第17話:静かすぎる右隣と、まったく進まない洋書
私立住菱初等部の教室は、最高級の調度品で統一された、まるで高級ホテルのラウンジのような空間である。
午後の自習時間。静まり返った室内には、上質な万年筆が紙を滑る微かな音だけが響いていた。
住菱伊織は、窓際の自分の席で深く背もたれに寄りかかり、手元の洋書を開いていた。
(……素晴らしい環境だ。これこそが、本来あるべき学び舎の姿だ)
伊織は、氷のように冷ややかな無表情のまま、心の中でそう呟いた。
彼の右隣の席。
そこは今、ぽっかりと空席になっている。
いつもなら、授業中であろうと自習中であろうとお構いなしに、泥だらけの野生児――雀が、消しゴムのカスを練って巨大な塊を錬成したり、教科書の隅に謎の生き物のパラパラ漫画を描いたりして、絶えず視界の端でちょろちょろと動いている場所だ。
今日、彼女は知恵熱で欠席している。
だからこそ、伊織の右隣には、特注の木製デスクと空の椅子だけが、あるべき姿で静かに佇んでいる。
(土埃の匂いもない。耳障りな鼻歌もない。僕の完璧な領域を脅かす不浄な要素は、今日に限っては完全に排除されている)
伊織は優雅に足を組み直し、洋書の活字へと視線を落とした。
……落とした、はずだった。
「…………」
三分後。
伊織の白く長い睫毛が伏せられ、その視線は、無意識のうちにスッと「右隣の空席」へと引き寄せられていた。
誰も座っていない、ただの木の椅子。
それを見つめている自分に気づき、伊織はハッとして眉間を寄せ、再び本に目を戻した。
(……何をしているんだ、僕は)
しかし、さらに五分後。
今度はページをめくろうとした指が止まり、伊織はまたしても右隣の空間を凝視してしまっていた。
(……おかしい。本当に、まったく活字が頭に入ってこない)
伊織は、苛立ちとともに小さく息を吐いた。
完璧な静寂であるはずなのに、少しも落ち着かない。
いつものように、視界の端でアホ毛を揺らしながらノートに落書きをしているあの泥ザルがいないだけで、空間全体の調律が決定的に狂ってしまったような、奇妙な違和感があるのだ。
「あの、伊織様……」
不意に、左隣の席から、甘ったるい声がかけられた。
クラスメイトの令嬢が、頬を染めてこちらを窺っていた。彼女の紺碧の制服からは、むせ返るような百合のハンドクリームの淀みが漂ってくる。
「今日は、お隣が静かでいらっしゃいますね。あのような平民がいなくて、伊織様もさぞかし清々されていることと……」
「……黙れ」
令嬢の媚びを含んだ言葉を、伊織は絶対零度の声で一刀両断した。
「ひぃっ……!」
「僕に話しかけるなと言っているだろう。それに、お前のその品性の欠片もない油脂の匂いは、僕の思考を著しく阻害する。今すぐ僕の風上に立つな」
血も凍るような冷酷な視線で射抜かれ、令嬢は涙目になって顔を伏せた。
教室の空気が、ピリッと張り詰める。
伊織はギリッと奥歯を噛み締め、乱暴に洋書を閉じた。
(……最悪だ。やはり、あの優秀な『防波堤』が機能していないと、こういう身の程知らずの有象無象がすぐに湧いてくる)
伊織は、自分の胸の奥で渦巻いているこの原因不明の苛立ちを、すべて「防波堤が壊れているせいで、他の連中が鬱陶しいからだ」という理屈にすり替えた。
だが、現実は違う。
令嬢に話しかけられるずっと前から、伊織はまともに本を読めていなかったのだから。
(あの泥臭い匂いがしない。ただそれだけで、この教室の空気がこんなにも無機質で、息苦しく感じられるなんて)
伊織は、机の上で組まれた、泥汚れなど一度も知らぬ冷たい己の指先を見つめた。
七歳の天才児の完璧な論理は、すでに根底から瓦解し始めている。
自分がどれほど、あのやかましくて泥だらけの存在の「熱」に安心を覚えていたのか。その事実を認めることができず、伊織はただ、空っぽの右隣の席を忌々しげに睨みつけることしかできなかった。
(……早く治せ、馬鹿者。明日も休むようなら、僕の精神衛生に深刻な支障が出る)
氷の王子が、自らの無自覚な「執着」と「飢餓感」に、少しずつ追いつめられていく。
静かすぎる教室で、伊織の苛立ちは募るばかりだった。




