第19話:この胸のざわめきは、きっと知恵熱のせいだ
翌朝。
私立住菱初等部の教室の重厚なドアを開ける直前、住菱伊織は小さく、しかし重い溜息を吐いた。
(……今日もまた、あの泥ザルが休むようなら、昨日手配した専属医の解雇を検討しなければならない)
陰鬱な気分で教室に足を踏み入れる。
真っ先に伊織の視界に飛び込んできたのは、自分の右隣にある「空席」だった。
そして、伊織の登校を待ち構えていたかのように、甘ったるいハンドクリームの淀みを漂わせた紺碧の群れが、獲物を狙う猛禽類のようにジリジリと距離を詰めてくる気配がした。
「伊織様、おはようございます。今朝も……」
令嬢の一人が、媚びを含んだ声で伊織にすり寄ろうとした、まさにその時である。
「あーーっ!! 伊織ちゃーん!! おっはよー!!」
ガラッ!!と、教室の扉が、蝶番が吹き飛ぶのではないかという勢いで開け放たれた。
「ひぃっ!?」
令嬢たちが悲鳴を上げて飛び退く。
そこには、麦わら帽子を背中にぶら下げ、紺碧のブレザーを無造作に腰に巻きつけた、泥だらけの野生児――雀が立っていた。
両手には何故か特大の松ぼっくりを抱え、頬には真新しい絆創膏。そして、昨日一日学校を休んでいたことなど微塵も感じさせない、太陽のように満開の笑顔。
「あ……」
伊織は、その姿を見た瞬間。
昨日からずっと胸の奥底で渦巻いていた、あの鉛のように重苦しい飢餓感と、肺にこびりついていた人工的な油脂の匂いが、嘘のようにスゥッと消え去っていくのを感じた。
「すずめ、完全復活! もうお熱ないよ!」
ドンッ!と無遠慮な足音を立てて、雀が伊織の右隣の席に陣取る。
むわっと、お日様の熱と、青草と、湿った土の匂いが教室に広がった。
その瞬間、伊織を囲もうとしていた令嬢たちが「泥が飛ぶわ!」「不用意に近づかないで!」と、蜘蛛の子を散らすようにサァァァッと後退し、完璧な「十メートルの結界」が再構築された。
(……空気が、澄んだ)
伊織は、ゆっくりと自分の席に腰を下ろした。
あれほど不快だった教室の空気が、雀の放つ生命力の匂いによって一瞬で浄化され、深く息が吸えるようになっている。
「あのねあのね、昨日ね、すっごく怖い顔したメガネのおじちゃんがお家に来てね、甘くておいしいお薬くれたの! 伊織ちゃんが呼んでくれたんでしょ? ありがとう!」
雀が身を乗り出して、泥のついた手で伊織の袖を引っ張ろうとする。
伊織は咄嗟に「気安く触れるな!」と腕を引いたが、その声にはいつものような絶対零度の殺気はこもっていなかった。
「……勘違いするな。優秀な『防波堤』に穴が空いたままだと、僕の思索の環境が著しく損なわれる。道具の修繕をさせただけだ。……二度と休むな」
伊織はふいっと端整な顔を背け、鞄から洋書を取り出した。
冷たい言葉とは裏腹に、伊織の指先は、昨日とは打って変わって驚くほど滑らかに紙面を開いている。
「えへへ、わかってるよ! 私は伊織ちゃんを守る最強のかかしだもんね! まかせて!」
雀はドンッと胸を叩き、そしていつものように、絶望的に音程の崩れた鼻歌を「ふふふーん♪」と歌い始めた。
(……うるさい。相変わらず、耳を塞ぎたくなるような悪声だ)
伊織は活字に視線を落としながら、心の中で悪態をついた。
悪態をついた、はずだった。
ドクン。
不意に、伊織の胸の奥で、大きな音が鳴った。
それは、昨日までの「苛立ち」からくる動悸ではない。
すぐ隣から聞こえてくるやかましい鼻歌と、土の匂い。ただそれだけで、どうしようもないほどの安堵感と、胸の奥が熱く粟立つような不思議な高揚感が押し寄せてきたのだ。
(……なんだ、これは)
伊織は、洋書を持つ手をピタリと止めた。
顔が熱い。喉の奥が、ひどく渇く。
心臓が、いつもよりずっと早いリズムで脈を打っているのがわかる。
「……」
伊織は、氷のように冷ややかな無表情を必死に保ちながら、そっと自分の左胸に手を当てた。
天才・住菱伊織の完璧な頭脳が、この前代未聞の「身体の異常」の理由を、猛スピードで弾き出していく。
(心拍数の増加、体温の上昇、そして顔の火照り。……なるほど)
伊織は、一つ深く息を吐き出し、隣で鼻歌を歌う雀を横目で睨みつけた。
(この泥ザルが、病み上がりで不衛生なまま登校してきたせいで……僕に『知恵熱の菌』がうつったんだ。間違いない。この胸のざわめきも、異常な動悸も、すべてはウイルスのせいだ)
見事なまでの、天才的な勘違い。
伊織は、自分が「雀の存在そのもの」に強烈に安堵し、執着し、心を揺さぶられているという事実を、完璧な論理武装という名の滑稽な言い訳によって「感染症」として処理してしまったのだ。
「……おい、雀」
「ん?」
「……僕の方に向かって息を吐くな。菌がうつる」
「えー!? もうお熱ないもん! 元気だもん!!」
「口を閉じろと言っているんだ馬鹿者!」
伊織の怒号が響くが、その声にはどこか、熱を持ったような微かな揺らぎがあった。
知恵熱のせいだ。熱のせいで、調子が狂っているだけだ。
伊織はそう自分に言い聞かせながら、再び洋書に視線を落とした。
隣からは、相変わらず的外れな鼻歌が聞こえてくる。
その無秩序な音色を背景音にしながら、伊織は無自覚なまま、初夏の柔らかな日差しの中で、人生で最も安らかな読書時間を過ごしていた。
氷の王子が、「初恋」という名の重い熱に侵され始めていることに、気づく者はまだ誰もいなかった。




