第9話:『虫除けの案山子』という打算的な采配
昼休みの終わりを告げる、初等部の豪奢なアンティーク・ベルが重厚な音色を響かせた。
「あ、もうお昼終わっちゃう! お絵かき、また明日だね!」
ガゼボの向かいの席で、泥だらけの野生児――雀が、スケッチブックとクレヨンを乱暴に鞄に押し込み始めた。
パラパラと、彼女の紺碧の制服から乾いた土の塵が大理石の床に落ちる。伊織はそれを見て微かに眉をひそめたが、今はその不潔さを咎めるよりも、もっと優先すべき「侵食」が迫っていた。
雀が帰り支度を始めたことに気づいた外周の令嬢たちが、「あの方がお帰りになりますわ!」「今こそ、伊織様のもとへ!」と、色めき立ってジリジリと距離を詰め始めていたのだ。
遮断されていた、あの甘ったるいハンドクリームの匂い。薔薇やバニラの重たくベタつくような香りが、初夏の風に乗って再び伊織の清浄な領域を犯し始める。
(……最悪だ。このまま彼女が行けば、またあの不純な群れに囲まれることになる)
「じゃあね、伊織ちゃん! またね!」
雀が泥のついた手をぶんぶんと振り、ガゼボの階段を降りようとした、その時。
「……待て」
氷点下の、しかし拒絶を許さぬ明確な命令が、伊織の白く透き通るような唇から紡がれた。
「ん? なあに?」
雀が振り返る。麦わら帽子の下で、お日様の熱をまとった屈託のない笑顔が伊織を見つめ返した。
伊織は優雅に洋書を閉じ、足を組み替えた。七歳の子供とは思えぬ、絶対的な権力者としての見下すような視線。彼は冷ややかな貌で、極めて傲慢に言い放った。
「明日もここへ来い」
「……え?」
「この僕が、特別にこのガゼボの席を貴様に使わせてやると言っているんだ。明日からも昼休みは、必ず僕の視界の端に座れ」
それは、伊織にとって「極めて打算的で合理的な采配」であった。
この泥だらけの防波堤がいなくなれば、再びあの人工的な花の海で呼吸を止める日々が始まる。それならば、多少目障りであっても、この野生児を定位置に繋ぎ止めておく方がはるかに効率が良い。
「えー? でも伊織ちゃん、昨日『目障りだから視界から消えろ』ってすっごく怒ってたじゃん。私、お洋服も泥だらけだし」
「……貴様が不潔で目障りなのは厳然たる事実だ。だが、役に立つ」
「役に立つ?」
伊織は、ガゼボの外で立ち往生している令嬢たちを氷のような一瞥で射抜き、再び雀に視線を戻した。
「ああ。貴様のその汚らしさは、あの鬱陶しい連中を遠ざけるのに極めて有効だ。……そう、貴様は優秀な『虫除けの案山子』だ。僕の安息を守るための、ただの道具として横に置くことを許可してやる」
あまりにも冷酷で、身も蓋もない言い草。
自分を「虫」と断じられた令嬢たちは、あまりの屈辱に顔を真っ赤にして打ち震えていた。
普通の少女であれば、自分を「道具」や「汚い案山子」扱いされたことに傷つき、泣き出してしまうだろう。
だが、伊織の前に立っているのは、あの鋼のポジティブモンスターである。
「……かかし。かかしって、あの畑に立ってるやつ?」
「そうだ。畑の作物を害鳥から守るだけの、ただの泥だらけの……」
「わぁっ! すっごーい!!」
パァァァッ!と、雀の顔がこれ以上ないほどに輝いた。
「そっか! 伊織ちゃん、いっつも女の子たちに囲まれて困ってたもんね! 私が横にいれば、みんな泥が怖くて近づけないから、私が伊織ちゃんを守る『かかし』になるってことだね!」
「…………は?」
伊織の完璧な計算式が、またしても未知の言語に変換されていく。
「まかせて! 私、伊織ちゃんの『かかし』になる! 明日も明後日も、ずっと隣で見張っててあげるから、安心していっぱいご本読んでいいよ!」
「ち、違う! 僕はただ、貴様を利用して……っ!」
「ふふんっ、照れなくてもいいよ! じゃあ明日もここね! 約束!」
雀は泥だらけの指でバチン!と、不格好なウインクを飛ばすと、今度こそ嵐のように駆け去っていった。その後ろ姿は、まるで「主君の静寂を護衛する、誇り高き騎士」のような足取りだった。
「……」
残された伊織は、白皙のこめかみにピキリと青筋を浮かべながら、深く、深く溜息をついた。
(なぜだ……。なぜ僕の冷徹な論理が、いつもあのような形にねじ曲げられる)
ともあれ、契約は成立した。
明日からも、あの泥だらけの特等席には、あの野生児が座り続けることになる。
伊織は、押し寄せる疲労感と、それ以上の「得体の知れない安堵感」を胸の奥に隠し込みながら、鬱陶しい花の海の中へと、無表情のまま歩き出した。
彼自身が、この「案山子」を自分の隣に縛り付けるための口実こそが、自分の理性を守る唯一の鎖であることに気づくのは――もう少し、先の話である。




