もちろん。火入れは、どなたが」
星灯は、炎術師の生きた火でなければ点らない。塔の灯り係は、宮廷魔術師団から当番で来る決まりだ。
ノア様が、困ったように眉を下げる。
「それが……今月の灯り係を、ブレナー殿がすべて引き受けられまして」
「すべて」
「ほかの当番の方に、頼んで代わってもらったそうです。星灯の火には慣れているから、と」
わたしは、作業台の上の星灯に目を落とした。
星灯の硝子は、うちの工房でしか作れない。星の光を映すために、火の化粧を落とす硝子。どんな術師がどんな色に火を飾っても、この硝子の中では、生まれたままの色に戻る。芯の下には「火呑みの口」もついている。詠み終えた火を灯具の中へ呑みこんで、鎮めるための仕掛けだ。
エーリク様の火は、この硝子の中でも外でも、同じ色をしている。赤に、金の縁。
化粧をしない人なのだと、昔から思っていた。
◇
最初の見合いの場は、塔の二階にある小さな詠みの間。
お相手は、騎士団の副長のハーラルト様。水の魔術を使う、背の高い方だ。ヒルデガルト様は「水の男なら、火には負けん」と満足げにうなずいている。
円卓の真ん中に、星灯。向かい合って、ハーラルト様とわたし。ヒルデガルト様とノア様は少し離れた席で、水盤を構えている。
そして壁際の灯り係の椅子に、エーリク様。
「火を入れる」
エーリク様が指を鳴らすと、星灯に火が点った。赤に、金の縁。見慣れた色。
ハーラルト様はちらりと壁際を見て、それからわたしに笑いかけた。
「ロウェル嬢は、灯具をお作りになるそうですね」
「はい。家業ですので」
「すばらしい。ですが、嫁いでいただいたら、もう火傷の心配はいりませんよ。手仕事は職人に任せて、屋敷でゆっくりなさればいい」
ぼっ、と音がした。
星灯の火が、天井まで噴き上がる。
炎は円卓の上でぐるりと渦を巻き、ハーラルト様の前髪と眉の端をきれいに焦がして、すうっと灯の中へ戻っていく。
部屋に、焦げた毛の匂いが漂った。
「な……っ、何を」
「すまない。隙間風だ」
エーリク様は、表情ひとつ変えない。
ノア様が、小さな声でつぶやいた。
「この部屋、窓はありませんが……」
ヒルデガルト様が水盤をのぞきこみ、重々しく首を振る。
「火が荒れて、星が読めん。本日の詠みは、ここまでじゃ」
眉を押さえたハーラルト様が退出したあと、わたしは自分の袖口を見た。
炎は、わたしの目の前も通ったはずだ。けれど、袖口には焦げあとひとつない。むしろ、ほんのり温かい。猫が膝の上を通り過ぎていったあとのように。
手仕事をやめろと言われて、わたしが言い返すより先に、火のほうが怒っていた。
「エーリク様」
「隙間風だ」
「まだ何も言っていません」
エーリク様は答えずに、星灯の芯をつまんで火を消した。
◇
2度目のお相手は、学者のオズヴァルト様。風の魔術を使う方で、肩に灰色の鸚鵡を乗せている。使い魔なのだという。
「風は火を煽りますので、どうかとは思ったのですが」
ノア様が、不安げに耳打ちしてくる。ヒルデガルト様は「星が選んだのじゃ」と取り合わない。
灯り係の椅子には、今日もエーリク様。
今日の火は、おとなしい。星灯の中で、行儀よくまっすぐ立っている。
オズヴァルト様は物腰のやわらかい人で、硝子の話になると目を輝かせた。
「ロウェル家の硝子は、火の化粧を落とすそうですね。どうやって作るのです」
「それは、家の秘伝ですので」
「ああ、失礼。いや、本当に興味深い」
そのとき、肩の鸚鵡が首をかしげた。
「ヒデン、テニイレロ。ヒデンサエ、テニイレレバ」
オズヴァルト様の笑顔が、固まる。
「ムスメハ、ドウデモイイ。ショウカイニ、ウレバイイ」
「ちょ、ちょっと、黙りなさい」
「ショウカイニ、ウレバイイ。ショウカイニ」
