第2話:完璧な箱庭に現れた、招かれざる野生児
住菱本邸の日本庭園は、伊織にとってこの世で唯一、まともな呼吸を許される聖域だった。
樹齢数百年の見事な松、寸分の狂いもなく敷き詰められた白砂、そして静寂を深めるように時折響く、鹿威しの澄んだ音。計算し尽くされた美しさと静けさだけが存在するこの空間には、耳障りなお世辞も、値踏みするような大人たちの視線も届かない。
初夏の風が通り抜ける東屋で、伊織は一人、分厚い洋書を開いていた。
(……ようやく、あの嫌悪すべき残り香が消えた)
数日前の夜、あの広間を満たしていた、令嬢たちの塗りたくった甘ったるいハンドクリームの匂い。体温で温められ、油脂の不純物と混ざり合ったあの人工的な花の香りは、伊織にとっては精神を逆撫でする「汚れ」そのものだった。
あの夜、得体の知れない泥だらけの侵入者にペースを乱された屈辱も、この完璧な静寂の中に浸っていれば、やがて白砂に吸い込まれるように消えていくはずだった。
――その、完璧な静寂が不躾に破られたのは、次の瞬間のことだった。
「ふふふーん、ふーん、ふっふー♪」
鹿威しの風流な音色を力任せに踏みつけるような、絶望的に音程の外れた陽気な鼻歌。
伊織の肩がピクリと跳ねた。
(……なんだ、この品性のない音は)
不快感に眉をひそめ、声のする方へ鋭い視線を向ける。サツキの植え込みの間から、青いプラスチックの小さなジョウロを持った影がひょっこりと現れた。
麦わら帽子に、泥だらけの首筋。
太陽の熱と、湿った土の匂いをぷんぷんとまとったその姿は、間違いなくあの日、伊織の髪からカメムシをむしり取った「野生児」――雀だった。
「あーーっ!!」
ジョウロで水を撒いていた雀が、東屋にいる伊織を見つけるなり、パァッと顔を輝かせた。
「この間のお姫様だ! また会えたね!」
「……っ、誰がお姫様だ! 僕は男だと言っただろう!」
伊織は弾かれたように立ち上がり、氷のように冷たい声で言い放った。
しかし、雀はそんな威圧感などどこ吹く風で、泥だらけの長靴のまま、東屋の石段をズカズカと登ってくる。
「えへへ、ごめんごめん! だって君、すっごくお肌が白くて綺麗なんだもん。あ、私、お父さんのお手伝いしてるんだよ!」
「……っ、来るな。それ以上僕に近づくな」
伊織は、本気で嫌悪感を露わにして一歩下がった。
彼にとって、この庭は無菌室のようなものだ。そこに、泥と汗を煮詰めたようなこの生き物が入ってくること自体が、耐え難い侵食だった。
「お前のその汚らしい靴で、この石を汚すな。今すぐ僕の視界から消えろ」
五歳の子供が放ったとは思えない、絶対零度の声。
使用人であれば、その冷たさに震え上がり、土下座をして許しを乞うだろう。伊織の瞳には、明確な拒絶と冷酷な光が宿っていた。
だが。
「……そっかぁ。君、ひとりぼっちで寂しかったんだね」
「…………は?」
雀は、泥のついた手で自分の顎を撫でながら、うんうんと深く頷いた。
「このお庭、すっごく広いもんね。こんな広いところで一人で本なんて読んでたら、そりゃあ寂しくて怖い顔にもなっちゃうよ。よし、私が一緒に遊んであげる!」
「どこをどう解釈したらそうなる!? 僕は一人でいるのが好きなんだ!」
「かくれんぼする? それとも、あっちでダンゴムシ集めよっか!」
「誰がそんな不衛生な遊びをするか!!」
伊織の怒号は、初夏の青空に虚しく吸い込まれていった。
雀の瞳には、怒りで顔を真っ赤にしている伊織の姿が、「強がっているけど本当は遊びたい、寂しがり屋のお友達」にしか映っていないのだ。彼女の思考回路は、伊織の常識が及ばない場所に存在していた。
「あ、そうだ! ちょっと待っててね!」
雀は何かを閃いたように走っていき、すぐにまた戻ってきた。
その泥だらけの手のひらに乗っていたのは、不格好な「泥の塊」だった。
「はい、これ! お近づきのしるし!」
「な……っ」
「私特製の、ピカピカ泥だんご! まだ乾いてないけど、すっごく丸くできたんだよ。あげる!」
湿った泥の匂いが、伊織の鼻腔を容赦なく殴りつけた。
伊織は、怒りと屈辱でわなわなと肩を震わせた。
「……ふざけるな」
「え?」
「そんな汚らしいゴミを、僕の領域に持ち込むな!! 今すぐ捨てろ!!」
伊織が手でバンッ!と強く払いのけると、雀の手からこぼれ落ちた泥だんごは、綺麗に掃き清められた石畳の上にベチャリと落ちて、無惨に砕け散った。
一瞬の、静寂。
伊織は荒い息を吐きながら、雀を睨みつけた。
(……これでいい。これで、このサルも自分がどれほど不快な存在か思い知って、泣いて逃げていくだろう)
だが、雀は泣かなかった。
足元に散らばった泥の残骸をじっと見つめ、それからパチクリと瞬きをして、伊織の顔を見上げた。
「……あーあ。壊れちゃった」
「っ、自業自得だ。二度と僕の前に現れるな」
「そっかぁ。君、泥だんごより『お花』の方が好きだったかぁ。女の子みたいだもんね! ごめんごめん、次はいっぱいシロツメクサ積んでくるね!」
「話が通じていないのか貴様は!!!」
「すずめー! 水やり終わったかー?」
「あ、お父さんが呼んでる! じゃあね、綺麗なお姫様! また明日遊ぼうね!」
雀は嵐のように現れ、そして、伊織の拒絶を一切合切聞き流したまま、嵐のように去っていった。
一人残された東屋には、砕け散った泥の跡と、これまでにないほど激しい伊織の苛立ちだけが残されていた。
「……鬱陶しい。本当に、鬱陶しい」
伊織は足元の泥を忌々しげに睨みつけながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
しかし、伊織はまだ知らなかった。
この日、書斎では祖父が、この無礼な野生児に「紺碧の制服」を与え、伊織と同じ学び舎へ放り込むことを決定していたことを。
完璧な箱庭が、泥だらけの侵入者によってゆっくりと塗り替えられていく。
氷の王子の「静寂」が、決定的に崩壊する日は、もう目前に迫っていた。




