第7話:歩く防波堤、名門校の門をくぐる
私立住菱初等部の中庭。
優雅な石造りのガゼボを囲む令嬢たちの人垣が、突如として現れた「異物」の気配にざわめいた。
「伊織ちゃーん!! アリの巣みっけ!!」
品位ある中庭の空気を力任せに切り裂くような、無遠慮で快活な大声。
見れば、最高級ウールの紺碧の制服であるはずのブレザーを無造作に腰に巻き、ブラウスの袖をまくり上げた雀が、こちらへ向かって突進してくるところだった。
両手は湿った泥で黒く汚れ、膝には真新しい絆創膏。名門の規律を鼻で笑うような、圧倒的な野生のオーラを放っている。会長の独断による特例入学とはいえ、その奔放さは留まるところを知らなかった。
「な、なんなのあの方は……っ」
「制服が泥だらけですわ! 不潔極まりない……!」
令嬢たちが一斉に顔をしかめ、手元から漂う薔薇や百合の甘ったるいハンドクリームの匂いが、動揺とともにふわりと揺れる。
しかし、雀はそんな冷ややかな視線などそよ風ほども意に介さず、パァッと顔を輝かせて、伊織のいるガゼボへと一直線に走ってきた。
「伊織ちゃーん! なにしてるの? また難しいご本読んでるの!?」
その瞬間だった。
「ひぃっ!? 泥が跳ねますわ!」
「いやあっ、あんな不潔な子が近づいてきたら……っ! 私たちまで汚れてしまうわ、下がりましょう!」
伊織を遠巻きに囲んでいた令嬢たちが、まるでモーゼの十戒のごとく、サァァァッ……!と波を打って左右に割れ、後退していったのだ。
特注の制服や高価な革靴を汚されることを何よりも恐れる彼女たちにとって、泥だらけで満面の笑みを浮かべて突進してくる雀は、自分たちの秩序を破壊する「不純な猛毒」も同然だった。
あっという間に、伊織の周囲十メートル四方から、肺を汚すような人工的な花の匂いが霧散した。
(…………ほう?)
伊織の氷のように冷たい瞳に、僅かな光が宿った。
天才的な頭脳の中で、瞬時にある論理が組み上がる。
『雀(泥) + 近接距離 = 鬱陶しい連中(匂いと嬌声)の完全排除』
「伊織ちゃん! 英語? すっごーい!」
雀が、伊織の座るテーブルのすぐ横に立ち、身を乗り出してページを覗き込んでくる。
いつもなら、「不潔だ。僕から半径二メートル以内に近づくな」と冷たく追い払うところだ。実際、伊織はこの泥だらけの生き物を、生理的に鬱陶しいと思っていることに変わりはない。
太陽の熱と湿った土の匂いが、むわっと鼻腔を突き、伊織の「清潔な領域」をかき乱す。
しかし、伊織はゆっくりと周囲を見渡した。
さっきまで耳障りな賛辞を並べていた女子たちは、雀の泥を恐れて、遠くの安全圏からハンカチを噛んで悔しがっている。彼女たちの声はもはや遠いざわめきに過ぎず、あの忌々しい油脂の匂いもここまでは届かない。
(……非常に、合理的だ)
伊織は、ゆっくりと洋書を閉じ、雀を見下ろした。
その瞳には、かつて庭で彼女を怒鳴りつけていた時のような、無益な拒絶の色はない。あるのは、冷徹な計算と、打算のみである。
「……おい、雀」
「ん? なあに?」
「そこに座れ」
伊織の絶対零度の命令。
周囲で様子を窺っていた令嬢たちが、「えっ……?」と息を呑む音が聞こえた。
あの高潔な王子が、あんな泥だらけの不純物を自分の「パーソナルスペース」に招き入れたのだから、無理もない。
しかし、雀の規格外のポジティブ脳は、この状況を全く別の物語へと変換していた。
「あ! 伊織ちゃん、もしかして……寂しかったの!?」
「…………は?」
「ごめんね! 伊織ちゃん、いっつも女の子たちに遠くから見られてるばっかりで、誰も隣に座ってくれないもんね。みんな、伊織ちゃんが頭良すぎてビビってるんだよ!」
雀の瞳には、伊織の「圧倒的な権威と孤高の姿」が、なぜか「周りが気後れして誰も近づいてくれない、可哀想な孤独」に映っていたのだ。
「ち、違う! 僕は一人で思索に耽るのが好きで……っ!」
「いいよいいよ、遠慮しなくて! 私がずっと隣に座っててあげるからね!」
雀は泥をパンパンと払った手(※全然払えていない)を胸に当て、誇らしげに言い放つと、伊織の向かいの席にドスッと腰を下ろした。
令嬢たちが「ああっ、あの泥娘が伊織様のガゼボに……!」と悲鳴を上げる。
「……勝手にしろ」
伊織は呆れたように視線を逸らし、再び本を開いた。
向かいからは、雀が足をパタパタと揺らし、相変わらず音程の外れた鼻歌を小さく漏らす音が聞こえる。
うるさい。泥臭い。全くもって目障りだ。
だが――。
あの息の詰まるハンドクリームの匂いに囲まれる煩わしさに比べれば、はるかに、肺に優しい。
(……まあいい。この異物が近くにいれば、他の有象無象が寄ってこない。便利な『案山子』としては、最高に機能している)
伊織は、完全に打算100%の冷徹な計算で、彼女を自分の「領域」に置くことを許可したのだった。
この時はまだ、誰も気づいていない。
打算で置いたはずのその「防波堤」に、伊織自身が狂おしいほど依存していくことになる未来など。
そして、この日から住菱初等部において、「氷の王子と泥だらけの案山子」という、奇妙で不変な構図が誕生することになったのである。