オズヴァルト様が、慌てて鸚鵡のくちばしを押さえた。使い魔は、主人がいちばんよく口にする言葉を覚えるものなのです、とノア様が気の毒そうに解説してくれる。
星灯の火は、少しも揺れていなかった。
揺れないまま、色だけが変わっていく。赤から、白へ。白から、青へ。
「……ノア」
「はい、大星詠み様」
「火が、静かすぎる」
「はい。とても、怖いです」
オズヴァルト様は鸚鵡を抱えて、挨拶もそこそこに部屋を飛び出していった。扉が閉まった途端、星灯の火はふっと元の赤に戻る。
「エーリク様。今のは」
「今日は、隙間風は吹いていない」
「……知っています」
◇
数日後、わたしは修理を終えた魔導灯を届けに、宮廷魔術師団の詰所へ出向いた。
回廊で声をかけてきたのは、炎術師のカスパル・ドーレ様。エーリク様と同じ年に魔術師団へ入った人で、宴の座興がうまいことで知られている。
「ロウェル嬢。見合いの噂は聞いていますよ。眉を焦がされた副長殿の話は、もう王宮じゅうに広まっている」
「……お恥ずかしい話です」
「恥ずかしいのは、あなたではないでしょう」
カスパル様は、人懐っこく笑う。
「星詠みの塔が、あなたの縁談探しに夢中だ。理由は、ブレナーの火があなたを焼くと出たから。これも王宮じゅうが知っています」
わたしは返事に詰まった。塔の方々が熱心すぎて、話は思った以上に広がっているらしい。
「気をつけたほうがいい。予言は外れないものです。あの男の火は、見合いのたびに暴れているそうじゃありませんか」
「暴れたと言っても、誰も怪我は……眉くらいで」
「次も眉で済むといいですね」
カスパル様は、回廊の燭台に指を伸ばした。
「ご存じですか。わたしは、ひとの火を写すのが得意でしてね」
指先に、若葉のような薄緑の火が灯る。カスパル様自身の火の色だ。その色が、見る間に移ろっていく。赤に、金の縁。
エーリク様の火と、寸分違わない色。
「宴の座興ですよ。誰の火でも写せます。どうぞ、近くでご覧なさい」
差し出された火に、わたしは思わず指を寄せた。芯を整えるときの、いつもの癖で。
指先が、ちりっと痛む。
慌てて手を引くと、カスパル様は楽しそうに目を細めた。
「おや、熱かったですか。火は火ですからね。ブレナーの火だって、同じことですよ」
薄緑に戻した火を吹き消して、カスパル様は回廊の奥へ去っていく。
わたしは、赤くなった指先を見つめた。
あの人の火は、こんなふうに熱かっただろうか。考えかけて、やめる。考えても仕方がない。もう、婚約者ではないのだから。
◇
その夜、工房の炉の火が落ちた。
硝子を吹く炉には、炎術師の火が要る。その火も10年、エーリク様が入れてくれていたものだ。婚約を解消してからは、父が魔術師団から別の方を頼んでいる。その火が、夜更けに急に弱って、消えてしまった。
暗い工房で、わたしは途方に暮れる。
扉が叩かれたのは、そのときだ。
「……炉の火が、消えたのが見えた」
外套の肩を濡らして、エーリク様が立っている。外は小雨らしい。
「見えたって、どこから」
「通りの向こうから」
なぜ夜更けに通りの向こうにいたのかは、聞かないことにした。
エーリク様は炉の前にしゃがみ、指を鳴らす。赤に金の縁の火が、炉の奥で丸くなった。工房の中が、ゆっくりと明るくなっていく。
棚に並んだ、火のない灯具が照らし出される。
エーリク様の目が、そこで止まった。
「……あれは」
「売り物です。まだ、最初の火が入っていないだけで」
「ほかの炎術師に頼めばいい」
「頼む気に、なれないんです」
言ってしまってから、口を押さえる。エーリク様は、棚を見たまま動かない。
炉の火が落ち着くのを待って、わたしは聞いた。
「どうして、灯り係をすべて引き受けたんですか」
「慣れているからだ」
「ほかの当番の方に、わざわざ頼んで代わってもらったと聞きました」
