第6話:息の詰まる初等部と、まとわりつく熱狂
私立住菱初等部。
そこは、日本を動かす名家の子女たちが集う、選ばれし者だけが許された「黄金の箱庭」である。
春のうららかな陽射しが、手入れの行き届いた桜並木を揺らす美しいキャンパス。だが、入学して間もない住菱伊織(七歳)にとって、そこは地獄のように息の詰まる閉鎖空間でしかなかった。
「ああ……今日の伊織様も、氷のように冷たくてお美しいわ……!」
「声をおかけしても、伏せられた長い睫毛が影を落とすだけで……あの冷徹な視線に射抜かれたいですわ……っ」
昼休み。中庭の奥、重厚な石造りのガゼボで洋書を開く伊織の周囲には、すでに幾重もの「人垣」が築かれていた。
伊織は、本に落としていた視線をゆっくりと上げ、凍てついた瞳で周囲を掃くように一瞥した。
最高級ウールの紺碧の制服。丁寧な刺繍の入ったブラウス。
同年代の令嬢たちは、皆、頬を上気させて伊織を見つめているが、その瞳の奥には「住菱の正統なる跡取り」という権力への計算と、親から言い含められたであろう打算が透けて見えた。
(……鬱陶しい。肺の奥まで汚れていくようだ)
伊織は、僅かに眉間に皺を寄せた。
令嬢たちが競うように塗りたくった、甘ったるいハンドクリームの匂い。薔薇、百合、バニラ――体温によって温められ、発酵したような油脂の人工的な香りが混ざり合い、密閉された空気となって鼻腔を突く。
呼吸をするたびに、逃げ場のない甘ったるい重圧が伊織の精神をじわじわと摩耗させていった。
「あの……伊織様。こちら、我が家の専属パティシエが焼いたマカロンですの。よろしければお茶のお供に……」
一人の令嬢が、震える手で美しい小箱を差し出した。
伊織は、その箱を見ることもなく、ただ絶対零度の声で言い放った。
「……要らない。見ず知らずの人間の皮脂がついた菓子など、僕の舌に触れさせる価値もない。下がれ」
七歳の子供が放ったとは思えない、残酷なまでの拒絶。
令嬢は顔を真っ青にして後ずさったが、周囲の女子たちはそれに同情するどころか、さらに熱を帯びたため息を漏らした。
「ひぃっ……! なんて冷酷なお言葉……!」
「媚びへつらう者を一瞥で切り捨てる、あの孤高の姿……まさに氷の王子様ですわ!」
(……理解不能だ。なぜそうなる)
伊織はこめかみを強く揉みほぐした。
どんなに鋭利な言葉を投げても、彼女たちはそれを「王子様の魅力」という身勝手なフィルターで浄化してしまう。
この毒々しい花園には、自分の言葉を正しく受容する者は一人もいない。
「千堂」
伊織が低く呼ぶと、ガゼボの入り口で控えていた専属秘書、千堂鏡が、音もなく歩み寄ってきた。
「はい、伊織坊ちゃま」
「……この不快な群れを、今すぐ僕の視界から排除しろ。油脂の匂いで頭が狂いそうだ」
伊織の苛立ちは限界に達していた。
しかし、感情を削ぎ落とした処理班である千堂は、恭しく一礼しながらも、淡々とした声で答えた。
「お言葉ですが、坊ちゃま。彼女たちは皆、住菱グループにとって無視できぬ重役や名家のご令嬢です。物理的に排除することは容易ですが、のちの社交界での波風を考慮いたしますと、坊ちゃまご自身で『適度にあしらう』術を身につけていただくのが、次期当主としての……」
「御託はいい!!」
伊織はバンッ!と重厚な装丁の洋書を閉じ、テーブルを睨みつけた。
理屈はわかっている。だが、この息苦しい空間で、これから六年間も耐え忍ばなければならないのかと思うと、暗澹たる気分になった。
(……どこか。どこかに、この鬱陶しい連中を遠ざけ、僕の静寂を守れる『絶対的な防壁』はないのか……!)
伊織は、本邸の庭で感じていた、あの「土と草の匂い」を痛烈に欲していた。
あの日、東屋で感じたあの野生児の存在感。
彼女の放つ強烈な生命力の匂いさえあれば、この甘ったるいハンドクリームの海を押し流してくれるのではないか。
伊織が苛立ちとともにそんなことを考えていた、まさにその時である。
「あーーっ!! 伊織ちゃーーーん!!」
品位ある中庭の空気を、無遠慮に切り裂くような元気な大声。
伊織の肩がピクリと跳ねた。
ガゼボを遠巻きに囲んでいた令嬢たちが、「な、何事ですの!?」と一斉に振り返る。
そこに立っていたのは――。
名門の制服を泥だらけにし、紺碧のスカートを翻しながら、太陽のように笑う野生児、雀だった。
「……例の、特等生(特待生)?」
「ええ……。会長の恩義を笠に着て、身分不相応な場所に上がり込む泥ザルだという噂の……」
令嬢たちが汚物を見るような目で彼女を蔑む中、雀はそんな視線などそよ風ほども気にせず、伊織に向かって突進してきた。
「伊織ちゃん! 私、お庭のお手伝い終わったよ! 先生にも『会長特約の宿題』終わらせたから遊んでいいって言われたの!」
雀がガゼボに踏み込んだ瞬間。
――むわっとした、お日様の熱と、湿った土の匂い。
伊織は、思わず深く、深く息を吸った。
令嬢たちが塗りたくった毒々しいハンドクリームの匂いが、雀の放つ「生命の匂い」に、文字通り一瞬で押し流されたのだ。
「ひぃっ!? 泥が飛ぶわ、近寄らないで!」
「不潔ですわ! なんて野蛮な……!」
令嬢たちが一斉に距離を取り、ガゼボの周囲に「空白の地帯」が生まれた。
伊織は、その光景に薄く冷たい笑みを浮かべた。
(…………見つけた)
伊織は、冷徹な打算100%の瞳で、隣に並んだ泥だらけの少女を見つめた。
彼女がいれば、僕の静寂は保たれる。
会長の恩義という最強の免罪符を持ち、誰からも嫌われ、誰からも恐れられるこの不純な「異物」こそが。
「おい、雀。……明日からも、必ず僕の隣にいろ」
伊織は、彼女の泥のついた手を汚らわしそうに避けながらも、その存在を自分の聖域に「契約」した。
これが、氷の王子の完璧な秩序を守るための、最も合理的で、最も致命的な打算の始まりだった。




