妹の婚約者に家督を譲ることになりましたので、借金もすべてお引き継ぎください
六年間、伯爵家の実務を回してきた長女が「次期当主の座を譲れ」と言われる話です。
争う代わりに、引継ぎをきちんと済ませて家を出ます。
「クラリス。次期当主の座は、ソフィアの夫に譲ってもらう」
父がそう言ったのは、夕食の苺タルトが半分ほどなくなった頃だった。
私はフォークを止めた。
「夫、と申しますと」
「レオナルドだ。婚姻と同時に我が家へ養子に入れる。王家への後継者変更の申請も出す」
向かいに座る妹のソフィアが、気まずそうに笑う。
その隣には婚約者のレオナルド・バートン男爵令息。
二人とも、もう話は聞いていた顔だった。
「お姉様、ごめんなさい」
「何が?」
「だって、お姉様はずっと跡を継ぐものだと思っていたでしょう?」
「そのつもりではいましたね」
帳簿の読み方。
税の取り方。
小麦の相場。
水路の補修。
使用人の雇用。
王都の商人との交渉。
母が亡くなった十八歳からは、それが教育ではなく仕事になった。
今年で六年目だ。
「王国法では女性当主も認められているでしょう」
そう言うと、父は少しだけ顔をしかめた。
「認められてはいる。だが私は、領地の今後を考えた」
父は私を見ず、レオナルドへ視線を寄せる。
「バートン家との繋がりは悪くない。レオナルドは王立学院で領地行政を学んでいる。お前一人に実務が偏っている状態も、いつまでも続けるべきではない」
最後の一言には、少しだけ同意した。
ただ、解決方法がこれだとは思わなかった。
レオナルドが姿勢を正す。
「クラリス義姉上。これまでのご苦労は父上から聞いています。帳簿も引継ぎ資料も、きちんと学ぶつもりです」
「そうですか」
「急に全部を変える気もありません」
思っていたよりまともな返事だった。
だから私も、一度だけ確認した。
「決定なのですね?」
「ああ」
父が答えた。
「お前には後継者辞退書へ署名してもらう」
「分かりました」
ソフィアが目を丸くする。
「……それだけ?」
「反対してほしいの?」
「そうじゃないけど」
私はタルトの皿を横へ寄せた。
「では、明日の朝、家令と顧問弁護士、それから会計係を集めてください」
父の眉が動く。
「何のためだ」
「引継ぎです」
「そこまで急がなくても」
「後継者を変えるなら、早い方がいいでしょう」
少し考えてから付け足す。
「債務もありますので」
父はすぐに頷いた。
「昨日の残高で三万八千二百。うち八千がグレイス商会だな」
今度は私の方が少し驚いた。
「確認されたのですね」
「後継者を変えるのに、そこを見ずに決めたわけではない」
レオナルドも口を開く。
「毎月の不足分を、グレイス商会からの短期貸付でつないでいることも伺っています。承継後は借入を一本化して、返済計画を組み直すつもりでした」
「そうですか」
それなら話は早い。
私は残った苺をフォークで切った。
「では、借金も含めて、全部お引継ぎいたしますね」
「もちろん、そのつもりだ」
「ただし」
父とレオナルドがこちらを見る。
「グレイス商会からの新規貸付は、私が後継者を退く時点で終了します」
レオナルドの表情が初めて変わった。
「……継続の相談もできない、という意味ですか」
「相談はできます。ただ、貸すことを前提にはできません。グレイス商会は伯爵家の資金部門ではありませんから」
◇
翌朝。
会議室の机へ、私は三十二枚の一覧表を並べた。
父。
レオナルド。
家令オスカー。
会計係。
顧問弁護士。
ソフィアは最初だけ同席していたが、数字が続き始めて十五分ほどで黙った。
「金貨三万八千二百枚」
レオナルドが一覧の最下段を指でなぞる。
「昨日伺った残高と一致しています。王都銀行と商人組合が三万二百、グレイス商会が八千」
「はい」
「確認したいのは、この八千です」
彼が数字を指す。
「これは伯爵家に設定された恒常的な融資枠ではなく、その都度、クラリス義姉上が貸付を承認していた?」
「そうです」
父が眉を寄せた。
「毎月の不足分をグレイスから借りていることまでは承知していた。だが、継続が完全にお前個人の判断だとは認識していなかった」
「そこは私の説明不足です」
グレイス商会は、母から相続した私有財産を元手に始めた事業だ。
六年前、領地で羊毛が余った。
六年前、領地で羊毛が余った。
市場へ出しても値が付かず、保管するほど傷んでいく。
母から相続した私有財産の一部を使って、村の女性たちへ織物の仕事を頼んだ。
最初に売ったのは、王都の市場にある小さな露店だった。
次に染色工房を借りた。
仕立職人を雇った。
店が一つ増えた。
また増えた。
今では王都に三店舗、地方に七店舗。
伯爵家とは別に、商業院へ私個人名義で登記してある。
会計係が咳払いした。
「グレイス商会からの貸付は、帳簿上も短期借入金として処理しております。ただし、将来の貸付を保証する契約はございません」
レオナルドが小さく息を吐いた。
「つまり、資金繰りが回っていたのは事実でも、その前提の一つがクラリス義姉上個人の判断だった」