エーリク様は、しばらく黙っていた。炉の火が、ぱち、と鳴る。
「予言では、俺の火が君を焼く」
「……はい」
「それなら、俺の火は、俺の目の届くところに置いておく。俺の知らない場所で、俺の火が君を焼くことはない。だから」
「だから、わたしのそばを離れないことにした、と」
「そうだ」
わたしは、額に手を当てた。
「エーリク様。わたしが婚約を解消したのは、あなたの火から離れるためです」
「知っている」
「離れた先に、毎回あなたがいらっしゃるんですけれど」
「灯り係だからな」
真顔だった。この人が冗談を言うのを、わたしは一度も聞いたことがない。
「それに、毎回火を噴き上げるのは、どうなんですか」
「……あれは」
エーリク様は、炉の火に目を落とす。
「あれは、隙間風じゃない」
「知っています」
「副長は、君に手仕事をやめろと言った。学者は、君の硝子しか見ていなかった。俺は、口で言うのが下手だ。言葉を探しているうちに、火のほうが先に出る」
炉の火が、少しだけ大きくなる。エーリク様は、それを手のひらで押しとどめるようにした。
「次は、出さない。君の縁談だ。選ぶのは君で、俺の火が邪魔をしていいものじゃない」
わたしは何か言おうとして、言葉を見つけられなかった。
代わりに、炉の前にしゃがみこむ。火の具合を見るふりをして、炎の先に指を差し入れた。
いつもどおり、熱くない。春の陽だまりに手を浸したような、温かさだけがある。
「イルゼ」
婚約を解消してから、初めて名前を呼ばれた。
「君は昔から、俺の火に平気で触る」
「灯具師の手は、火に強いんです」
「……そうか」
エーリク様は、何か言いたげな顔をした。けれど結局、それ以上は何も言わずに立ち上がる。
「炉は、朝までもつ。おやすみ」
扉が閉まる。炉の火だけが、いつまでも穏やかに燃えていた。
◇
3度目のお相手は、子爵家の三男のテオ様。王都の外れで温室を営み、薬草を育てている方だという。
腕に、小さな鉢植えを抱えている。白い花が、いくつも咲いていた。
「お近づきのしるしに。熱に強い花ですから、工房に置いても大丈夫です」
穏やかな声に、日に焼けた優しい手。ヒルデガルト様は水盤の向こうで目を細めている。星の詠みでも、今度こそ相性がいいと出たらしい。
灯り係の椅子には、エーリク様。指を鳴らして、星灯に火を入れる。
火は、小さかった。豆粒ほどの火が、芯の先でじっと動かない。
テオ様が口を開く前に、わたしは自分から言った。
「先にお伝えしておきます。わたしは嫁いでも、灯具を作るのはやめません。工房も手放しません」
テオ様は目を丸くして、それから笑った。
「もちろんです。僕も、温室はやめませんから」
いい人だ、と思う。
話は穏やかに進んだ。温室の話、薬草の話、硝子の話。テオ様は、硝子の秘伝を一度も尋ねなかった。
ただ、部屋が少しずつ寒くなっていく。
最初に気づいたのはノア様だ。水盤の縁に、白い霜が降りている。ヒルデガルト様の吐く息も、白い。
テオ様の鉢の白い花が、うっすらと凍りはじめていた。
「あの……この部屋、冷えますね」
テオ様が、遠慮がちに外套の前を合わせる。
わたしは、壁際を振り返った。
エーリク様は、膝の上で両手を固く握りしめている。唇まで白い。睫毛に、細かな霜がついていた。
「炎術師が火を抑えこみすぎると、まわりの熱まで呑みこんでしまうのです……」
ノア様が、歯を鳴らしながら小声で解説する。
次は出さない、と言った、あの夜の約束。この人は本当に、一度も火を出さないつもりなのだ。部屋ごと凍らせてでも。
不思議なことに、わたしの指先だけは冷えなかった。卓に降りた霜も、わたしの前だけは避けている。豆粒ほどの火が、わたしの側にだけ、ほのかな温もりを寄越していた。
