第18話:防波堤の消失と、鬱陶しい花の匂い
放課後を告げる、アンティーク・ベルの重厚な音が初等部の校舎に鳴り響いた。
いつもなら、この鐘の音とほぼ同時に、伊織の右隣の席でけたたましい物音が起きる。
泥だらけの野生児――雀が、教科書も筆箱も、ぐしゃぐしゃになったプリントもすべて鞄に力任せに押し込み、ガタッと乱暴に椅子を鳴らして立ち上がるのだ。
『じゃあね、伊織ちゃん! かかしの任務、今日はここまで!』
そして、お日様の熱と湿った土の匂いを撒き散らしながら、嵐のように教室を飛び出していく。
その騒がしさと土埃を、伊織はいつも「野蛮で品性の欠片もない」と氷のような目で見送っていた。
しかし、今日。
伊織の右隣にある空席は、微かな埃すら立てることなく、ひっそりと静まり返っていた。
「……伊織様。放課後のお茶会はいかがでしょうか。わたくしたち、伊織様のために特別な茶葉を……」
「お車が来るまで、ご一緒にお待ちしてもよろしいでしょうか?」
ベルの余韻が消えるか消えないかのうちに、伊織の席は甘ったるい嬌声に包囲された。
「泥の防波堤」が不在の今日、紺碧の制服の群れは昼休みからずっと、この「伊織様に近づける千載一遇の好機」を虎視眈々と狙っていたのだ。
(……最悪だ)
伊織は、ゆっくりと洋書を鞄にしまいながら、微かに眉間を歪めた。
薔薇、百合、ジャスミン。
令嬢たちが塗りたくったハンドクリームの淀みが幾重にも混ざり合い、ひどく暴力的な匂いとなって伊織の肺を侵食してくる。息を吸うたびに、喉の奥がベタつくような不快感があった。
「……退け」
伊織が立ち上がり、絶対零度の声で低く言い放つ。
しかし、今日一日「泥の恐怖」から解放されていた令嬢たちは、少々の冷たい言葉では引き下がらなかった。
「ああっ、その冷徹なお声も素敵ですわ……! どうか、少しだけでも」
「わたくし、伊織様のお鞄をお持ちしますわ!」
「僕の私物に気安く触れるな!!」
空気が、凍りついた。
七歳児とは思えぬ、明確な「殺気」すら帯びた伊織の怒号。
鞄に手を伸ばしかけた令嬢は、ビクッと肩を震わせ、顔面を蒼白にして数歩後ずさった。
「ひぃっ……!」
「……僕の動線を塞ぐな。二度と言わせるなよ。お前たちのその耳障りな声も、品性を疑うような油脂の匂いも、すべてが僕の思考を著しく阻害する。……視界から消えろ」
伊織は、恐怖で身を寄せ合う令嬢たちを一瞥もせず、氷のように冷ややかな歩みで教室を後にした。
***
「……伊織坊ちゃま。随分とお疲れのようですね」
正門に横付けされた黒塗りの高級車の後部座席に滑り込んだ瞬間、有能な秘書である千堂が、バックミラー越しに声をかけてきた。
「……息が詰まりそうだっただけだ」
伊織はネクタイを少しだけ緩め、深く革のシートに身を沈めた。
スモークガラス越しに、校門を出ていく生徒たちの姿が見える。誰も彼もが、綺麗に整えられた制服を着て、上品に歩いている。
そこに、麦わら帽子を被って泥だらけで走り回る、あの異物のような少女の姿はない。
(あの泥ザルがいないだけで、この学び舎がここまで不快な空間に成り下がるとは)
伊織はギリッと奥歯を噛み締めた。
雀の放つ、青草と湿った土の匂い。
それは、令嬢たちの毒々しいハンドクリームを中和し、伊織の絶対領域を清浄に保つための、完璧な防壁として機能していたのだ。
いや、違う。便利な道具などではない。
伊織の胸の奥で、もっと根本的な、説明のつかない黒い感情が渦を巻いている。
『かかしの任務、今日はここまで!』
あの、間の抜けた的外れな声が聞きたい。
自分の絶対零度の拒絶を、満面の笑みで爽やかにすり抜けてくる、あの異常なまでの熱に触れたい。
(……馬鹿な。僕が、あの不衛生な野生児を求めているだと? あり得ない。僕はただ、あの鬱陶しい連中を遠ざけるための効率的な防壁を失って、苛立っているだけだ)
伊織は、必死に自分の心に蓋をした。
天才的な頭脳が弾き出す「合理的な言い訳」が、音を立てて崩れ落ちそうになっているのを、必死に繋ぎ止めようとしていた。
伊織は、冷たい窓ガラスに熱を帯びた額を押し当て、感情を殺した声で千堂に命じた。
「千堂。……明日、あの庭師の娘がまた休むようなら、本邸の専属医を向かわせろ」
「専属医、でございますか? 雀様はただの知恵熱とのことですが」
「構わない。……優秀な『防波堤』には、一日でも早く復帰してもらわなければ、僕の思索の時間が奪われて非常に不愉快だからな。あくまで、僕の環境維持のための投資だ」
「……かしこまりました。手配しておきましょう」
千堂は、鉄面皮の裏で「また見え透いたポンコツな言い訳を」と呆れながらも、恭しく首を垂れた。
夕暮れが迫る車内で、伊織は自分のブレザーの胸ポケットの上から、そっと手を当てた。
昨日からずっと入れっぱなしにしている、純白のシルクのハンカチ。あの一本のシロツメクサを包み、ほんの僅かに土の匂いが移っただけの布切れ。
それが放つ微かな泥の匂いだけが、今の伊織にとって、唯一の「呼吸できる酸素」になっていた。