「はい」
父がこちらを見る。
「お前は毎月の報告に『資金繰りに問題なし』と書いていた」
返事が一拍遅れた。
「……書いていました」
「だから私は、少なくとも引継ぎ期間中は同じ条件で回せるものと思っていた」
その言い分には理があった。
嘘を書いたつもりはない。
実際、私が不足分を貸せる間は回っていた。
けれど「問題なし」の前に、本当は一言必要だったのだ。
――私が補填を続ける限りは、と。
「そこは、私の説明不足です」
ソフィアがこちらを見る。
「お姉様でも、そういうことあるんだ」
「ありますよ」
「なんか意外」
「失礼ね」
少しだけ空気が緩んだ。
レオナルドは帳簿をめくり続けている。
「年間税収は、およそ一万一千」
「そのうち、平年に返済へ回せるのは?」
「二千四百前後です。災害がなければ」
「なら、借入の一本化だけでは足りませんね。固定支出も削る必要がある」
「はい」
レオナルドは帳簿へ視線を落とした。
「なぜ、ここまで増えたんです?」
「六年前に冷害。翌年は洪水。その次が家畜病です。収入が落ちた間も固定支出をあまり減らせませんでした」
「東棟の改装は?」
父が目を逸らす。
「私の判断だ」
「ソフィアの成人祝いは?」
「……それもだ」
ソフィアが小さくなる。
「結婚式の予定費用は、まだ債務に入っていません」
「いくら?」
「現状の見積もりで金貨二千枚ほど」
「縮めます」
レオナルドが即答した。
ソフィアが横を見る。
「え」
「二千は無理だ。会場も料理も見直す」
「でも、もう招待状は」
「まだ変更できる」
二人の間に、初めて小さな亀裂のようなものが見えた。
私は口を挟まなかった。
これからは、二人が決めることだ。
「それで」
レオナルドが私へ向き直る。
「グレイス商会からの貸付は、今後も続けてもらえますか」
「いいえ」
彼は黙った。
「後継者を辞退する以上、家計と私の事業を切り分けます。すでに貸している八千枚については、無利息のまま返済期限を三年後へ延ばします」
「追加は?」
「しません」
父が息を吐く。
「随分きっぱりしているな」
「そうしないと、引継ぎにならないでしょう」
これだけは、昨日から決めていた。
「ただし三週間は残ります。取引先、債権者、領地の責任者には私から紹介します。帳簿も手順書も全部渡します」
レオナルドが少し驚いたように見えた。
「そこまで?」
「途中で投げる方が、私が困ります」
六年間やった仕事だ。
最後くらいは、きれいに閉じたかった。
◇
三週間は、思っていたより短かった。
朝はレオナルドと帳簿。
昼は取引先への挨拶。
午後は領地から来た報告の読み方を教えた。
彼は数字に弱いわけではなかった。
ただ、学院で習う帳簿と、実際の家計は違う。
「この『予備費』、毎年多すぎませんか」
「橋が落ちたり、倉庫の屋根が飛んだりするので」
「そんなに?」
「去年は牛も逃げました」
「牛」
「三十七頭」
彼はしばらく黙ってから、予備費の欄へ線を引くのをやめた。
父とも二度、言い争った。
舞踏会の費用を減らすか。
王都の別邸を維持するか。
私がいた頃なら、面倒になって自分の商会から金を入れていたかもしれない。
今思えば、それが一番よくなかった。
問題を解決していたのではなく、見えなくしていた。
後継者変更の承認が届いた日。
私は執務室の鍵をレオナルドへ渡した。
「ここから先は、あなたの仕事です」
「……はい」
「分からないことがあれば、三か月以内なら文書で質問を受けます。一週間に一度まとめてください」
「毎日では駄目ですか」
「私にも仕事があります」
レオナルドは苦笑した。
「そうでしたね」
◇
屋敷を出たのは、その三日後だった。
二十四年暮らした家にしては、荷物は馬車二台で収まった。
玄関前にはオスカーがいた。
「お嬢様」
「その呼び方も今日までね」
「では、社長」
「早すぎます」
彼の足元にも鞄がある。
「……まさか」
「退職願は昨日受理されました」
「どうして?」
「七十を前に、新しい仕事を試してみたくなりまして」
「今まで十分働いたでしょう」
「まだ働けます」
後ろから会計係も出てきた。
こちらも鞄を持っている。
「あなたまで?」
「私は面接を希望します。採用されるとは思っていません」
全員が付いてくる、という話ではなかった。
侍女長は残る。
庭師長も残る。
料理長は王都の別の店へ移るらしい。
それで当然だ。
人には人の都合がある。
「分かりました」
私は二人を見る。
「商会に来るなら、普通に採用試験を受けてください」
「もちろんでございます」
オスカーがやけに嬉しそうだ。
「元伯爵家の使用人だからといって、優遇はしませんよ」
「望むところです」
◇
一か月後。
グレイス商会の本部で帳簿を見ていると、受付から知らせが来た。
「先代伯爵がお見えです」
父だった。
後継者変更に伴って領地の実務はレオナルドへ移り、父は表向きの当主を続けながら段階的に退くことになっている。
会議室へ入ると、父は以前より疲れて見えた。
「忙しいところ悪い」
「どうしました?」