テオ様は凍った花をしばらく見つめ、それから静かに席を立つ。
「ロウェル嬢。今日はとても楽しかった。あなたとなら、きっと穏やかに暮らせると思います」
「テオ様」
「でも、この部屋の寒さは、あの方が我慢している分だけ寒いのでしょう」
テオ様は、壁際のエーリク様に目をやる。
「人にあれだけの我慢をさせて結ぶ縁は、僕の温室では育ちそうにありません」
テオ様は凍った鉢をわたしの手に預け、一礼して出ていった。
扉が閉まった途端、星灯の火がぼっと戻る。部屋じゅうの霜が、みるみる溶けていく。
ヒルデガルト様が震える手で杖をつき、立ち上がった。
「……ブレナー殿。そなたを、灯り係から外す」
「大星詠み殿」
「火を出しても駄目、出さずとも駄目じゃ。次からは、別の灯り係を寄越してもらう」
エーリク様は、何も言わなかった。霜で濡れた睫毛を、黙って伏せる。
噂は、またたく間に広がった。
塔の見合いに出ると、眉を焦がされるか、使い魔に本音をばらされるか、凍えるか。そのどれかだという。星が選んだ次の候補たちは、会う前にそろって辞退してきた。
困り果てたヒルデガルト様が、とうとう最後の候補を連れてくる。ご自分の孫だ。
「身内びいきではない。星が選んだのじゃ。たまたま孫だっただけじゃ」
そう言い張る大星詠み様の隣で、ノア様がそっと目をそらしていた。
◇
最後の見合いの場に選ばれたのは、塔の最上階。あの詠みの間だ。
お相手のヨナス様は、魔力をほとんど持たない文官だ。火も水も風も使えない。ヒルデガルト様いわく、「燃えも凍えもせん、いちばん安全な男」。
その日、わたしは朝から星灯の手入れをした。硝子を磨き、芯を替え、火呑みの口の具合を確かめる。最上階の星灯は、塔の灯具の中でいちばん古い。曾祖父が作り、父が直してきたものだ。
詠みの間に入ると、灯り係の椅子に座っていたのは、カスパル様だった。
「やあ、ロウェル嬢。今日の灯り係は、わたしが仰せつかりました」
人懐っこい笑顔。回廊でのことを思い出して、わたしは指先をそっと握りこむ。
エーリク様の姿は、どこにもない。
水盤を挟んで、ヨナス様とわたしが向かい合う。ヒルデガルト様とノア様が水盤を構え、扉の脇には塔の衛士が二人控えている。
「では、火を」
カスパル様が指を鳴らす。星灯に、薄緑の火が点った。
ヨナス様は、緊張で耳まで真っ赤になっている。祖母に引っぱられてきたのだと、最初に正直に打ち明けてくれた。悪い人ではない。ただ、見合いのあいだじゅう、祖母の顔色ばかりうかがっている。
ノア様が水盤をのぞきこみ、詠みが始まろうとした、そのとき。
星灯の火が、弾けた。
薄緑だったはずの火が、星灯の口から噴き出しながら色を変える。赤に、金の縁。炎はわたしの椅子のまわりをぐるりと走り、輪になってわたしを閉じこめた。
「ロウェル嬢!」
ヨナス様が叫んで、椅子ごとひっくり返る。
炎の輪の内側で、わたしは立ち上がった。熱い。頬が、髪が、熱い。
「ブレナーだ!」
カスパル様の声が、詠みの間に響き渡る。
「この色を見ろ。ブレナーの火だ。外から星灯に火を飛ばしたんだ。予言のとおりだ!」
ノア様が、真っ青な顔で炎の色を見つめている。赤に、金の縁。見合いのたびに、塔の誰もが見てきた色だ。
扉が、乱暴に開け放たれる。
「イルゼ!」
エーリク様だった。
灯り係を外されてからも、この人は来ていたのだ。扉の外で、ずっと待っていたのだ。婚礼前の星詠みの日と、同じように。
「押さえろ!」
カスパル様が叫ぶ。衛士たちがエーリク様に飛びかかり、両腕をつかんで床に膝をつかせた。その手首に、魔封じの枷がはめられる。
「離せ。あれは俺の火じゃない」
「この期に及んで何を。見合いのたびに火を暴れさせていたのは、王宮じゅうが知っている!」
炎の輪が、じりじりと狭まってくる。
