第8話:泥がもたらした、思いがけない静寂
私立住菱初等部の中庭。
白亜のガゼボの周囲には、この学び舎の如何なる規則にも記されていない、絶対的な「境界線」が引かれていた。
「ああ……伊織様のお隣に、あんな泥だらけの子が……」
「あんなに泥だらけだなんて。もし汚れがついちゃったら、このお洋服、もう着られなくなっちゃうわ。不潔だわ……」
半径十メートル。
それが、ガゼボを遠巻きに囲む令嬢たちが踏み込めない「泥の結界」の範囲だった。
彼女たちが指先に塗りたくった甘ったるいハンドクリームの匂いも、キャーキャーという高い嬌声も、今はその十メートル先で完全に遮断されている。
ガゼボの中心。円形のテーブルで、伊織は静かに洋書のページをめくった。
初夏の柔らかな風が、木漏れ日とともにガゼボを吹き抜けていく。
(……静かだ)
伊織は、本から目を離さないまま、小さく息を吐き出した。
入学して以来、昼休みという時間は、自分を「住菱の跡取り」という記号でしか見ない連中に囲まれ、見当違いなプレゼントを押し付けられるだけの、呼吸さえ苦しい時間だった。
だが今はどうだ。
十ページ、二十ページと、物語の世界に深く潜り込んでも、誰にも邪魔されない。
肺が痛くなるような人工的な花の香りに惑わされることもなく、ただ風がページを揺らす音だけが心地よく耳に届く。
「ふふふーん、ふっふー♪」
……いや、風の音だけではない。
向かいの席から、絶望的に音程のズレた、間抜けな鼻歌が聞こえてくる。
伊織が僅かに視線を上げると、そこには特等席に陣取った泥だらけの防波堤――雀が、短い足をパタパタと揺らしながら、スケッチブックに何かを殴り書きしていた。
その手元は泥とクレヨンで黒く汚れ、頬にはどこで擦りむいたのか、真新しい絆創膏が貼られている。
最高級の紺碧の制服に包まれたこの学び舎において、彼女の存在はあまりにも異質な「汚れ」だ。むわっと漂う、お日様の熱と湿った土の匂い。
(相変わらず、ひどい有様だ。目障りで、不潔極まりない)
伊織は眉間を寄せ、忌々しげに彼女を睨みつけた。
しかし、唇から零れるのは冷たい拒絶ではなく、ただの小さな、微かな溜息だった。
雀が向かいに座ってからというもの、彼女は伊織に話しかけるでもなく、ただ自分の世界に没頭して絵を描き、時折外れた鼻歌を歌うだけだ。
(……自宅の庭で僕が言い渡した『喋るな、触るな』という約束を、一応は守っているらしい)
最初は、その土の匂いも、耳を塞ぎたくなるような鼻歌も、伊織の整った世界を乱す嫌な要素でしかなかった。
だが、十メートル先でハンカチを噛んでこちらを見ている令嬢たちの、あの執念深い視線とハンドクリームの海に溺れることに比べれば。
目の前で無害な置物として鼻歌を歌っているこの泥ザルの方が、はるかに「マシ」なのだ。
「……できたっ!」
不意に、雀が顔を弾けさせ、満面の笑みでスケッチブックを伊織の顔の前へ突き出してきた。
「! ……っ、急に動くな、埃が舞うだろう」
「ねえねえ伊織ちゃん、見て! 今日のお庭の絵! アリさんがいっぱいいるの!」
伊織は顔をしかめながら、目の前に突きつけられた紙を一瞥した。
そこには、黒いクレヨンで力強く描かれた、得体の知れない丸と線の集まりがあった。芸術性など欠片もない、ただの子供の落書きだ。
「……それがどうした。僕に見せるな。視界が汚れる」
「えー? すっごく上手に描けたのに! じゃあ、これは伊織ちゃんにあげる!」
「いらないと言っているだろう! 貴様の泥がついた紙なんて、誰が受け取るか!!」
伊織が氷のように冷たい声で怒鳴ると、ガゼボの外にいる令嬢たちが「ひぃっ! 伊織様がお怒りよ!」「やっぱりあんな汚い子、身の程知らずですわ!」と騒ぎ出した。
だが、当の雀は全く気にした様子もなく、「そっかぁ、伊織ちゃんは虫よりお花が好きだったもんね! 次はお花の絵を描いてあげる!」と勝手に納得し、またスケッチブックに向かって鼻歌を歌い始めた。
(……本当に、言葉が通じない相手だ)
伊織はどっと押し寄せる疲れとともに、こめかみを揉んだ。
しかし、その疲れは、令嬢たちに囲まれていた時の「息が詰まるような絶望」とは、少しだけ種類が違っていた。
伊織は再び、洋書に視線を落とす。
泥臭い匂い。外れた鼻歌。そして、十メートル先で足止めを食らっている鬱陶しい有象無象たち。
(……悪くない)
伊織は、美しい唇の端を、自分でも気づかぬほど僅かに持ち上げた。
誰も彼を一人の人間として見ず、「住菱の跡取り」としてしか扱わないこの窮屈な箱庭で。
ただ一人、伊織の威光にも見た目にも一切ビビらず、泥だらけの手でアリの絵を献上してくるこの鈍感な野生児。
(このサルを近くに置いておけば、僕の静寂は完璧に守られる。極めて合理的で、効率のいい案山子だ)
天才・住菱伊織は、この打算だらけの計算が、やがて自分の首を絞めるような「手放せない執着」へと変わっていくことなど、微塵も疑っていなかった。
彼にとって、雀はただの「便利な虫除け」であり、それ以上でも以下でもない――今は、まだ。




