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妹の婚約者に家督を譲ることになりましたので、借金もすべてお引き継ぎください

作者: 空席あり
掲載日:2026/09/21

六年間、伯爵家の実務を回してきた長女が「次期当主の座を譲れ」と言われる話です。

争う代わりに、引継ぎをきちんと済ませて家を出ます。

「クラリス。次期当主の座は、ソフィアの夫に譲ってもらう」


 父がそう言ったのは、夕食の苺タルトが半分ほどなくなった頃だった。


 私はフォークを止めた。


「夫、と申しますと」


「レオナルドだ。婚姻と同時に我が家へ養子に入れる。王家への後継者変更の申請も出す」


 向かいに座る妹のソフィアが、気まずそうに笑う。


 その隣には婚約者のレオナルド・バートン男爵令息。


 二人とも、もう話は聞いていた顔だった。


「お姉様、ごめんなさい」


「何が?」


「だって、お姉様はずっと跡を継ぐものだと思っていたでしょう?」


「そのつもりではいましたね」


 帳簿の読み方。

 税の取り方。

 小麦の相場。

 水路の補修。

 使用人の雇用。

 王都の商人との交渉。


 母が亡くなった十八歳からは、それが教育ではなく仕事になった。


 今年で六年目だ。


「王国法では女性当主も認められているでしょう」


 そう言うと、父は少しだけ顔をしかめた。


「認められてはいる。だが私は、領地の今後を考えた」


 父は私を見ず、レオナルドへ視線を寄せる。


「バートン家との繋がりは悪くない。レオナルドは王立学院で領地行政を学んでいる。お前一人に実務が偏っている状態も、いつまでも続けるべきではない」


 最後の一言には、少しだけ同意した。


 ただ、解決方法がこれだとは思わなかった。


 レオナルドが姿勢を正す。


「クラリス義姉上。これまでのご苦労は父上から聞いています。帳簿も引継ぎ資料も、きちんと学ぶつもりです」


「そうですか」


「急に全部を変える気もありません」


 思っていたよりまともな返事だった。


 だから私も、一度だけ確認した。


「決定なのですね?」


「ああ」


 父が答えた。


「お前には後継者辞退書へ署名してもらう」


「分かりました」


 ソフィアが目を丸くする。


「……それだけ?」


「反対してほしいの?」


「そうじゃないけど」


 私はタルトの皿を横へ寄せた。


「では、明日の朝、家令と顧問弁護士、それから会計係を集めてください」


 父の眉が動く。


「何のためだ」


「引継ぎです」


「そこまで急がなくても」


「後継者を変えるなら、早い方がいいでしょう」


 少し考えてから付け足す。


「債務もありますので」


 父はすぐに頷いた。


「昨日の残高で三万八千二百。うち八千がグレイス商会だな」


 今度は私の方が少し驚いた。


「確認されたのですね」


「後継者を変えるのに、そこを見ずに決めたわけではない」


 レオナルドも口を開く。


「毎月の不足分を、グレイス商会からの短期貸付でつないでいることも伺っています。承継後は借入を一本化して、返済計画を組み直すつもりでした」


「そうですか」


 それなら話は早い。


 私は残った苺をフォークで切った。


「では、借金も含めて、全部お引継ぎいたしますね」


「もちろん、そのつもりだ」


「ただし」


 父とレオナルドがこちらを見る。


「グレイス商会からの新規貸付は、私が後継者を退く時点で終了します」


 レオナルドの表情が初めて変わった。


「……継続の相談もできない、という意味ですか」


「相談はできます。ただ、貸すことを前提にはできません。グレイス商会は伯爵家の資金部門ではありませんから」


     ◇


 翌朝。


 会議室の机へ、私は三十二枚の一覧表を並べた。


 父。

 レオナルド。

 家令オスカー。

 会計係。

 顧問弁護士。


 ソフィアは最初だけ同席していたが、数字が続き始めて十五分ほどで黙った。


「金貨三万八千二百枚」


 レオナルドが一覧の最下段を指でなぞる。


「昨日伺った残高と一致しています。王都銀行と商人組合が三万二百、グレイス商会が八千」


「はい」