わたしの袖の端が、焦げた。
熱い。息を吸うたびに、喉が焼ける。炎の向こうに、衛士に押さえつけられたエーリク様の目が見える。鳶色の目が、わたしだけを見ている。
一面の炎。そのすぐ向こうの、エーリク様の目。
星が見せた景色だ、と思った。
ここで、わたしは目を閉じるのだ。
――違う。
焦げた袖口と、赤くなった指先を見下ろす。
熱い。
この火は、熱いのだ。わたしを焼いている。
エーリク様の火は、10年のあいだ、一度もわたしを焼かなかった。芯を整えるとき、素手で触れても。最初の見合いで、副長の眉を焦がすほど噴き上がったときでさえ、わたしの袖を温めて通り過ぎていっただけ。
灯具師の手は火に強いからな。父はいつもそう笑う。でも、回廊でカスパル様の写した火に触れたとき、わたしの指先はちゃんと焼けた。
わたしの手が、強かったのではない。
あの人の火が、わたしを焼かなかったのだ。
「これは、エーリク様の火ではありません」
炎の輪の中から、わたしは声を張り上げた。
「この火は、わたしを焼いています。だから、エーリク様の火ではありません」
詠みの間が、しんと静まる。
「何を馬鹿な」
カスパル様が、鼻で笑う。
「焼かれたから違う、ですか。令嬢、恐ろしさで頭が」
「……いや」
低い声で遮ったのは、ヒルデガルト様だった。
「最初の見合い。火は副長の眉を焼いたが、ロウェル嬢の前でだけ曲がった。わしは、この目で見ておった」
「3度目もです」
ノア様が、震える声で続く。
「あれだけ部屋が凍えたのに、ロウェル嬢の前だけ、霜が降りていませんでした。火が、ロウェル嬢にだけ温もりを寄越していたんです」
カスパル様の顔から、笑みが消えた。炎の輪が、ぐん、と勢いを増す。
わたしは、星灯に手を伸ばした。
星灯は、炎の輪のすぐ内側、卓の上にある。硝子は焼けて、触れれば手のひらが焦げるだろう。
構わない。この灯具は、曾祖父が作り、父が直し、今朝わたしが磨いたものだ。どこに何があるかは、目をつぶっていても分かる。
肩掛けを手に巻きつけて、星灯をつかむ。芯の下の、火呑みの口を開く。
ごう、と音がした。
わたしを取り囲んでいた炎が、渦を巻いて、星灯の口に吸いこまれていく。輪が、端からほどけていく。
硝子の中で、呑みこまれた火が暴れる。
赤に、金の縁。
その色が、硝子の内側で、はがれ落ちた。
化粧を落とすように、赤がはがれ、金がはがれ、最後に残ったのは若葉のような薄緑。
「……カスパルの火じゃ」
ヒルデガルト様が、呆然とつぶやく。
宮廷で、写し火の座興を見たことのない者はいない。カスパル様が最初に灯してみせる、あの薄緑を。
「黙れ!」
カスパル様が、両手を突き出した。今度は化粧もしていない薄緑の火が、まっすぐわたしに向かって走る。
その火を、横から別の火が呑みこんだ。
赤に、金の縁。
エーリク様の手首で、魔封じの枷が赤く溶け落ちている。衛士の手を振りほどいたエーリク様の火が、詠みの間いっぱいに広がっていく。薄緑の火を食い尽くし、わたしのまわりを包みこむ。
一面の炎。
けれど、少しも熱くない。春の陽だまりの中にいるように、ただ温かい。
炎のすぐ向こうに、エーリク様の目がある。
予言の景色はこれなのかもしれない。一瞬だけ、そんな考えがよぎる。
でも、わたしは目を閉じなかった。
星灯を胸に抱えたまま、まっすぐカスパル様をにらみつける。最後まで、この目で見届けるつもりだった。
ヒルデガルト様の杖が、カスパル様の後頭部を打つ。いい音がした。
「衛士! 押さえるのは、こっちじゃ!」
床に押さえつけられたカスパル様を見下ろして、ヒルデガルト様は杖にすがり、その場に座りこむ。
「筆頭の座欲しさに、予言を逆手に取りおったか……。塔が縁談で騒ぎ立てたせいで、王宮じゅうが予言を知っておった。見合いのたびに火が暴れることもな。そこへブレナー殿の色の火でロウェル嬢を焼けば、誰もが予言のとおりだと思う」
