第23話:腹黒貴公子の遊戯と、鈍感すぎる案山子
翌日の昼休み。
私立住菱初等部の中庭、白亜のガゼボは、かつてない異常事態に見舞われていた。
「わあ、すずめちゃんのお弁当、すごく美味しそうだね。彩りも綺麗だし、なんだか温かい匂いがする」
「えへへー! 今日はね、お父さんが早起きして作ってくれたんだよ! 卵焼きも甘いやつ!」
ガゼボの中心。特注の大理石テーブルに、信じられない光景が広がっていた。
完璧な紺碧の制服を着こなした夏目瑞樹が、昨日の宣言通り、本当に雀の隣――伊織の「絶対領域」のすぐ側――に優雅に腰を下ろしているのである。
ガゼボの外周にひしめく令嬢たちは、瑞樹の登場に色めき立ちながらも、あの泥だらけの野生児と親しげに話す姿に「どうして瑞樹様があんな泥娘と……っ」とハンカチを噛み締めていた。
彼女たちが放つ甘ったるいハンドクリームの淀みは、瑞樹が纏う上品なアールグレイの香りと、雀の放つお日様と土の匂いが混ざり合った奇妙な空気によって、今日も弾き返されている。
だが、その中心で一人、端正な貌を夜叉のように凍らせている少年がいた。
(……馴れ馴れしい。極めて不愉快だ)
住菱伊織は、洋書の活字を睨みつけながら、ギリッと奥歯を鳴らした。
瑞樹の存在そのものが、伊織の完璧な箱庭に投下された異物である。
雀は、あくまで伊織が「虫除けの案山子」として、この特等席に置くことを特別に許可しただけの道具だ。それなのに、なぜ瑞樹がその隣に座り、あまつさえ楽しげに言葉を交わしているのか。
「……瑞樹。僕の視界で、品性の欠片もない庶民の弁当箱を広げるな。不潔な油の匂いが僕の思索を邪魔する」
伊織が絶対零度の声で牽制するが、瑞樹はふわりと天使のような微笑みを浮かべたまま、全く堪えた様子がない。
「ひどいな、伊織。せっかくすずめちゃんが自慢のお弁当を見せてくれているのに。……ねえ、すずめちゃん。この端っこに入っている赤いものは何?」
瑞樹が、白く細い指先で雀の弁当箱の隅を指差した。
伊織の冷ややかな視線も、無意識にそこへ引き寄せられる。
それは、最高級の食材しか口にしたことのない伊織や瑞樹の人生において、決して交わることのないチープな色彩だった。
毒々しいほどの赤色。無造作に切り込みを入れられ、油で炒められたことで脚が反り返った、奇妙な形状の加工肉。
「あっ、これね! タコさんウインナー!! 私、これが世界で一番好きなの!」
「たこさん、ういんなー……?」
瑞樹が面白そうに目を細める。
「うん! すっごくおいしいんだよ! 伊織ちゃんも見る? ほら、タコさん!」
雀が、あろうことかその「不潔極まりない赤い物体」を箸でつまみ上げ、伊織の目の前へ無邪気に突き出してきたのだ。
「……っ!! 気安く僕に近づけるな馬鹿者!! そんな得体の知れない着色料の塊など、視界に入るだけで吐き気がする!」
伊織は身を仰け反らせ、心底嫌悪に満ちた声で怒鳴りつけた。
住菱の跡取りである伊織にとって、栄養素も素材も不明なその安っぽい食べ物は、泥粘土以上に「触れてはならない不純物」だった。
「えー? おいしいのに……。伊織ちゃんは、おいしいものがいっぱいあるお家の子だから、タコさんはいらないかぁ」
雀は少しだけ残念そうに唇を尖らせると、箸を持った手を引いた。
(そうだ。そんな不衛生なものを、僕が口にするわけがない。……だから、さっさとその見苦しい弁当箱を閉じて、本来の案山子の役割に戻れ)
伊織が冷酷にそう言い放とうとした、その瞬間だった。
「……へえ。伊織がいらないなら、僕がもらってもいいかな?」
「えっ?」
瑞樹の甘く、妖艶な囁きが、初夏の風に乗ってガゼボに響いた。
「僕、そういう庶民的なもの、一度食べてみたかったんだよね。すずめちゃんが世界で一番好きだっていうなら、なおさら。……一口、味見させてくれない?」
瑞樹が、長い睫毛を伏せ、雀を上目遣いで見つめる。
令嬢たちであれば、その瞬間に魂を抜かれて卒倒するほどの、計算し尽くされた完璧な「強請り」の表情。
「いいよ! はい、瑞樹くん!」
鈍感すぎる案山子は、その腹黒い思惑など微塵も察することなく。
真っ赤なタコさんウインナーをつまんだ箸を、無防備な笑顔のまま、瑞樹の端正な口元へと向かって「あーん」と差し出してしまったのである。
「…………ッ!!!」
その瞬間。
伊織の胸の奥で、これまで経験したことのない、どす黒く、暴力的な衝動が爆発した。
なぜ、僕の道具が、僕以外の男に食事を与えようとしている。
なぜ、あの男が、僕の特等席で僕の案山子に触れようとしている。
天才の完璧な論理武装が、凄まじい音を立てて崩壊していく。
「……ありがとう、すずめちゃん。それじゃあ――」
瑞樹が、嗜虐的な笑みを隠しながら、その赤いウインナーを咥えようと口を開きかけた、まさにその刹那。
ガタッ!!!
伊織の座っていた重厚な椅子が、乱暴に弾き飛ばされた。