「確認したいのは、この八千です」


 彼が数字を指す。


「これは伯爵家に設定された恒常的な融資枠ではなく、その都度、クラリス義姉上が貸付を承認していた?」


「そうです」


 父が眉を寄せた。


「毎月の不足分をグレイスから借りていることまでは承知していた。だが、継続が完全にお前個人の判断だとは認識していなかった」


「そこは私の説明不足です」


 グレイス商会は、母から相続した私有財産を元手に始めた事業だ。


 六年前、領地で羊毛が余った。


 六年前、領地で羊毛が余った。


 市場へ出しても値が付かず、保管するほど傷んでいく。


 母から相続した私有財産の一部を使って、村の女性たちへ織物の仕事を頼んだ。


 最初に売ったのは、王都の市場にある小さな露店だった。


 次に染色工房を借りた。


 仕立職人を雇った。


 店が一つ増えた。


 また増えた。


 今では王都に三店舗、地方に七店舗。


 伯爵家とは別に、商業院へ私個人名義で登記してある。


 会計係が咳払いした。


「グレイス商会からの貸付は、帳簿上も短期借入金として処理しております。ただし、将来の貸付を保証する契約はございません」


 レオナルドが小さく息を吐いた。


「つまり、資金繰りが回っていたのは事実でも、その前提の一つがクラリス義姉上個人の判断だった」


「はい」


 父がこちらを見る。


「お前は毎月の報告に『資金繰りに問題なし』と書いていた」


 返事が一拍遅れた。


「……書いていました」


「だから私は、少なくとも引継ぎ期間中は同じ条件で回せるものと思っていた」


 その言い分には理があった。


 嘘を書いたつもりはない。


 実際、私が不足分を貸せる間は回っていた。


 けれど「問題なし」の前に、本当は一言必要だったのだ。


 ――私が補填を続ける限りは、と。


「そこは、私の説明不足です」


 ソフィアがこちらを見る。


「お姉様でも、そういうことあるんだ」


「ありますよ」


「なんか意外」


「失礼ね」


 少しだけ空気が緩んだ。


 レオナルドは帳簿をめくり続けている。


「年間税収は、およそ一万一千」


「そのうち、平年に返済へ回せるのは?」


「二千四百前後です。災害がなければ」


「なら、借入の一本化だけでは足りませんね。固定支出も削る必要がある」


「はい」


 レオナルドは帳簿へ視線を落とした。


「なぜ、ここまで増えたんです?」


「六年前に冷害。翌年は洪水。その次が家畜病です。収入が落ちた間も固定支出をあまり減らせませんでした」


「東棟の改装は?」


 父が目を逸らす。


「私の判断だ」


「ソフィアの成人祝いは?」


「……それもだ」


 ソフィアが小さくなる。


「結婚式の予定費用は、まだ債務に入っていません」


「いくら?」


「現状の見積もりで金貨二千枚ほど」


「縮めます」


 レオナルドが即答した。


 ソフィアが横を見る。


「え」


「二千は無理だ。会場も料理も見直す」


「でも、もう招待状は」


「まだ変更できる」


 二人の間に、初めて小さな亀裂のようなものが見えた。


 私は口を挟まなかった。


 これからは、二人が決めることだ。


「それで」


 レオナルドが私へ向き直る。


「グレイス商会からの貸付は、今後も続けてもらえますか」


「いいえ」


 彼は黙った。


「後継者を辞退する以上、家計と私の事業を切り分けます。すでに貸している八千枚については、無利息のまま返済期限を三年後へ延ばします」


「追加は?」


「しません」


 父が息を吐く。


「随分きっぱりしているな」


「そうしないと、引継ぎにならないでしょう」


 これだけは、昨日から決めていた。


「ただし三週間は残ります。取引先、債権者、領地の責任者には私から紹介します。帳簿も手順書も全部渡します」


 レオナルドが少し驚いたように見えた。


「そこまで?」


「途中で投げる方が、私が困ります」


 六年間やった仕事だ。


 最後くらいは、きれいに閉じたかった。


     ◇


 三週間は、思っていたより短かった。


 朝はレオナルドと帳簿。


 昼は取引先への挨拶。


 午後は領地から来た報告の読み方を教えた。


