第22話:招かれざる微笑みと、白亜のガゼボの侵入者
私立住菱初等部の中庭。
昼休みの白亜のガゼボは、いつものように目に見えない「絶対の境界線」に守られていた。
ガゼボの外周を取り囲む、幾重にも重なる紺碧の制服の群れ。
彼女たちの指先から揮発する、薔薇やジャスミンの甘ったるいハンドクリームの淀みは、初夏の生ぬるい風に乗ってガゼボへと忍び寄ろうとするが――特等席に陣取る雀の「お日様の熱と土の匂い」によって、見事に中和され、弾き返されている。
その清浄な空気の中で、住菱伊織は優雅に洋書のページをめくっていた。
視界の端には、泥だらけの膝を揺らしながら、クレヨンでスケッチブックを塗りつぶす野生児。
完璧な均衡。完璧な静寂。
伊織にとって、この箱庭は自らの呼吸を保つための、誰にも不可侵の領域であるはずだった。
「……ごきげんよう、レディたち。少しだけ、道を開けてもらえるかな」
不意に、ガゼボの外周から甘く柔らかな声が響いた。
途端に、紺碧の群れから「ひゃっ」「瑞樹様……!」と、熱を帯びた嬌声が上がる。
伊織が微かに眉間を寄せて視線を上げると、令嬢たちの人垣が、まるで魔法にかけられたようにモーセの海のごとく割れていくところだった。
その道を通って、一人の少年がガゼボの階段を上ってくる。
色素の薄いサラサラとした髪に、ふわりと咲き誇るような天使の微笑み。夏目瑞樹だ。
彼は、令嬢たちが「泥が跳ねるから」と決して踏み込もうとしないその十メートルの結界を、一切の躊躇なく、優雅な足取りで踏み越えてきた。
「やあ、伊織。今日も相変わらず、難しい顔をして本を読んでいるんだね」
瑞樹は、伊織の氷点下の視線など全く意に介さず、ひらりとガゼボの中へと足を踏み入れた。
「……何用だ、瑞樹。僕の視界を塞ぐな。お前の纏うわざとらしい紅茶の匂いが、僕の思索を著しく阻害する」
伊織は、絶対零度の声で短く切り捨てた。
普段なら、これだけで相手は凍りついて退散する。だが、相手は同格の御曹司であり、伊織の「ポンコツな裏側」を幼少期から観察し続けてきた男である。
「冷たいなぁ。ただ、君の『特等席』が今日も平和そうだから、少し挨拶に来ただけだよ」
瑞樹の視線が、伊織からスッと横へスライドした。
その先には、突然現れたキラキラした訪問者に目を丸くしている雀がいた。
「……君が、すずめちゃん、だよね?」
瑞樹は、泥だらけの雀に向かって、令嬢たちに見せるのと同じ――いや、それ以上に甘く、蠱惑的な微笑みを向けた。
「えっ? あっ、うん! 雀だよ! えーっと……あっ! ずっと昔のパーティーで会った、キラキラの男の子だ!」
雀がパァッと顔を輝かせて身を乗り出す。
瑞樹はクスクスと喉の奥で笑い、「覚えていてくれて嬉しいよ」と、雀の泥だらけのテーブルに手をついて、スッと顔を近づけた。
「……おい」
伊織の喉の奥から、地を這うような低い唸り声が漏れた。
洋書を持つ白皙の指先に、ギリッと力がこもる。
(……この男は、何をしているんだ)
伊織の胸の奥で、ドス黒い炭火に油を注がれたような、猛烈な苛立ちが爆発した。
雀は、僕の読書環境を守るための案山子だ。僕の視界の端で、ただ泥臭い匂いを放ちながら、僕のためだけにそこにおとなしく座っていればいい存在だ。
それなのに、なぜ瑞樹が気安く話しかけている。なぜ、あの泥ザルは瑞樹に向かって、あんなに満面の笑みを向けているんだ。
「君の絵、すごく個性的だね。……ふふっ、手、こんなに泥だらけにして」
「あはは! 今日はね、図工で最強のツチノコ……じゃなくて、ライオンを作ったんだよ!」
「へえ、見せてよ。……すごいね、伊織はこんな素敵なものを毎日特等席で見せてもらっているんだ。羨ましいな」
瑞樹が、雀の短い前髪にそっと指先を伸ばそうとした、その瞬間。
バンッ!!!
ガゼボの大理石のテーブルを、伊織の手のひらが激しく叩きつけた。
「……ひぃっ!」
外周にいた令嬢たちが、その凄まじい音と伊織の放つ明確な殺気に悲鳴を上げる。
「……僕の案山子に、気安く触れるな」
伊織の声は、静かだった。
だが、その声音には、吹雪のような冷たさの中に、ドロドロに煮えたぎる「明確な所有欲」が混じっていた。
「僕の領域で、僕の許可なく無駄口を叩くな。……瑞樹、二度と言わせるなよ。今すぐそこから離れろ」
血も凍るような眼光で睨みつける伊織。
しかし瑞樹は、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろしながら、微塵も怯えることなく、むしろ極上の喜劇を見つけたように唇を吊り上げた。
「……ははっ、ごめんごめん。君の『大事な虫除け』の邪魔をするつもりはなかったんだ」
瑞樹は両手を軽く上げて降参のポーズをとったが、その瞳の奥には、嗜虐的で酷薄な光がギラギラと輝いていた。
「じゃあ、また明日。……今度は、僕もここでお弁当を広げさせてもらおうかな。すずめちゃん、いいよね?」
「うんっ! いいよ! 一緒に食べよ!」
「……貴様ら、僕の言葉が聞こえなかったのか……っ!!」
伊織の激昂を背に受けながら、瑞樹はひらひらと手を振り、優雅な足取りでガゼボを立ち去っていった。
残された伊織は、怒りで肩を震わせ、ギリッと奥歯を噛み締めている。
(……不愉快だ。極めて不愉快だ。あの男が僕の静寂を乱したせいで、ひどく気分が悪い。そうだ、僕が苛立っているのは、僕の『道具』が他人に使用されそうになったことへの、純粋な不快感に過ぎない)
天才・住菱伊織のポンコツな論理武装は、もはや千堂でなくとも失笑を禁じ得ないほどに破綻し始めていた。
腹黒貴公子の投下した劇薬は、氷の王子の分厚い仮面に、決定的な亀裂を入れようとしていた。