「でも、塔の方々が見ていてくださったから、助かりました」
それは、本当のことだ。見合いのたびに、火がわたしを避けて通るのを見ていたのは、塔の方々なのだから。
エーリク様の火が引いていくと、詠みの間には焦げた匂いと、ひっくり返ったままのヨナス様と、わたしたちが残った。
エーリク様が、わたしの前に立つ。焦げた袖口を見て、赤くなった指先を見て、眉を寄せた。
「……すまない。もっと早く」
「エーリク様のせいではありません」
「俺の色だった」
「でも、熱かったんです。だから、あなたの火じゃないと分かりました」
エーリク様は、黙りこむ。
答えは、本当はもう知っている。灯具師なら誰でも知っていることだ。炎術師の火は、術師の心に従う。術師が焼きたくないと思うものは、焼かない。
それなのに、わたしは10年間、自分の手が強いせいだと思いこんでいた。
「エーリク様。どうして、あなたの火はわたしを焼かないんですか」
それでも、聞かずにはいられない。この人の口から、聞きたかった。
エーリク様は、しばらく床に目を落としている。それから、ゆっくり顔を上げた。
「10年前、君は指を焦がして泣いていた」
「……はい」
「あのとき、決めた。俺の火は、二度と君を焼かない。君の灯具には、俺が火を入れる」
いつもより、少しだけ早い声だった。
「それから、君の作った灯具に、最初の火を入れてきた。ひとつ残らず覚えている。最初の不格好なランプも、去年の冬の、鳥の形をした灯も」
「エーリク様」
「工房の棚に、火の入っていない灯具が並んでいた」
エーリク様の手が、わずかに震えている。
「あれに、俺が火を入れたい。この先の分も、全部。……もう一度、婚約を申し込ませてほしい」
わたしは星灯を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。
焦げた袖口が、ちりちりと痛む。痛いのに、胸のほうがもっと熱い。
「お願いが、あります」
「何でも」
「これから先、火が出たときに、隙間風のせいにしないでください」
エーリク様が、目を瞬かせる。
「……そのときは、何と言えばいい」
「何に怒ったのか、言葉で言ってください。火より先に」
エーリク様は少し考えて、うなずいた。
それから、わたしの腕から星灯をそっと取り上げ、卓に置く。
「では、言う」
詠みの間に、ふわりと火が広がった。
赤に、金の縁。床から天井まで、一面の炎。けれど、どこも焦げない。誰も熱がらない。ひっくり返ったままのヨナス様が、目を丸くしている。
「これは、怒っているんじゃない」
すぐそこに、エーリク様の目がある。
「嬉しいんだ」
炎の中で、鳶色の目が近づいてくる。
わたしは、目を閉じた。
水盤のそばで、ヒルデガルト様が「あ」と声を漏らすのが聞こえる。
「大星詠み様、これは……」
「……言うな、ノア」
「あの日、水盤に映っていたのは」
「言うなと言うておる。塔が建って以来の、詠み違いじゃ」
炎の中で、わたしは目を閉じている。
生涯でいちばん大事な景色だと、星は言った。そのとおりだと思う。
◇
翌朝、工房の棚の灯具に、ひとつずつ火が入った。
暗いままだった灯具が、端から順に明るくなっていく。赤に、金の縁。
最後のひとつに火を入れ終えると、エーリク様はわたしの指先の火傷に目を留めて、眉を寄せた。棚じゅうの灯りが、いっせいにぼっと背を伸ばす。
「隙間風ですか」
「……違う。心配している」
ちゃんと、言葉で言えている。
わたしは笑って、棚いっぱいの灯りを見上げた。
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