 彼は数字に弱いわけではなかった。


 ただ、学院で習う帳簿と、実際の家計は違う。


「この『予備費』、毎年多すぎませんか」


「橋が落ちたり、倉庫の屋根が飛んだりするので」


「そんなに?」


「去年は牛も逃げました」


「牛」


「三十七頭」


 彼はしばらく黙ってから、予備費の欄へ線を引くのをやめた。


 父とも二度、言い争った。


 舞踏会の費用を減らすか。


 王都の別邸を維持するか。


 私がいた頃なら、面倒になって自分の商会から金を入れていたかもしれない。


 今思えば、それが一番よくなかった。


 問題を解決していたのではなく、見えなくしていた。


 後継者変更の承認が届いた日。


 私は執務室の鍵をレオナルドへ渡した。


「ここから先は、あなたの仕事です」


「……はい」


「分からないことがあれば、三か月以内なら文書で質問を受けます。一週間に一度まとめてください」


「毎日では駄目ですか」


「私にも仕事があります」


 レオナルドは苦笑した。


「そうでしたね」


     ◇


 屋敷を出たのは、その三日後だった。


 二十四年暮らした家にしては、荷物は馬車二台で収まった。


 玄関前にはオスカーがいた。


「お嬢様」


「その呼び方も今日までね」


「では、社長」


「早すぎます」


 彼の足元にも鞄がある。


「……まさか」


「退職願は昨日受理されました」


「どうして?」


「七十を前に、新しい仕事を試してみたくなりまして」


「今まで十分働いたでしょう」


「まだ働けます」


 後ろから会計係も出てきた。


 こちらも鞄を持っている。


「あなたまで?」


「私は面接を希望します。採用されるとは思っていません」


 全員が付いてくる、という話ではなかった。


 侍女長は残る。


 庭師長も残る。


 料理長は王都の別の店へ移るらしい。


 それで当然だ。


 人には人の都合がある。


「分かりました」


 私は二人を見る。


「商会に来るなら、普通に採用試験を受けてください」


「もちろんでございます」


 オスカーがやけに嬉しそうだ。


「元伯爵家の使用人だからといって、優遇はしませんよ」


「望むところです」


     ◇


 一か月後。


 グレイス商会の本部で帳簿を見ていると、受付から知らせが来た。


「先代伯爵がお見えです」


 父だった。


 後継者変更に伴って領地の実務はレオナルドへ移り、父は表向きの当主を続けながら段階的に退くことになっている。


 会議室へ入ると、父は以前より疲れて見えた。


「忙しいところ悪い」


「どうしました?」


「短期で金を借りたい」


 怒鳴られるものと思っていたので、少し拍子抜けした。


「金額は?」


「六百」


「用途は」


「今月の給金。返済日と重なった」


 私は黙って計算する。


 伯爵家からグレイス商会への既存債務は八千。


 追加で六百。


「無担保では貸せません」


 父の眉が寄る。


「娘相手でもか」


「娘だからこそです。また同じことになります」


 少し沈黙したあと、父が笑った。


 疲れた笑い方だった。


「耳が痛いな」


「王都の別邸を担保にするなら、商会として審査します」


「売るつもりだった」


「なら、先に売却を進めた方がいいかもしれません」


「給金が間に合わん」


「商会で領地の羊毛を前払い購入する方法ならあります。市場価格で」


 父はしばらく考えた。


「それで頼む」


「商談ですね」


「ああ」


 そこでようやく、父と私は家族ではなく取引相手として話した。


     ◇


 三か月後。


 伯爵家は王都の別邸を売った。


 馬車も一台減った。


 ソフィアの結婚式は延期された。


 私は何もしなかった。


 取引先へ圧力をかけてもいない。


 債権者を急かしてもいない。


 一方で、伯爵家も何もしなかったわけではない。


 レオナルドは借入の一本化を進めた。


 父は社交費を減らした。


 領地の水路工事だけは削らなかった。


 それで、すぐ豊かになるわけではない。


 けれど翌月の給金は、自分たちで払ったと聞いた。


 私はその報告に、思っていたよりほっとした。