「短期で金を借りたい」
怒鳴られるものと思っていたので、少し拍子抜けした。
「金額は?」
「六百」
「用途は」
「今月の給金。返済日と重なった」
私は黙って計算する。
伯爵家からグレイス商会への既存債務は八千。
追加で六百。
「無担保では貸せません」
父の眉が寄る。
「娘相手でもか」
「娘だからこそです。また同じことになります」
少し沈黙したあと、父が笑った。
疲れた笑い方だった。
「耳が痛いな」
「王都の別邸を担保にするなら、商会として審査します」
「売るつもりだった」
「なら、先に売却を進めた方がいいかもしれません」
「給金が間に合わん」
「商会で領地の羊毛を前払い購入する方法ならあります。市場価格で」
父はしばらく考えた。
「それで頼む」
「商談ですね」
「ああ」
そこでようやく、父と私は家族ではなく取引相手として話した。
◇
三か月後。
伯爵家は王都の別邸を売った。
馬車も一台減った。
ソフィアの結婚式は延期された。
私は何もしなかった。
取引先へ圧力をかけてもいない。
債権者を急かしてもいない。
一方で、伯爵家も何もしなかったわけではない。
レオナルドは借入の一本化を進めた。
父は社交費を減らした。
領地の水路工事だけは削らなかった。
それで、すぐ豊かになるわけではない。
けれど翌月の給金は、自分たちで払ったと聞いた。
私はその報告に、思っていたよりほっとした。
◇
半年後。
ソフィアが一人で商会へ来た。
以前より地味な服だったが、本人は気にしていないようだった。
「レオナルド様との婚約、解消したの」
「そう」
「もっと驚いてよ」
「理由を聞いてからにする」
「そういうところ、お姉様よね」
紅茶を入れる。
「お金がなくなったから?」
「半分は違う」
「半分は?」
「一緒に家計を立て直してみたら、私たち、びっくりするくらい話が合わなかった」
少し笑ってしまった。
「笑うところ?」
「ごめんなさい」
「レオナルド様は毎日数字の話ばかり。私は最初、何とかなると思ってた。結婚式も小さくしたくなかったし」
「うん」
「でも、帳簿を一緒に見せられて。何とかならないんだって分かった」
ソフィアはカップを両手で持つ。
「レオナルド様が悪い人だったわけじゃない。でも、私が好きだったのは舞踏会で会うレオナルド様だったみたい」
「そういうこともあるでしょうね」
「お父様には泣かれた」
「でしょうね」
「それで私、しばらく働こうと思う」
嫌な予感がした。
「ここで?」
「駄目?」
「面接は受けて」
「妹なのに」
「妹だからよ」
ソフィアは口を尖らせた。
昔なら、そこで父に言いつけたかもしれない。
今回は少し考えてから言った。
「何を勉強すればいい?」
「まず計算」
「嫌」
「では不採用」
「やる」
返事だけは早かった。
◇
一年後。
グレイス商会の新本店が完成した。
一階は店舗。
二階は事務所。
三階は倉庫と小さな執務室。
最初の計画では私の部屋をもっと広くする予定だったが、布の置き場が足りなくなって半分に削った。
仕事をしていれば、だいたいそんなものだ。
「社長」
採用試験を通って、今では総務を手伝っているオスカーが顔を出す。
「バートン家から商談です」
「何の?」
「従者用制服、百二十着」
「条件は?」
「相見積もりです」
「なら普通に見積もりを出して」
「レオナルド様のご実家ですが」
「だから?」
言ってから、あの婚約のことを思い出した。
「ああ。そういう意味」
「お忘れでしたか」
「少し」
オスカーが肩を揺らした。
「笑いました?」
「いいえ」
「今、笑ったでしょう」
彼が出ていったあと、窓を開けた。
遠くに伯爵邸の尖塔が見える。
父は領地の一部を手放したが、主要な農地は残した。
借金も、以前よりは減ったらしい。
私はもう帳簿を見ていない。
ソフィアは採用試験に一度落ち、二度目で受かった。
今は地方店で研修中だ。
机の上には、今日中に確認しなければならない見積書が六枚ある。
その一枚を取ったところで、扉がまた開いた。
「社長、染色工房からです。見本の青が指定と違うそうで」
「どの青?」
「『夜明け前の空色』です」
「それ、番号で発注してって前にも言いましたよね」
「職人が『番号では色に魂がない』と」
「……今行きます」
立ち上がる。
家督を譲って一年。
人生が静かになったかと言えば、全然そんなことはなかった。
ただ。
今度の面倒事は、自分で選んだものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「家督を譲れ」と言われた主人公が、家族を破滅させるのではなく、
仕事とお金をきちんと切り分けて家を出たらどうなるか――というところから書いた短編です。
楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで反応をいただけると、今後の作品づくりの参考になります。
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