第29話:防波堤への干渉と、塗り潰されていく余裕
夏目瑞樹の背中が、白亜のガゼボから遠ざかっていく。
彼が纏っていたアールグレイの香りが初夏の風に溶けて消え、再び雀の放つ「お日様の熱と湿った土の匂い」だけが、住菱伊織の清浄な領域を満たしていった。
しかし、伊織の胸の奥で荒れ狂う嵐は、少しも収まる気配を見せなかった。
『君は、何の権利があってそれを止めるの?』
『彼女を引き留める正当な理由なんて、一つもないんだよ』
瑞樹の残した残酷な言葉が、伊織の鼓膜で何度も、何度も反響している。
(……権利だと?)
伊織は大理石のテーブルの上で、先ほどまで雀の腕を直接掴んでいた右手を、ギリッと強く握り込んだ。
泥だらけの肌に素手で触れたというのに、伊織の極度な潔癖症は全く警報を鳴らさなかった。それどころか、掌にはまだ、あの小動物のようなひどく温かい熱がこびりついて離れない。
「ねえ、伊織ちゃん。もしかして、お腹すいてるの?」
「……は?」
重苦しい沈黙を破ったのは、あまりにも場違いな、間延びした声だった。
雀が、自分の箸の先で宙ぶらりんになっている「タコさんウインナー」と伊織の顔を、交互に不思議そうに見比べている。
「さっき、瑞樹くんが食べようとした時、すごい勢いで手首掴んだから。伊織ちゃん、本当は私のタコさん、食べたかったのかなって……」
「なっ……!! 誰が、そんな不衛生で得体の知れない赤い物体を……ッ!!」
「ちがうの? じゃあ、やっぱり風向き?」
きょとんと首を傾げる雀。その鋼のポジティブさと、他人の悪意や情欲を微塵も察しない鈍感さに、伊織は眩暈すら覚えた。
だが、同時に気づいてしまう。
この無防備さこそが、瑞樹のような腹黒い輩を容易に引き寄せてしまうのだと。
(……他の男のために、綺麗に着飾るだと?)
ふたたび、どす黒い独占欲が伊織の理性を塗り潰していく。
絶対に嫌だ。
僕以外の男のために、この泥だらけの指先が綺麗に洗われることなど、断じて許さない。正当な理由がないと言うのなら、僕の権力で強引に縛り付けてやる。
ガタッ!!
伊織は猛然と立ち上がると、大理石のテーブルに両手をつき、雀の顔のすぐ目の前まで、凄絶なまでに整った貌を近づけた。
「……ひぃっ!?」
「い、伊織様が、あの泥娘にまたお顔を近づけて……ッ!!」
ガゼボの外周を取り囲む紺碧の制服の群れから、ふたたび悲鳴が上がる。
令嬢たちが塗りたくる薔薇やジャスミンの甘ったるいハンドクリームの淀みが、激しい動揺によって波立ち、結界のすぐ外で渦を巻いた。
「よく聞け、雀」
伊織の低く、地を這うような声。
その漆黒の瞳は、雀を逃さぬよう真正面から射抜いていた。
「お前は僕の『防波堤』だ。僕の視界を清浄に保つための、僕だけの道具だ。……ゆえに、僕の許可なく、他の男にその不快な弁当を見せるな。他の男の言葉に安易に耳を貸すな」
それは、七歳の頃のようなただの「潔癖症の我儘」ではなかった。
明確な執着と、自らの所有物を誰にも触れさせまいとする「オス」の独占欲に満ちた、呪縛の言葉だった。
「お前は一生、その泥だらけの不格好な姿のままで、僕の視界の端に座っていればいい。……他の有象無象に愛想を振りまくなど、僕の環境維持の観点から絶対に許さない」
『他の男のために綺麗になるな』という、伊織なりの最も不器用で、最も身勝手なプロポーズまがいの所有宣言。
それを聞いた外野の令嬢たちは、またしても盛大な勘違いの涙を流した。
「ああ! 伊織様が、あの泥娘に『他の殿方にみだりに近づくな』と厳重注意を与えていらっしゃるわ!」
「ええ、学園の風紀を守るため、あの卑しい女を自らの監視下に置き、一生泥だらけの惨めな姿でいさせようというのね……っ! なんて気高く、慈悲深い懲罰かしら!」
外野が勝手な感動に打ち震える中。
普通なら、こんな理不尽で傲慢な命令を下されれば、恐怖で泣き出すか、怒って逃げ出すだろう。
しかし、伊織が執着しているこの野生児の思考回路は、伊織の完璧な頭脳をもってしても予測不可能な領域にあった。
「……ふふっ」
至近距離で睨みつけられているというのに、雀は嬉しそうに、太陽のような笑顔を咲かせたのだ。
「なんだ、伊織ちゃん。もしかして、瑞樹くんに私を取られそうになって、ヤキモチ焼いてるの?」
「なっ……!! 誰が……ッ!!」
図星を突かれた伊織が、カッと貌を赤くして言葉を詰まらせる。
「大丈夫だよ! 私のタコさん……じゃなくて、私のかかしの任務は、伊織ちゃんだけのものだもん! 瑞樹くんが来ても、ちゃんと伊織ちゃんを一番に守ってあげるから安心して!」
雀は、ドンッと自分の胸を叩き、満面の笑みで請け負った。
「私、伊織ちゃんがご本を読み終わるまで、ずっとずーっと、この泥だらけの席で見張っててあげる!」
「…………」
伊織は、その言葉を聞いた瞬間、自分でも信じられないほど深く、安堵の息を吐き出していた。
天才的な論理も、極度の潔癖症も、もはやどうでもよかった。
この泥だらけの温もりが、明日も、明後日も自分に向けられるという確約だけで、さっきまで狂いそうに軋んでいた理性が、嘘のように穏やかな凪を取り戻していく。
「……当たり前だ。僕の命令に背けば、即座にこの特等席から追放するからな」
伊織は、顔を背け、再び優雅な動作で椅子に腰を下ろした。
口から出る言葉は相変わらず冷酷で高慢だが、その態度は、先ほどまでの激昂が嘘のように落ち着きを取り戻している。
瑞樹の投下した劇薬は、伊織に「焦燥」を与えただけでなく、彼の中にある「雀を絶対に手放さない」という狂気じみた決意を、より一層強固なものへと鍛え上げてしまったのだ。
氷の王子が、自らの手で巨大な鳥籠の扉に、重く冷たい鍵をかけた瞬間であった。




