キトキトさん
「あ、キトキトさんが憑いてますね。最近、草のあるところで寝転んだりしましたか」
人づてに聞いて訪れた、雑居ビルの二階にある寂れた医院で、白衣の男はルーペで僕の耳を覗きながら言った。
「いえ、特には」
とっさに首を振りそうになったが、医師の指に顔を固定されているため堪え、呟くように短く答えた。
耳になにやらあてがわれたようで、ひやりとした物体が耳の中に差し込まれたのを感じる。
ずるり。
耳の穴から何かが引きずり出される感触におぞけが走ったが、ピンセットの先にぶら下がっているモノを見てあっと声が出た。
「やはり、見覚えがありますか」
うねうねと身じろぎする、黒い毛に覆われた小指の先ほどの細長い生き物。
「はい、三丁目の公園の近くで、道にいるのを見つけて。その時はもっと大きくて、猫かと思ったんだけど」
「触りましたか」
医師はなるほどというように頷いて、片手でデスク上の瓶を取り上げると、中身の飴をぶちまけて中にそれを放り込んだ。
きゅっ、と音を立てて固く蓋を閉める。
「こいつは繁殖期に、薄暗がりで猫のふりをして人間に近づくことがある」
蛍光灯の明かりに翳してみると、それは手足もなく、顔もなく、とても猫のようには見えない。
「触ってしまえば蕩けるようで、すべすべして、ふわふわして、どうしたって抱き上げたくなる。キトキトさんは穴が大好きで、その隙を狙って幼体を宿主に潜り込ませるんです」
「それって、寄生バチみたいな感じですか」
「そうそう、まあそんな感じ」
まえに何かの動画で見た虫の名を出すと、医師はあっさりと肯定する。
「えっじゃああの、腹を食い破って出ていったりとか」
たしかイモムシに産み付けられた卵は、宿主を中から食い荒らしながら育つ。
その末路を思い出して、背筋がひゅんとおぞけた。
「うーんまあ、ちょっと、ぽっかりはしますよね」
医師は摘出の済んだ患者には目もくれず、ルーペを出してキトキトさんの入った瓶を覗き込んでいる。
「あったはずのところに空洞ができちまうと、人間ってェのは落ち着かないもんなんですよ。でもまあ、こんなちっこいモノですしね。普通にしてたらそのうち塞がるんですがね」
「へえ」
そんなものなのか。思ったほど怖いものでもなさそうだ。
「──普通にしてれば、っていうのは」
「たまにね、いるんですよ。空いた隙間にまた、入れちまう人が。なんたって、すべすべで、ふわふわですからねえ」
──また、入れる?
この、黒くて、細長くて、尺取虫みたいのを?
「穴が、塞がりにくくなるってことですか」
「ええ。やめられなくなっちまったんでしょうね。この前の患者さんはね、隙間を埋めてほしくて、キトキトさんの巣まで行っちまったんです」
医師はどちらに肩入れしているのか分からないような口ぶりで、あやすように瓶を爪で叩いている。
「キトキトさんは穴が大好きでね。そりゃもう、耳の穴から、鼻の穴から、瞼の裏から……」
──ごくり。
自分の喉が鳴ったのが聞こえた。
「……どうなったんですか、その人」
「そりゃまあ、からっぽですよね。そりゃ。そのうちふさがるって言ってもね、さすがにね。ほとんど皮しかのこってなかったですから」
医師は天気の話でもするように言いながら、サラサラと書きつけたシールを瓶にぺたりと貼り付けた。
「それで増えたのかもしれないですね、この辺。君も当分、草むらで寝転んだりしないようにね」
診察はそれで終わって、幸い自分はぽっかりすることもなく日常に戻った。
それからずっと、夜の猫には近づかない。
────────────────────────────────
東京怪異手帳 01:通称 キトキトさん。
発祥は富山県北部と言われ、多くは人気の少ない雑木林などを住み家とするが、近年では市街地での目撃情報も増えている。