     ◇


 半年後。


 ソフィアが一人で商会へ来た。


 以前より地味な服だったが、本人は気にしていないようだった。


「レオナルド様との婚約、解消したの」


「そう」


「もっと驚いてよ」


「理由を聞いてからにする」


「そういうところ、お姉様よね」


 紅茶を入れる。


「お金がなくなったから?」


「半分は違う」


「半分は?」


「一緒に家計を立て直してみたら、私たち、びっくりするくらい話が合わなかった」


 少し笑ってしまった。


「笑うところ?」


「ごめんなさい」


「レオナルド様は毎日数字の話ばかり。私は最初、何とかなると思ってた。結婚式も小さくしたくなかったし」


「うん」


「でも、帳簿を一緒に見せられて。何とかならないんだって分かった」


 ソフィアはカップを両手で持つ。


「レオナルド様が悪い人だったわけじゃない。でも、私が好きだったのは舞踏会で会うレオナルド様だったみたい」


「そういうこともあるでしょうね」


「お父様には泣かれた」


「でしょうね」


「それで私、しばらく働こうと思う」


 嫌な予感がした。


「ここで?」


「駄目?」


「面接は受けて」


「妹なのに」


「妹だからよ」


 ソフィアは口を尖らせた。


 昔なら、そこで父に言いつけたかもしれない。


 今回は少し考えてから言った。


「何を勉強すればいい?」


「まず計算」


「嫌」


「では不採用」


「やる」


 返事だけは早かった。


     ◇


 一年後。


 グレイス商会の新本店が完成した。


 一階は店舗。


 二階は事務所。


 三階は倉庫と小さな執務室。


 最初の計画では私の部屋をもっと広くする予定だったが、布の置き場が足りなくなって半分に削った。


 仕事をしていれば、だいたいそんなものだ。


「社長」


 採用試験を通って、今では総務を手伝っているオスカーが顔を出す。


「バートン家から商談です」


「何の?」


「従者用制服、百二十着」


「条件は?」


「相見積もりです」


「なら普通に見積もりを出して」


「レオナルド様のご実家ですが」


「だから?」


 言ってから、あの婚約のことを思い出した。


「ああ。そういう意味」


「お忘れでしたか」


「少し」


 オスカーが肩を揺らした。


「笑いました?」


「いいえ」


「今、笑ったでしょう」


 彼が出ていったあと、窓を開けた。


 遠くに伯爵邸の尖塔が見える。


 父は領地の一部を手放したが、主要な農地は残した。


 借金も、以前よりは減ったらしい。


 私はもう帳簿を見ていない。


 ソフィアは採用試験に一度落ち、二度目で受かった。


 今は地方店で研修中だ。


 机の上には、今日中に確認しなければならない見積書が六枚ある。


 その一枚を取ったところで、扉がまた開いた。


「社長、染色工房からです。見本の青が指定と違うそうで」


「どの青?」


「『夜明け前の空色』です」


「それ、番号で発注してって前にも言いましたよね」


「職人が『番号では色に魂がない』と」


「……今行きます」


 立ち上がる。


 家督を譲って一年。


 人生が静かになったかと言えば、全然そんなことはなかった。


 ただ。


 今度の面倒事は、自分で選んだものだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「家督を譲れ」と言われた主人公が、家族を破滅させるのではなく、

仕事とお金をきちんと切り分けて家を出たらどうなるか――というところから書いた短編です。


楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで反応をいただけると、今後の作品づくりの参考になります。


空席あり

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妹の代わりに仕事しろ系の婚約者や家族でなくて良かったけど、自転車操業理解してないのはトップと次期トップとしてはやばい。
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